著者の窓 第33回 ◈ 麻宮 好『母子月 神の音に翔ぶ』
キャラクターの心情に寄り添って
──『母子月 神の音に翔ぶ』は江戸歌舞伎の世界を描いた長編小説です。第1回警察小説新人賞受賞作『恩送り 泥濘の十手』(2022年)以上に、豊かな物語世界を堪能しました。
ありがとうございます。受賞のお知らせをいただいた1年半ほど前から書き始めて、『恩送り』の発売前には初稿ができあがっていたんですが、担当編集者さんにお送りしたらかなり厳しいご意見をいただきまして。2稿を提出してもやっぱり駄目で数日落ち込んだんですが(笑)、その際に「登場人物の心情にもっと寄り添って」というアドバイスをいただいたんです。無理にミステリーを書こうとせず、自分の得意なところで勝負しようと気が楽になって、多視点描写でさまざまな登場人物の心情を盛りこめるように改稿したんですね。この作品が上手くいっているとしたら、担当さんの助言のおかげです。
──といってもミステリー要素もあります。立女形の瀬川路京が舞台上で毒殺されるというショッキングな場面から幕を開け、この事件はなぜ起こったのかという謎が物語を引っ張っていきます。
やっぱり謎は物語の牽引力になってくれますから。いわゆるミステリーは自分には書けませんが、人の心には他人には分からない部分がたくさんあり、そこを掘り下げることで自分なりのエンターテインメントが書けるのではないかと思っています。この作品では(初代の実子である)円太郎の秘められた心の裡が少しずつ明かされていく、という展開になるよう意識しました。
──歌舞伎には以前から関心がおありだったのでしょうか。
いえいえ、恥ずかしいことに知識はまったくありませんし、生の舞台を見たこともありませんでした。歌舞伎を書こうと思ったのは『週刊誌記者 近松門左衛門』(小野幸惠著、鳥越文蔵監修)という本を読んだのがきっかけです。この本を読んで、近松門左衛門という人物に興味をそそられ、彼を題材に時代小説を書きたいと思ったのですが、調べてみると近松は経歴に不明点が多く、そのまま取り扱うのはわたしには難しかった。近松の書いた芝居は後の歌舞伎にも大きな影響を与えていることが分かったので、歌舞伎の世界を書くことにしたんです。
──歌舞伎の世界は専門用語が多いですし、取材が大変だったのでは。
知識ゼロからのスタートだったので、資料をたくさん読みました。でもわたしが詳しくないからこそ、歌舞伎に親しんでいない読者の気持ちが分かる。そこは分かりやすく書くうえで、プラスに働いたかなと思っています。坂東玉三郎さんなど現代の歌舞伎役者さんのインタビューや舞台映像も参考になりました。玉三郎さんのストイックな生き方には深い感銘を受けて、初代路京のキャラクターに反映させていただきました。
歌舞伎役者は神と人とを結ぶもの
──『東海道四谷怪談』が評判を呼んでいる文政8年(1825年)、落ち目の役者・二代目瀬川路京(与一)のもとに新たな芝居の話が舞い込みます。演目は34年前、初代路京が命を落として以来封印されていた『大川秋野待夜月(母子月)』。
江戸時代は約260年続きましたが、後期になるほど現代と感覚が近くなって、書きやすい気がします。歌舞伎が盛んになったのも文化文政年間ですし、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』が評判になったという史実が、盛りを過ぎた与一に再起のチャンスをもたらすという展開も面白いかなと思いました。『四谷怪談』は生まれて初めて映画館で観た映画ということもあって、個人的に思い入れのあるお芝居なんです。
──母親を失い、辛い生活を送っていた少年時代の与一は、初代路京に才能を見いだされ、芝居の道に入ることになります。物語は現在と過去を行き来しながら、与一の役者人生を描いていきます。
サブタイトルの「神の音」という言葉は、天から与えられた才能を象徴しています。与一はその音を聞くことができる選ばれた人物ですね。渡辺保さん(演劇評論家・歌舞伎研究家)の『女形の運命』という本によれば、歌舞伎には本来祝祭的な意味合いがあって、役者は神と人間の間に立つ巫女的な存在だったそうです。与一のキャラクターを作り上げていくうえで、この視点はすごく参考になりました。初代路京が「頭のてっぺんを糸で引っ張られていると思え」と与一にアドバイスするのも、舞台が天に通じているというイメージからきています。
──初代路京のもとに引き取られた与一は、みるみる才能を発揮していきます。初めて稽古場に呼ばれた与一が、聞こえる音のままに体を動かし、踊りの師匠を感心させる場面は印象的でした。
あのあたりは美内すずえさんの『ガラスの仮面』の影響が大きいかもしれません。子どもの頃からあのマンガが大好きで、大人買いして全巻手元に置いているんです(笑)。主人公の北島マヤが役に入り込んで、泥だんごを本物のまんじゅうのように食べるという有名なシーンがありますが、稽古場で自然に体が動いた与一もあんな感じなんだと思います。生まれついての天才なので嫉妬やマウンティングとも無縁、というのもマヤと共通していますね。
悪役をもっと魅力的に、というアドバイス
──与一の才能を開花させた初代路京、与一と友情を育む円太郎など、厳しい芸の世界で生きる人々の姿が鮮やかに描かれていきます。
