乗代雄介〈風はどこから〉第22回

第22回
「雪のなか磨崖仏まで行こう」
今季最強の寒波が来ているという時に、また自宅のある東京から北へ出て、新幹線に乗って福島駅までやって来た。例の〈どこかにビューーン!〉で、珍しく東北新幹線の沿線に当たったのである。
5日間の滞在中、時々の晴れ間を除けばまったく雪の降り通しだったけれど、最初にどっと積もった雪は日を追って少しずつ解けていった。それがむしろ歩くのを困難にしたのは、車道がアスファルトのねずみ色を露わにする一方で、歩道にはゆるんだ雪が形を保っていたからだ。
雪も降っていたので、昼前にホテルを出た。福島駅周辺を歩いて感じた印象は、阿武隈急行に乗って五駅、高子駅に着いても変わらなかった。曲名から安直に、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ「スノー」を選んで流してみる。歩きながら聴くにはいい曲だ。映画『デスノート the Last name』の主題歌で、公開時、私は法政大学の多摩キャンパスに通う大学生だった。いつだったか、うちの大学で映画の撮影がされたらしいぞという話を小耳に挟み、蓋を開けたら『デスノート』で、夜神月の通う大学として使用されていた。
そんなことを思い出しながら駅前の住宅地をあみだくじを辿るように縫っていくと、県道4号線に突き当たる。西へゆるやかに上りつつ進むと、やがて右手に見えてきたのは大きな沼だ。高子沼公園として整備され、畔の遊歩道は一周できるようになっているらしい。低い山々を背景に枯れ草と雪で縁を飾っている沼では、ちらつく雪の下、数羽のカルガモが点々と連なってゆっくり動く。めぼしい色といえばサンザシのちょっと煤けた赤ぐらいな遊歩道で、雪にも負けず元気いっぱいの柴犬の散歩とすれ違い、何度も振り返った。
4分の3周ほどして、西側の狭まったところにかかる〈ふれあい橋〉を渡っていると、水面に張った氷の上にハクセキレイを見つけた。時々なにやらついばみながら、薄氷を踏み抜くこともなく歩き回っている。その軽さ、というよりは重さなんてないような振る舞いにしばらく見とれたあと、道路へと戻った。
引き続き上りとなる道の先を見ると、山間を越えていくようだった。行けば地蔵尊があり、祠の片隅にまとめられた石碑に馬頭観音もいくつかあり、古くから人通りのある峠であったようだ。越えると、南に視界が開けた。福島盆地である──と言いつつ、峠を越える前だって福島盆地だ。
道の右手は、穂の散ったススキ越しに刈り取った稲穂の根本だけが雪に埋もれず並んでいることで田圃とわかる。1本の長いススキに導かれて見上げた空の半分を、いかにも湿った雲が覆っていて、またすぐ雪になるかも知れない。
福島駅方面に向かうバスに何台も抜かされながらしばらく歩いて〈じょーもぴあ宮畑〉の案内に従って左に曲がると、雪景色の中に古代風の建物が見えた。4本の掘立柱で建てたもので、むらのある雪の積もり方で茅葺きの屋根とわかる。3つ並んだところに寄って行くと、建物の手前に杭とロープで区切られたところがあり、複数の土器の埋まりが再現されている。おそらく幼児の墓で、建物はそれに関するまつりに使われたと考えられているそうだ。建物の一つの高床部分に、コマツのブルドーザーのミニカーの忘れ物が置かれていた。こんなものがない当時は、直径90センチだという柱を立てるのでもたいへんな苦労だろう。

このあたり一帯は宮畑遺跡という縄文時代の遺跡で、このように広場に建物や墓などが復元されている。犬の散歩で訪れる人も多いようだ。雪が降り出し寒さが増してきたのもあり、西側斜面にある露出展示棟に逃げ込む。その名の通り、露出した土壌に覆屋を建てて展示したものだ。入るとすぐ壁に沿って階段、それを下りきって突き当たった壁際にも通路が渡され、反対側にも同じように階段と出入口がある。そちらの手すりには車椅子の昇降機も備わっていた。
ぽっかり空いた真ん中はすべて剝き出しの土壌で、様々な角度から観察できる。所狭しと散乱している土器は約3500年前のもので、割れたものや破片がほとんどだが、コップ型や注口土器などはっきり形のわかるものも目につく。これだけあるからには人為的に集められたものと考えられ、捨て場・送りの場であったのだろうと説明されていた。

