著者の窓 第52回 ◈ 吉川英梨『犯罪前夜』

著者の窓 第52回 ◈ 吉川英梨『犯罪前夜』
 万博開催を目前に控えた大阪で、観光帆船のシージャック事件が発生。海上保安庁の特殊部隊SSTによって犯人グループは制圧されますが、事件には大きな謎が残り……。吉川英梨さんの新作『犯罪前夜』(小学館)は、現代社会の闇に大阪府警&海上保安庁が挑む、スケールの大きな社会派エンターテインメント。緊迫感に満ちた物語の背景を、著者ご本人にインタビューしました。
取材・文=朝宮運河 撮影=松田麻樹

大阪の地理を生かし、新しいシージャック小説を

──最新長編『犯罪前夜』は大阪湾での観光帆船シージャック事件を軸に展開する、手に汗握るエンターテインメントです。力強く、疾走感に満ちた作品ですが、まずは執筆の経緯を教えていただけますか。

 新連載について編集部と打ち合わせをしている際に、目新しい事件ものとして浮かんだのが〝シージャック〟という題材でした。これまで犯罪ものや事件ものを数多く書いてきましたが、シージャックは扱ったことがないし、他の方の小説や映画でもあまり取り上げられていない。海の上の事件を書くのは得意ですし、シージャックなら海上保安庁の特殊部隊SSTも活躍させられそうだ、ということで企画がスタートしました。SSTは『感染捜査』という作品を書いた際に取材させていただいて、また書きたいと思っていたんです。

──吉川さんが得意とする海上保安庁ものと警察小説、2つのジャンルが融合した贅沢な小説でもあります。

 SSTといっても馴染みのない方がほとんどですから、読者のハードルを下げるために入り口は警察小説にしようと思いました。どこの警察署でもよかったんですが、SSTの基地が大阪方面にあるという事情もあって、今回は大阪を舞台に。これまで東京方面の事件はたくさん書いてきたので新しいことに挑戦したかったですし、黒川博行さんの警察小説で描かれるような大阪府警の泥くささにも憧れがありました。

吉川英梨さん

──大阪市民の足として利用されている「渡船」が事件に関わってくるなど、水の都・大阪の地理がうまく取り入れられていますね。

 大阪の地理には疎かったので、資料を買ってきて一から勉強しました。といっても祖父母が大阪の人だったので、まったく縁がない土地というわけでもないんです。子供の頃は大阪空襲の話をよく聞きましたし、心理的には近さを感じる土地でした。調べてみると大阪は多くの川が流れていて、渡船が今も使われていることが分かり、水の上の事件とも親和性が高い街だとあらためて感じましたね。『新東京水上警察』という作品では東京の隅田川でのボートチェイスを書いたのですが、今回も大阪ならではの展開が入れられたらと思いました。

闇バイト事件の加害者家族を書いてみたかった

──主人公の一人、高城明信は大阪府警捜査一課の刑事。高城はどんなキャラクターとして設定していますか。

 あまりひねらず、いわゆるコテコテの大阪人という感じで書いています。新世界というディープな街のスナックに入り浸っていても違和感がないようなタイプですね。仕事中心の生活を送っていて、家庭を持つことにも興味がないけれど、人当たりがよくて冗談好き。わたしの夫は関西出身で、大阪在住の友達もいるので、大阪人のノリや気質は何となく分かりますし、書いていても楽しいんです。

──高城はもちろん、スナック「旧巴里」のママも高城の上司・大森も、登場人物の多くは大阪弁で会話します。テンポのいい台詞がひとつの読みどころですね。

 一口に大阪弁といっても、地域や話す人の年齢によって微妙に異なるので、執筆中は大阪弁辞典を手元に置いて、参照していました。頭の中が大阪弁になるように、普段から「ミナミの帝王」の映像を流しっぱなしにしたり(笑)。黒川博行さんをはじめ、西加奈子さんや柴崎友香さん、田辺聖子さんなど大阪弁で書かれた小説もたくさん読んで、リズムや言い回しを身体に染みこませていきました。書いていて気になるところは、大阪出身の友達にチェックしてもらいました。

吉川英梨さん

──大阪の高級住宅地・帝塚山で、建造物侵入事件が発生。さらに隣接する西成でも強盗事件が起こります。現場に駆けつけた高城は、闇バイトと思われる犯人グループと接触。それが後に起こるシージャック事件の発端でした。

