◎編集者コラム◎ 『パパイヤ・ママイヤ』乗代雄介
◎編集者コラム◎
『パパイヤ・ママイヤ』乗代雄介
『パパイヤ・ママイヤ』は、アルコール依存症の父親が大嫌いなパパイヤと、芸術家の母親に振り回されて育ったママイヤという二人の少女が主人公です。SNSで知り合った十七歳の彼女たちが直接会うために待ち合わせをしたのは、千葉県木更津市にある小櫃川河口干潟でした。
本作を書くにあたって20回以上もこの干潟に通ったという著者の乗代雄介さん。写真を撮ったり、風景を文章でスケッチしたり、乗代さんが歩いた軌跡がこの本にはたくさん詰まっていて、本作に出て来るほとんどのものが実際に存在していたのでした。怪しいフェンスの入り口に、小屋からお尻を出したヤギ、所ジョンが寝床にしていたコンクリート建造物の廃墟。ゲラ校正時に黄色い盤面のアダルトビデオのタイトルについて疑問を入れると、「でも、実際にあったんですよね……」と写真を送っていただき、「あっこれもなんだ」と驚いたのを今でも覚えています。
本作の舞台となった小櫃川河口干潟とは、東京湾に現存する最大の自然干潟で、植物や、野鳥、魚類、低生動物など数百種類もの生き物が生息する、自然界にとってとても貴重な空間なのです。
2022年4月23日、単行本の『パパイヤ・ママイヤ』を校了した頃に、私がこの干潟で待ち合わせをしたのは、数年ぶりに会う父でした。
親が嫌いという共通点で出会ったパパイヤとママイヤとは違い、自分の父親を千葉に住んでいるからという理由だけで呼び出してしまったことに、なんだかなと思う気持ちで目的地へ向かいました。父は既に到着していて、背中には大きなリュックと、そこから何故か2本のバドミントンのラケットが飛び出していて、父なりに楽しみにしてくれていたのかなとほっと一安心。
〝ようこそ小櫃川河口干潟へ!〟という看板がついた入り口のフェンスを見て、本当に入って大丈夫なのかと不安になる一方、私の頭の中には本作の冒頭がよぎり、そのまんまだ……と感動したのでした。
笹藪の間に空いた砂利道をふさぐように建っている灰色のフェンス。網目にはいくつかの案内板が備えつけてある。南京錠を付けた閂が通されているけれど、フェンスと藪の間には人が通れるぐらいの隙間があって、そばには「歩行者通路」と書かれた赤いコーンが置いてある。
(本文より)
砂利道を進むと人の背丈を優に超えるヨシが生い茂り、草陰からは何の鳥かわからない鳴き声が響いている。足元の石を上げると沢山の小さなカニたちが息をひそめていて、まるで私たち人間の侵入をどこかから見張っているかのような、そんな感覚になりました。
結局午前11時から16時くらいまで、ふらふら歩いたり、座ってただ風に当たったり、何をするでもなくただただ〝そこにいた〟という状態を過ごした私たちですが、その間に人を見たのは数回で、その人たちもふらっと現れては、やがて満足したかのように帰っていく、その繰り返しでした。
パパイヤとママイヤは待ち合わせ場所をこの干潟にしていなくても、二人にとってかけがえのない一夏を過ごしていたかもしれません。でも、ただただ過ごすことがゆるされるこの場所だからこそ、お互いの存在を見つめ合い、求めていったのかなと、数年ぶりに会う父を隣にしながら思うのでした。
『パパイヤ・ママイヤ』はフィクションです。それでも、彼女たちが過ごした場所では今も、何かが生まれ、死に、形を変えながらも在り続けています。人間たちを陰から見張っているのか、見つめているのか、あらゆる生き物たちの呼吸を感じるこの場所を、本作を通して訪れていただけたら嬉しいです。
結局父の持ってきたバドミントンをすることはなく、改札で別れる際に、「あれ、わざわざ買ったんかな」と思いながら見送ったのでした。文庫化も終え、また、この小櫃川河口干潟で待ち合わせしてみようと思います。
──『パパイヤ・ママイヤ』担当者より