こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』最初の1篇(+α)まるごとためし読み!
その日は朝から、五月も半ばを過ぎたとは思えないくらい冷え込んだ。前日に大陸から寒気が流れ込んできたらしい。そのせいもあって、布団の中でいつもより一時間以上早く目を覚ましてしまった。二度寝しようにもなかなか寝つけず、そのまま登校することにする。
一番乗りだろうと思って教室の戸を開けると予想に反して、見覚えのあるショートボブの横顔が、問題集と睨めっこしていた。
「あれ。おのちん、早いね」
「そっちこそ」
おのちんはそう言って、すぐに机に向き直った。おのちんは休み時間も、気がつくと教科書やら単語帳やらを開いている。おのちんの家は親が厳しいらしい。以前おのちんに、部活との両立は大変じゃないかと聞いてみたら、帰宅部だと塾に入れられそうだったから、それに反抗するために無理矢理部活に入った、と言っていた。だから、忙しいのは覚悟の上、らしい。
いつもこんな時間に登校してるの、と聞くと、おのちんは首を振って、今日はたまたま、とだけ答えた。しばらくの間、おのちんがノートに文字をかきつける音だけが教室に響いた。
邪魔しちゃ悪いかな、と思ってちらちら様子を窺っていると、おのちんはそれに気づいたのかくすりと笑って、こっちに座れば、と顎をしゃくった。ありがたく前の席に座らせてもらうことにする。
「この前ありがとね。それから、来月のイベントのことも」
おのちんがペンを止め、ああ、と顔を上げた。
「お姉さんにもお礼言っておいて」
「おっけー。伝えとく」
おのちんのお姉さんは重度のアニメオタクで、「月面のアトランティス」をメインに活動している社会人コスプレイヤーだ。結婚か何かですでに実家を出ていて、今は県外で暮らしていると聞いた。お姉さんとはひとまわり以上年が離れていることもあって、おのちんにとっては実の姉というより、年上のオタク友達みたいな存在らしい。そのお姉さんの計らいで、あたしと琴ちゃん・おのちんの三人は、来月隣町で開催されるコスプレイベントを見学させてもらうことになった。
「ほんと楽しみ。あたし達、ふつうの服着て行っていいの? 周りがそういう格好してるなら、逆に浮いちゃうかな」
「なんか、意外」
「え?」
「さきって、そういうの興味あったんだ」
「そういうの、って」
「だから、コスプレとか」
「あ、いや。興味ってほどじゃないけど……」
「でも、あの部屋見せて欲しいって言ったのもさきからだったでしょ?」
さきって普段はそういうこと言わないから、びっくりしちゃった。屈託のない笑顔でそう言われて、返す言葉に詰まってしまった。
『うちのお姉ちゃんの部屋、ヤバいんだよね。昔の衣装とか。ほら、あの人本職のレイヤーだから』
先週、琴ちゃんと一緒におのちんの家に遊びに行かせてもらった。その時に無理を言って、こっそり部屋の中に入れてもらったのだ。琴ちゃんは用事があるとかで早目に帰っていたから、人目を気にせず頼みやすかったというのもある。
「入ってみて、どうだった?」
そう聞かれて、あの部屋をどう表現したものか言葉に迷っていると、おのちんが「気ぃ遣わなくていいよ」と笑った。
「ぶっちゃけ、ひいたでしょ」
「全然! そりゃ、ちょっとはびっくりしたけど。逆に、うらやましくなっちゃった」
「え?」
「あたしもおのちんみたいに、趣味の合うお姉ちゃんが欲しかったな」
それを聞いたおのちんが、そんなにいいもんじゃないよ、と苦笑いする。きりがよかったのかペンを止め、よし、と言ってノートを閉じた。そのまま、顔を上げて伸びをする。
「あれ。おのちん、髪切った?」
「うん。昨日、美容院で整えてもらったんだ。伸ばそうかなと思ってたけど、やっぱやめた。鬱陶しいんだもん」
「へえ。おのちんのロング、見てみたいけどな」
「さきはもう、髪結ばないの?」
「え?」
「ちょっと前までは、よく二つ結びにしてたじゃん。あれ、かわいかったのに」
「……身長伸びてから、あんま似合わなくなっちゃって」
今年の身体測定で、あたしは去年より六センチ背が伸びた。ママの背丈はとっくに追い越してしまったし、クラスでも女子の中では上から数えた方が早い。
「そう? ふつうに似合ってたと思うけどな」
したい髪型、すればいいのに。おのちんはそう言って、脇に置いていたトートバッグを膝の上に乗せ、机の上を片づけ始めた。
正直、背が伸びたところでいいことなんて一つもない。体の節々に違和感があるし、夜中になると膝が痛んで寝ていられない。今日みたいに寒い日は、特に。こういうのを、成長痛っていうらしい。保健の教科書には十二歳頃までと書いてあったけど、あたしの成長はいつになったら終わるんだろう。そのせいで、服も髪型も似合わなくなったものばかりだ。でも、二つ結びをやめた理由はそれだけじゃない。
「あの子も、同じ髪型してたよね」
え、と顔を上げると、おのちんは手を動かしたまま、ほらあの子、と繰り返す。
「この前、廊下でさきに声かけてきた子」
その瞬間、あの時のことがまるでついさっきの出来事のように脳裏に蘇った。
『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ
こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。