話題沸騰、たちまち重版記念! 水村舟『県警の守護神 警務部監察課訟務係』ためし読み
千隼は子どもに戻っていた。
山奥の駐在所が千隼の住まいだ。
父と母のどちらも警察官。顔がぼやけて像を結ばないけど、凜々しい制服が憧れだった。
──私もなりたい、どうすればその制服をもらえるの?
なんという答えが返ってきただろう。勉強して、たくさん食べて、体を鍛える。そして、嘘をつかず、いつでも正しいことをしなさい、と……
時たま、うっすらと目を開ける。
看護師らしき人が動き回っていて、ひとりが自分を覗き込んでいる。ああ、病院にいるんだな、と思う。
すぐにまた目を閉じる。
眠っているのに、記憶が逬っていく。
自転車で山を駆け下りるときの風。上るときの苦しさ。駐在所に帰り着いた時に飲む冷水の美味しさ。
スクールバスが駐在所まで来ていなかった。だから、どんな天気の日でも、学校まで、往復三時間の山道を自転車で駆けた。
高校で勧誘されるままに自転車部へ入ると、あっという間に全国トップクラスへ。だけど、競技場で感じる風はどこか刺々しくて、好きじゃなかった。
自転車部の顧問だった楢崎先生。
好きな先生だったのに、警察官採用試験に落ちたことを報告したとき、一瞬だけ笑顔になったのが忘れられない。すぐに競輪選手の試験を受けさせられて……
悪寒が走る。大量の汗で全身が湿って気持ち悪いのに、体が動かない。逃れたくて千隼は呻いた。
競輪選手になってからの記憶は、霧に包まれたように不鮮明だ。
上半身を小刻みに揺らしながら、レーサーのペダルを踏み込む。全力でもがいて先を行く選手を右側から一気に抜き去る。
ゴールを通過した後は、顔を伏せる。
レースが終われば、必ず、賭けたお金を失った人がいる。勝っても負けても、誰かに不幸を届けてしまっている。フェンスの向こうから「無敵のハヤブサ!」と声を掛けられても、絶対にお客さんの方を見たくなかった。
こんなことを幾度繰り返しただろう。
トップスターとしてもてはやされるたび、憧れだった両親の背が遠くなるような気がした。
ケイリン競技の日本代表に選ばれ、オリンピックで三位入賞。
競技を続けてきてよかった──と感極まったのも束の間、生活が一変した。メディアへの露出量が桁違いに増え、街中で声をかけられたり、無断でスマホを向けられるようになり、息苦しさに耐えきれず、逃げるように辞めた。
そこから急に霧が晴れ、記憶が鮮やかになる。
受験勉強も頑張ったけれど、警察は、銅メダリストを採用試験で落とすことはなかった。
警察学校で過ごして、乙戸交番でお巡りさんになって──
回り道したけれど、やっと警察官の制服をもらえたんだ。
寝ている暇なんて、あるものか──
千隼は瞼に力を入れ、目を開けた。
焦点が合わず、視界がぼやける。
起き上がろうとすると、看護師が気づいて歩み寄ってきた。
「だめですよ、寝ていてください」
「ここはどこですか。今、何時ですか」
声が小さく、かすれていることに驚いた。右半身の感覚が鈍い。痺れがあり思うように動かない。看護師が優しく手を添え、千隼を再びベッドに横たえた。
医師が早足で病室に入ってきた。
「自分の名前を言ってください。年齢はいくつですか。こちらの言っていることがわかりますか」
「私、仕事に戻らないと。すみませんが、H署に連絡してください」
「何があったか、覚えていますか」
「……事故に遭ったような?」
「そうですよ。やっと意識が戻って、我々もひと安心です」
首を動かす。壁にカレンダーを見つけた。物の見え方がおかしくて、数字が二重にだぶって見える。ようやく読み取ることができたとき「あっ」と小さく叫んだ。年が変わって一月になっている。
「やばっ。私、どれだけ仕事を休んじゃったんだろう。すぐ退院します」
「だめですよ。右肩の骨折、打撲、擦過傷などが治るまで、二か月は加療を要します。それに、頭部を強く打ったようなので、入院したままで経過観察しますから」
再び首を動かして、自分の体を見る。右肩や脚のほか、頭にも包帯が巻かれている。
医師に左袖をまくられ、注射を打たれた。急にまた眠気が襲ってきた。
「あの……私、警察官なんですけど、治ったら仕事に戻れますよね」
「きっと大丈夫ですよ」
眠気に抵抗できず、千隼は目を閉じて眠りに落ちた。
『県警の守護神 警務部監察課訟務係』
水村 舟
水村 舟(みずむら・しゅう)
旧警察小説大賞をきっかけに執筆を開始。第2回警察小説新人賞を受賞した今作『県警の守護神 警務部監察課訟務係』でデビュー。