新刊『リングサイド』収録▷「ばあちゃんのエメラルド」まるごとためし読み!

新刊『リングサイド』収録▷「ばあちゃんのエメラルド」まるごとためし読み!

 俺は、アメリカン・プロレスを比較研究の対象として観ていたわけだが、そこでの最大の収獲は、試合の実況中継をする台湾のアナウンサー、オレンジのことを知ったことだな。オレンジの実況があると、完全に試合に没入することができた。適切な場所で知識を補足してくれたり、ジョークを混ぜたりもしてくれた。でも彼はその後、なぜか姿を消してしまった。LV電視台は、プロレスが全くわかっていない自社のメインスポーツキャスターを代役に立てたけど、番組全体の質はすっかり落ちてしまった。

 オレンジがなんで消えてしまったのか、俺もよく知らない。ただ、残念に思うだけだ。オレンジの実況は、日本のアナウンサーに絶対に引けを取らなかったと思う。でも、プロレスファンの夢のような仕事ができて、彼も幸せだったんじゃないかな。

 
 幸せってことで言えば、何年遅れかでようやくあのことを知った俺は、あの時の台湾で最も不幸なプロレスファンだったと思う。

 どのくらい不幸かって? 例えばある日、船から降りていそいそ家に帰ってきたら、女房が消えているのを発見した。これは一番目の不幸だよ。そのあと村の人たちとしゃべってたら、自分は村で女房に逃げられた唯一の男ではないことを知ってしまう。二番目の不幸だな。そんで、だんだん事情がはっきりしてきたら、女房はあんたが前回海に出て何日もたたないうちに逃げちまっていたことを知った。これが三番目の不幸だ。三重の不幸だよー。あ、そう言えば、三重(サンチョン)って台北市だっけ? それとも新北市だっけ?

 はぁ……、何にせよ、俺はかなり後になってようやく知ったんだ。

 俺とばあちゃんのアイドル、三沢光晴は──、
 

 ──とっくの昔に亡くなっていたんだよ。
 

 2009年6月13日、三沢光晴自らが創立した団体「プロレスリング・ノア」が、広島県立総合体育館で試合を行った。2300人の観衆が見守る中、この日、三沢光晴が後輩の潮崎豪と組み、死神の異名を持つチャンピオンコンビ、齋藤彰俊とバイソン・スミスに挑戦するGHCタッグ選手権試合だった。

 三沢光晴は、試合の中で齋藤彰俊が繰り出す鋭い角度でのバックドロップを受け、マットに沈み、起き上がることができなくなった。レフェリーがすぐに、動けるか? と三沢に尋ねた。「動けねぇ」との言葉を残して、三沢光晴は意識不明に陥り、心肺が停止した。レフェリーは、状況から王者・齋藤彰俊とバイソン・スミスの防衛成功と判定した。そこにいた誰もが驚愕していた。受け身の天才である三沢光晴が、ごくありふれたバックドロップに陥落するなんて。この日、ノアのリングには医療スタッフは配置されていなかった。医療の心得のある観客がリングに上がり、しばらく心臓マッサージを施したが効果はなかった。救急車が会場に到着し、三沢社長を広島大学病院に搬送した。夜十時十分、病院が三沢光晴の死亡を宣告した。彼が47歳の誕生日を迎える5日前のことだった。

 長年のリングでの激戦を経て、晩年のミサワは頸椎骨棘の異常を抱えていた。その影響で、右目は時おり、原因不明の失明状態に陥ることがあった。肩や腰、そして膝は、慢性病のように繰り返し故障と痛みを引き起こした。事情をよく知る近しい人たちは、彼に休養をとるように勧めたが、三沢光晴は聞き入れなかった。彼は、他の先輩レスラーたちのように、キャリアの後半で団体を創立し、裏方にひっこんで楽をするようなことはしなかった。プロレス団体を設立して以来ずっと、彼はマネージャーであると同時にプレイヤーでもあり、日本各地での巡回試合に頻繁に出場し続けた。

 
 プロレスは〝芝居〟じゃないかって? だったら、どうしてあんなことが……?

 日本プロレスのファンなら、難度の高い飛び技を得意とするハヤブサ選手のことを知っているだろう。リング上の事故で頸椎を痛め、半身不随になった。でもハヤブサ選手は諦めずにリハビリを続けた。一年一年、彼が少しずつ回復しているニュースが伝えられた。でも結局、ハヤブサ選手は二〇一六年三月、急性くも膜下出血で倒れ、四十七歳で他界した……。

 プロレスは〝芝居〟じゃないかって?

 俺は広島の事故直後の映像を何度も観たよ。選手とスタッフが全員で社長を取り囲み、観客はいつまでも三沢の名前を叫んでいた。心臓マッサージをする人は、全く反応のない三沢光晴の胸をいつまでも押し続けた。まるで時間が少しも前に進んでいないみたいだった。その前に試合を終えていた高山善廣選手が、コスチュームのまま、茫然とした表情で休憩場所からリングに歩み寄った。

 かつて、高山善廣は三沢光晴のことを「ゾンビと同じだ」と評したことがある。試合中、これで決まりだ、絶対に俺の勝ちだ、と思っていると、ホールド二・九九九九九……秒で、三沢は弾けるように起き上がって、すでに十分引き上げてある緑色のロングタイツを何度か引っ張り上げる──これはプロレスファンの間でよく話題になる三沢光晴のしぐさで、俺たちは「リカバリー」って呼んでた。そして何事もなかったように、強烈なエルボー攻撃を見舞ってきて、試合を続行するのさ。