遺構保存についても詳しい説明があって興味深い。こうした展示を行うにあたって懸念されたのは、以下のような点だという。「土壌の乾燥によるひび割れ」「土壌に含まれる塩類等が表面に浮き出て地表面が白くなる」「土の水分を利用してカビ類やコケ類が発生する」「冬に土が凍み上がり、土の表面が浮き上がる」
そのために覆屋を建て、シリコーン系ポリマーで表面処理を行い、設置した観測機器のデータを基に散水などの維持管理を行っているという。リアルタイムのデータは壁に表示されていて、遺跡面の温度は6.4度、室外環境は1.5度。寒いはずである。
外に出ると雪はますます強まり風も出てきて、エンニオ・モリコーネ『ヘイトフル・エイト(オリジナル・サウンドトラック)』より「雪(完全版)」を聴きながら土屋根の竪穴住居でしのぐなども試みたが、たまらず〈じょいもん〉という現代的な建物に入る。暖房が効いている。昔の人は大変だったんだなぁ、なんて子供のような感想をこの年齢になって心から抱けるのはありがたいことだ。
館内の展示によれば、こうした竪穴住居も、おそらくは送りのために、土器などの家財道具もそのままに焼かれたそうである。宮畑遺跡で見つかった46軒の竪穴住居のうち22軒に焼かれた形跡があるというのだから、半分近く焼いている。なぜこれが事故でなくわざと焼いたと言えるのかというと、復元住居を焼く実験をした結果、土屋根の竪穴住居は空気の巡りも悪く、ちょっと火を付けたぐらいでは発掘された状況(大量の炭化物と焼けた土がたまっている)のような焼け方はしないとわかったからだという。つまり、土屋根の竪穴住居はわざわざ焼かなければ焼けないのである。
今の人も大変だなぁ、と先史時代の研究をする苦労を知るが、同時に竪穴住居を作って焼くのは、焼けるかなと思いながら火を付けるのは、なんて楽しそうなんだとも思う。似たような試みは数千年前にもあったはずで、何をどの程度どうすれば住居が焼けるのかという知識は、(仮説が正しいとすれば)より良く送ろうとする心のもとに蓄積していったはずだ。
他にも、背骨の通った背中の丸み、腹と尻の生々しい丸み、畳んだ足の腿と膝の隙間、不思議な腕の組み方、造形の全てに目を奪われる〈しゃがむ土偶〉、ウルトラマンに出てくるジャミラのような人体紋が描かれた土器、石囲いをした炉のそばに壺形の土器を埋める複式炉の移り変わりなど、見所が多い。壺を埋めるのは、焼いた際に出る灰をためて後で灰汁抜きなどに使うためだったのではとか色々考えられているそうだが、壺が二つ埋められているものもあったりして面白い。何かしら便利に使っていたのだろう。

外に出ると、やっぱりというかますます寒い。1キロほど西の阿武隈川を目指そうと思う。展示で学んだけれど、阿武隈川は縄文の頃から江戸時代まで、この宮畑遺跡のすぐ西側、露出展示のすぐ下のところを流れていたらしい。雪の中で気付かずスルーしてしまったが、松尾芭蕉がそこで川を渡ったという渡し場(月の輪の渡し)跡もあるという。
外の明るさが変わらないせいか、あまり時間を意識していなかったが、もう16時を回っていた。次の目的地に明るいうちに着けないかも知れない。再び雪も降り始めたし、県道4号線に戻ったところでバスに乗ることにした。
イヤホンから流れてきた、相対性理論+渋谷慶一郎「our music」に心をまかせながら数分ほどバスに揺られ、岩谷下というバス停で下りる。雪はやんでいた。向かったのは、福島市のシンボルである信夫山の東側の麓にある岩谷観音。急な石段ではなくつづら折りの横道を上りきると、朱塗りの扉が目立つ観音堂と、剝き出しの崖が現れる。ところどころ雪をかぶった岩肌には、よく見るとあちこちに半肉彫の仏像が浮いている。磨崖仏と呼ばれるものだ。
宝永6~7(1709~10)年頃、西国三十三所観音の磨崖仏が彫られたのをきっかけに徐々に増えていったようで、今では他に60余体、合わせて100体ほどの仏が、複雑な段を作った崖に群れをなしている。それを見上げる崖下には雪解け水がたまっており、雪の積もったところを選びながら近づいてみる。刻まれた年はまちまちで形も様々だが、近くにあるものはまとめて彫られたような感じもある。立て札に「民衆の素朴な霊場」とあるように比較的なんでもありといった様子で、「庚申塔」という字が彫られていたりする。それを囲む枠のようなものも見え、どうやら石塔を二次元で表現しているらしい。

私は磨崖仏というのが好きで、茨城県かすみがうら市と石岡市の境となる閑居山の百体磨崖仏は『最高の任務』という小説にも出した。あれは岩面に鉛筆で描いたような薄肉彫だったが、私がこういうものに惹かれるのは、野天の岩肌に彫られる磨崖仏が、彫刻という行為の中では書くことに最も近いものであるように思えるからかも知れない。こうした磨崖仏は、もちろん信仰心あってのことだとは思うが誰がどのような目的でそれをしたのかはっきりしたことがわかっていないものが多く、その匿名性に純粋性が宿るような期待を持たせるのであろうか、手仕事の痕跡を少しでも多く目撃するよう私をそそってくる。
人がやったものを見て自分もやりたくなり、隣に彫ってみる。そうして増えていった仏像は岩に刻まれた時間そのもので、雨風や今日のような雪がもっと長い時間をかけてそれを撫でさすり、人が付した意味を果てしなく薄めていく。刻一刻の小さな変化の途中に現れる一瞬の光景が私の見ている今この時だと思うと、それだけでありがたいという気がするけれど、それは、明日帰るから思うことでもあるのだろう。
帰りの石段は、手すりをしっかり摑みながら横向きに下っていった。寒いので、古関裕而記念館の近くにあるラーメン屋さんに入った。出るとまた雪がちらついて、車のライトに照らされていた。
写真/著者本人
乗代雄介(のりしろ・ゆうすけ)
1986年北海道生まれ。2015年「十七八より」で第58回群像新人文学賞を受賞しデビュー。18年『本物の読書家』で第40回野間文芸新人賞を受賞。21年『旅する練習』で第34回三島由紀夫賞を受賞。22年に同作で第37回坪田譲治文学賞を受賞。23年『それは誠』で第40回織田作之助賞を受賞し、同作の成果により24年に第74回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。ほか著書に『最高の任務』『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』『パパイヤ・ママイヤ』『二十四五』などがある。