 シージャックは日本ではあまり起こらない事件なので、読む側からすると距離があると思ったんです。それで闇バイトという、多くの人にとって他人事ではない社会問題と組み合わせて書くことにしました。特に書きたかったのは加害者家族の直面する葛藤です。以前、闇バイトに関わった男の子が交通事故で亡くなって、その事故をきっかけにわが子の犯罪を知ってしまったお父さんのインタビュー記事を読んだことがあるんですが、すごく衝撃を受けて。闇バイトの問題を家族と絡めて書くことで、シージャックがより切実なものになると思いました。

──逃走する犯人グループが向かったのは港区海岸の天保山客船ターミナル。そこで彼らは観光帆船カティ・サーク号を乗っ取り、ボートで近づいた高城に発砲してきます。

 シージャックで有名なのは、1970年に発生した瀬戸内シージャック事件ですが、あれも陸での事件が発端で、犯人は逃走のために船を奪ったんです。日本でシージャックが起こるとしたら、この流れがリアルだろうと考えました。カティ・サーク号のモデルになった船は実際に天保山で運航しているんです。大阪で色々な観光船に乗ってみて、このサイズなら外海にも出られるし考えていたストーリーにぴったりだと思いました。SSTの活躍を書くうえで帆船というのも都合がよかった。帆船はマストが邪魔になるので、空から接近することが難しいんです。その難題をどうクリアするかが、犯人制圧の鍵になってきます。

2020年代の社会の断面を切り取りたい

──高城と並ぶもう一人の主人公が、SST隊員の岸本波敷。精鋭部隊の隊員でありながら、快活で明るい人物として書かれていますね。

 取材で会ったSSTの隊員があんな感じだったんです。いつ命を落とすかもしれない過酷な任務に就いているのに、話してみるとすごく明るい。これまで色んな公務員に取材してきましたが、SSTが一番陽気ですね。訓練や任務の厳しさと、隊員たちの明るさのギャップが印象的だったので、岸本も大学生のような若々しさを失わない人物にしました。

──人質となった58人の乗船客を乗せたまま航海を続けるカティ・サーク号。犯人逮捕と制圧に向けて、大阪府警と海上保安庁が全力を尽くします。犯人グループの要求、高城による捜査、岸本らの突入準備。シージャックを克明に描いた第一部は、並々ならぬ緊張感があります。

 ありがとうございます。事件ものを書く際はいつも3アクト制の構成表を作っています。事件全体を3つのパートに分けて、それぞれの区切りにターニングポイントを置く。どこでどの情報を提示するのが効果的かも考えて、プロットを作成します。それをもとに編集さんと意見を交わし、より面白くなる見せ方を工夫して、土台ができたところで第1稿。実際書いてみるとプロットでは気づかない矛盾点や穴が見えてくるので、そこを修正しながら完成に近づけていく、という書き方をしていますね。

吉川英梨さん

──SNSを介した交渉で犯人グループが要求してきたのは、「大阪万博の即刻中止」。万博開催を目前に控えた大阪、という舞台が大きな意味を持ってきます。

 現代を生きる小説家として、時代の断面を記録しておきたいという思いが強くあります。今は社会の移り変わりがめまぐるしくてほんの2、3年前のことでさえ、すぐに忘れ去られてしまう。コロナ禍を経てますますそう考えるようになりました。『新東京水上警察』では五輪開催を控えた東京の空気感を作品に取り入れたのですが、2024年の大阪を舞台にするなら万博の存在はやはり無視できません。後から読み返して「2024年ってこんな時代だったな」と記憶が甦ってくるような作品になっていればいいと思います。

──岸本らSSTの活躍により、シージャック犯は制圧されます。しかし事件には大きな謎が残りました。第二部から第四部までは高城や岸本、そして犯人の一人である森下諒の両親の視点から、〝シージャック事件のその後〟を描くという展開になっています。

 さきほどもお話ししたように、犯罪加害者の家族の問題を書きたいという思いがあって、このような構成になりました。家族が犯罪者になるという状況は、誰にとっても他人事ではないものですよね。わたしも2人の息子を育てていますが、仕事柄犯罪へのアンテナを張っているせいで(笑)、息子たちが事件を起こしたらどうしようという恐怖感は人一倍強いです。その不安感や焦りを、森下家の物語を書くことで少しでも解消したかったのかもしれません。