 俺は、高山善廣選手が黙ってリングサイドに立っているのを見た。彼は、かつて何度も自分を攻撃してきた男が、下半分は緑色、上半分は、次第に血の気が引いていく肉色のマシュマロみたいになって、自らのすべてをかけて築いたリングの上に、ピクリともせずに横たわっているのを信じられない面持ちで眺めていたよ……。

 
 ……ティッシュくれてありがとう。

 俺は泣きながら、三沢の告別式の後に、日本のテレビ局が放映した追悼特別番組をネットで観た。三沢光晴の生涯の名試合をふりかえる一時間の番組で、半分以上は俺とばあちゃんが何度も繰り返し観たことのある試合だった。ばあちゃんに大声で夕飯に呼ばれたけれど、俺は腹痛のふりをした。俺を心配してしきりにそばに寄って来る来福の首輪をつかんで部屋から追い出し、静かにドアを閉めた。

 俺がWWEのことを何て揶揄してたか覚えてる? 選手を守るために、派手な技がいろいろ制限されてるって。掲示板でも、俺はよくこの点を挙げて、アメリカン・プロレスのファンをからかっていた。でも突然、自分は何もわかってなかったってことに気が付いた。

 プロレスを観てきて、レスラーの平均的な寿命が一般の人より短いことは知っていた。それは結局、長年リングの上で肉体を酷使してきたことへの、逃れることができない代償なんだ。リング上での死は、武士が戦場で散るのにも似て美しいようにも思えるけど、実際はやっぱり痛すぎる。俺はできればレスラーたちが無事に引退して、残りの人生を穏やかに歩んでほしいと願ってるよ。

 
 はあ……。孫としてさ、このことをばあちゃんに伝える責任があるとは思うけど、ばあちゃんが受け止めきれないんじゃないかと心配だった。俺だって受け止めきれないんだ。このままばあちゃんを騙し続けたほうがいいんじゃないのかな?

 ときどき思うよ、一生、三沢光晴が死んだことを知らないままでいられたら良かったって。ばあちゃん、今日もまたミサワの試合があるよ! 何も考えずに、俺の一番好きなエメラルドが、テレビの中のリングでキラキラ光を放つのをたっぷり楽しむんだ。三沢光晴がくいくいっとタイツの端っこを引っ張れば、それが反撃の合図だぜ。いいぞ!

 
 掲示板で、また一人、またレスラーの訃報が伝えられた。台湾のプロレスファンの間ではそれほど有名じゃないメキシコのプロレス団体AAA(Asistencia Asesoría y Administración)からデビューしたレスラー、ペロ・アグアヨ・ジュニアだ。

 彼の父親はメキシコプロレス界の伝説のレスラーで、そのリングネームを受け継いだんだ。メキシコではすごく人気のある中堅選手だった。二〇一五年三月二十日、試合はアメリカとの国境に近い街、ティファナで開かれ、その夜のメインイベントのタッグマッチだった。本来なら、大手メディアに取り上げられることがないニュースだったが、世界中の主なメディアがこぞって報道した。対戦相手の一人が、世界的に有名なWWE選手、レイ・ミステリオだったからだ。レイはたぶん、史上もっとも有名なメキシコ系覆面レスラーだろう。身長は一六〇センチちょっとしかなかったけれど、アメリカ生まれだったから、多くのメキシコ人レスラーが直面する言葉の問題がなく、アメリカのプロレス界で二十年にわたって活躍した。

 試合中、レイはペロにフライングキックを見舞った。ペロはそれを食らってセカンドロープにうつむけに倒れ込み、レイが次に繰り出す大技に備えているようだった。だが、チームメイトと対戦者は、彼が単にうつむいているのではなく、全身の力が抜けてぐんにゃりとロープにひっかかっていることに気が付いた。選手たちはすぐに試合の流れを調節して、ペロのパートナーを負かして試合を終わらせた。まずいことに、医者はバックヤードにいて、その前の試合で負傷した二人の選手の治療にあたっていたから、ペロの命を救えるゴールデンタイムを逃してしまった。ようやく救命処置がとられた一時間後、ペロ・アグアヨ・ジュニアの死亡が宣告され、彼は三十六歳でこの世を去った。三沢光晴よりまだ十歳も若かった。

 



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リングサイド

『リングサイド』
著/林 育徳 訳/三浦裕子


 
林 育徳(リン・ユゥダー)
1988年台湾・花蓮生まれ。プロレスファン。花蓮高校卒業後3つの大学を転々とし、6年かけて卒業。東華大学華文文学研究所(大学院)で、呉明益氏に師事。中学時代から詩作を中心に創作活動を展開し、全国学生文学賞、中央大学金筆賞、東華大学文学賞、花蓮文学賞、海洋文学賞など受賞歴多数。『リングサイド』収録の短編《阿的綠寶石》(ばあちゃんのエメラルド)で、2016年第18回台北文学賞小説部門大賞受賞。『リングサイド』(原題:擂台旁邊)は大学院の卒業制作。現在も花蓮在住。

 
三浦裕子(みうら・ゆうこ)
仙台生まれ。早稲田大学第一文学部人文専修卒業。出版社にて雑誌編集、国際版権業務に従事した後、2018年より台湾・香港の本を日本に紹介するユニット「太台本屋 tai-tai books」に参加。版権コーディネートのほか、本まわり、映画まわりの翻訳、記事執筆等をおこなう。

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