初代路京を単なる芸の鬼として描いてはいけないなと思っていました。与一が円太郎以上の才能の持ち主であることは認めつつ、息子のことはとても大切に感じている。父と子の深い信頼関係が、読んでいる方にも伝わるようにと心がけました。気に入っているのは、自分の役の手ほどきを与一にするよう命じられた円太郎に、初代路京が「できるさ。おまえならできる」と優しい目で言い聞かせるシーン。書いていて涙ぐみそうになりました。
──その他にも、与一の成長を遠くから見守る半畳売りの佐吉、与一を目の敵にする円太郎の母・お玉など、忘れがたいキャラクターが数多く登場します。キャラクターを書き分けるうえで意識されていることはありますか。
キャラクターに限らず、読んでいて目に浮かぶような描写をすることは常に心がけています。あとはその人の本質的な部分が、物語の中でころころ変わらないようにする、ということでしょうか。人間なのでもちろん変化や成長はするのですが、基本的な部分はそれほど大きく変わらないと思うんです。この人はそんなことはしないだろうという行動は、たとえストーリー上の必要があったとしても、させないようにしています。
──役者になるという夢に挫折し、与一に憎しみをつのらせる直吉というキャラクターが特に気になりました。
わたしも一番好きなキャラクターなので、そう言っていただけると嬉しいです。初稿ではもっと薄っぺらな人物だったのですが、担当さんが「悪役をもっと魅力的に書いてください」とアドバイスをくださって、あらためて彼の人生に向き合うことになりました。考えてみると直吉はいろんな人物と対になるキャラクターなんですよね。闇があるからこそ光がいっそう輝くということもありますし、思っていた以上に重要なキャラクターだったのだなと思います。
──幼くして母を亡くし、尊敬する初代路京を失った与一は、大人になった今も深い孤独を抱えて生きています。しかし舞台で生きる彼にとって、孤独はなくてはならない感情でもあります。
生きていて誰しも孤独を感じることってあると思うんです。わたしも小説を書いている時に孤独をひしひしと感じますし、年齢的に死がそれほど遠くないことが分かっているので、死ぬ時は一人なんだろうなと考えたりもします。でも孤独と向き合うことはそれほど悪いことじゃない。一人でいることはよくないと言われたりもしますが、孤独だからこそ分かることもあるし、到達できる地点もあると思います。
WBC決勝戦から生まれたラストシーン
──物語のクライマックスはさまざまなドラマが交錯するなかで演じられる、『母子月』の舞台。まるで芝居小屋の客席にいるような臨場感を味わいました。
担当さんに駄目出しをもらった直後は落ち込んで、今だから言えますが泣いてしまったんです(笑)。ちょうどその頃、野球のWBCの決勝戦があって、日本代表チームの活躍を応援していたら、辛い気持ちがみるみる消えていったんです。こんなにすごい試合が見られるなんて、今の時代に生きていて幸せだなと心底思えた。江戸時代の人にとって、芝居小屋はそんな気持ちにさせてくれる空間だったんじゃないでしょうか。そう気づいたことで、ラストシーンが決まりました。これは天賦の才を与えられた与一の物語であると同時に、そうではない多くの人たちの物語でもあるんですね。
──麻宮さんにとって時代小説の魅力はどんなところですか。
時代小説は大人のファンタジーだという気がしています。この歳になると現代ものの恋愛小説はどうも心に入ってこないんですが、時代小説なら素直に楽しめる。あるいは幽霊が出てくるような話も、時代小説だと違和感なく書くことができます。時代小説はカタカナ語を使えないなどの縛りがある一方、現代ものにはない自由さもあると思います。たとえば与一のような孤児を登場させるにしても、現代だと法律的な問題がいろいろ出てくる。江戸時代だとそのあたりが書きやすいというメリットはありますね。
といっても読んでくださるのは現代人なので、テーマは今と響き合うものにしたいとも思っています。以前、澤田瞳子さんがおっしゃっていて感銘を受けたのですが、歴史時代小説の作者は過去と現在を結ぶ翻訳者のようなものではないでしょうか。
──これから『母子月』を手にする読者にメッセージをお願いします。
時代小説が読まれなくなったという話を、最近いろいろなところで聞きました。言葉遣いが難しいとか、生活スタイルが今と異なっているとか、理由はいくつかあるのでしょうが、時代小説ファンとして淋しい思いです。わたしの作品を読んで、時代小説も面白いじゃないか、と感じていただけたら光栄ですね。担当さんのアドバイスのおかげで、1年前のわたしでは書けない作品に仕上がったと思います。『恩送り』を読んでくださった方も、初めてという方もぜひ手に取ってみてください。
『母子月 神の音に翔ぶ』
麻宮 好=著
小学館
麻宮 好(あさみや・こう)
群馬県生まれ。大学卒業後、会社員を経て、中学入試専門塾で国語の講師を務める。2020年、第一回日本おいしい小説大賞応募作である『月のスープのつくりかた』を改稿し、デビューを飾る。2022年、『泥濘の十手』で第一回警察小説新人賞を受賞(刊行時に『恩送り 泥濘の十手』へ改題)。著作に、『月のうらがわ』(祥伝社)、『母子月 神の音に翔ぶ』(小学館)がある。