立場を超えて分かり合える、海上保安官の絆

──事件後、マスコミによって諒に対する誤ったイメージが拡散され、そのことが諒の両親を悩ませます。犯罪加害者の家族になることの怖さが、ひしひしと伝わってきました。

 普通の人はテレビや新聞で報道されていることが真実だと信じてしまいますよね。でも間違っていることもある。わたしがそれを実感したのは松本サリン事件の時です。容疑者らしいと報道された方がまったくの無実だと後で知って、反省するとともにすごく怖いなと感じた。犯罪加害者やその家族の手記を読んでいても、加熱するマスコミに悩まされたという話がよく出てきますし、報道の危うさも書いておきたいことのひとつでした。

──突然息子を失うことになった諒の両親の複雑な心情が描かれていて、胸を打ちます。特にスポットライトが当てられているのが、海上保安庁職員である父・浩平の存在です。

 母親だと自分と距離が近すぎることもあって、冷静には書くことができないと思ったんです。家族がこうした事件に巻き込まれた際、矢面に立つのは父親であることが多いですし、そうした場面での葛藤も含めて、浩平の心情を追ってみたいと考えました。それに一般に父親は母親に比べると、わが子のことをよく知らないですよね。事件をきっかけにして、それまで知らなかった息子の内面に触れる、そんな物語にもしたかったんです。

──実は岸本と諒の間にも、浅からぬ因縁があります。犯人グループを制圧した岸本と、加害者家族である浩平。ともに海保職員である2人の関係性も、とても印象的に書かれています。

 2人は海保の男という共通項があるので、どんな状況であってもすぐに打ち解けるだろうなとは思っていました。でも大阪弁の台詞に助けられたところも大きいですね。浩平はどんなに辛い場面であっても、会話にオチをつけて、相手を笑わせようとする。これが標準語だともっと重くて、やりきれない話になっていただろうと思います。後半、岸本と浩平が2人で鍋を囲むシーンがあります。憎み合ってもおかしくはない間柄ですが、この2人はそうはならないだろうという信頼感があった。キャラクターが自然と口にするだろう台詞を、そのまま書き留めたという感じでした。

吉川英梨さん

──高城たち大阪府警の捜査によって、犯行グループのプロフィールが徐々に明らかになっていきます。そこから見えてきたのは、若者を引きずり込む闇バイトという名の罠。

 執筆にあたって闇バイトに関するノンフィクションや記事を読みました。軽い気持ちで手を出す人もいれば、生活苦から仕方なく犯罪に手を染める人もいる。今ここに数十万円あれば、闇バイトに参加せずにすむのに、という思いを持つ若者たちが、今の時代はかなりいるんだなということを実感しました。犯罪者とそうでない人の線引きが以前よりも曖昧になって、犯罪者側が普通の若者たちを暴力で引き込もうとしている。そうした状況は恐ろしいですし、2020年代のリアルな姿として書き留めておきたいと思いました。

──高城が担う捜査小説の面白さと、岸本が担うアクションの魅力。ふたつが渾然一体となって、大興奮のクライマックスへとなだれ込んでいきます。

 当初の予定ではクライマックスのアクションは書かないつもりだったんです。黒幕の正体が判明して、高城が逮捕に向かうところで終わる。そういうさりげない幕切れを考えていたんですが、実際書いてみたら物足りない気がして。せっかくSSTを登場させたので、第一部以外にも活躍する場面を作りたい。それであのようなクライマックスになりました。結果的にはうまく盛り上がってくれたと思います。

──この小説を読んでいて、海の治安を守る海上保安庁の仕事にあらためて興味を抱きました。吉川さんがたびたび〝海保もの〟を手がけるのはどうしてなのでしょうか?

 一番の理由は、海保で働いている人たちが好きなんです。男性も女性もみんな気さくで明るくて、話していると気持ちがいい。岸本や浩平もそうですよね。2人とも海上保安官であることにプライドを持っていて、組織を愛してもいる。だからこそ話をすれば分かり合える。もちろん仕事の内容に作家として惹かれる部分も大きいですし、人知れず過酷な任務に就いている海上保安官の姿を、これからも書いていけたらと思っています。


犯罪前夜

『犯罪前夜』
吉川英梨=著
小学館

 

吉川英梨(よしかわ・えり)
1977年、埼玉県生まれ。2008年『私の結婚に関する予言38』で第3回日本ラブストーリー大賞エンタテインメント特別賞を受賞しデビュー。警察小説シリーズを中心に執筆し、著書に「警視庁53教場」「原麻希」「新東京水上警察」「十三階」「海蝶」「感染捜査」「埼玉県警捜査一課 奈良健市」各シリーズ、『海の教場』『トヨタの子』『新人女警』など多数。

吉川英梨さん

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