田口幹人「読書の時間 ─未来読書研究所日記─」第42回

田口幹人「読書の時間 ─未来読書研究所日記─」

「すべてのまちに本屋を」
本と読者の未来のために、奔走する日々を綴るエッセイ


 デジタル教科書の議論は、どうしても「紙か、デジタルか」という二項対立で語られがちになってしまう。もちろん、媒体の選択は小さな問題ではないのだが、供給所の役割を担う書店を経営している身としては、教科書はやはり紙であってほしい、という思いがある。店売の売上が減少し続けるなかで、教科書の売上は地域の書店を維持するために欠かせないからだ。それは単なる経営上の問題ではなく、書店という場所を地域に残し、本と人が出合う場を守ることにもつながっている。ただ、その立場はいったん横に置いて、この問題を考えてみたいと思う。
 そのうえで問うべきなのは、「紙の本を使う意味は何か」ということである。懐かしいからでも、手触りが好きだからでもない。いまの子どもたちにとって、紙の本を使うことにどんな学びの意味があるのか。そこを軸に考えたい。

 国会審議で松本洋平文部科学大臣は、完全デジタル(学習用端末などのデジタルのみ)の教科書について「小学校4年生以下は適当ではない」とし、国語・社会・道徳についても「全学年で当面認めるべきではない」という考えを示したと報じられている。これは単なる慎重論ではなく、学年や教科にはそれぞれ学びが成立する条件がある、という確認でもあるはずだ。とくに国語は、「読むこと」を土台にして、その上に思考や表現が積み上がっていく教科。だからこそ、媒体の選択は便利さや新しさではなく、その学びがどうすれば成立するのかという観点から考えなければならない。

 では、紙の本を使う意味は何か。大きく二つあるのではないかと僕は考えている。

 一つ目は、読書を「個の行為」として成立させる意味。「NPO法人読書の時間」が作っている教材『読書の時間』の第一章でも、まず伝えたいのはそこだ。読書は、図書館や本屋や自宅の本棚から一冊を抜き取ることから始まる。そしてその行為は個人的で、誰ともつながっていない。だからこそ読書は、自分と向き合い、自分の考えをまとめる時間になる。インターネットで常に世界とつながれる環境で生きていく子どもたちにとって、それは貴重だ。

 ここで言いたいのは、紙が偉いということではない。大事なのは、「つながりっぱなし」からいったん離れられる環境を持てることだ。いまの子どもたちは、端末を通じて、いつでも誰かとつながり、いつでも情報に触れられる環境の中にいる。それは便利である一方で、自分の内側に沈んでいく時間を持ちにくい環境でもある。紙の本は、その時間を自然につくってくれる。読書を、誰かに見せるためでも、記録されるためでもなく、自分のための行為として成立させやすいのだ。

 僕たちは教材の中で、電子書籍も紙の本もどちらも本だと書いている。ただし、電子書籍はネット経由で購入・閲覧することが多く、Web で情報を得る時と同じように「足跡」が残り得る。紙の本との決定的な違いはそこにある。デジタル化社会、インターネット社会のいまは読書ですら、「何を読んだか」「どこに関心を持ったか」というデータに回収されやすい時代だからこそ、足跡が残りにくい形で読む時間を学びの中に確保しておく意味は小さくない。

 二つ目は、情報の「つくられ方」を学ぶ意味。子どもたちがこれから生きていく情報社会では、「信じていい情報」と「疑ってかかるべき情報」を見分ける力(フィルター)がますます重要になる。だから僕は、『読書の時間』の中でも、「真実」と「事実」の違いを手がかりに、自分のフィルターを持つことの大切さを書いている。読書は、そのフィルターをつくっていく訓練になるからだ。

 そして、本には本ならではの情報の構造がある。本は、著者が一人で書いたものがそのまま出てくるわけではない。編集者や校正者など、さまざまな人のチェックを受け、言葉の使い方、文章として成立しているか、根拠はあるか、内容のミスはないかを点検しながら作られていく。さらに出版社が責任を持って世に送り出す情報である、という点が Web 上のある種の情報とは大きく違う。紙の本を使う「意味」は、まさにここにある。情報にはつくられる過程があり、誰かが責任を持って届けている。そのことを子どもたちが具体的に理解するための教材になるのだ。

 僕たちNPO法人読書の時間がやってきたのは、この「意味」を子どもたちの側へ引き寄せることだった。「読みなさい」と言っても、読書は広がらない。だから僕たちは、出合い方から設計し直す。僕たちが各所に対して提案する様々な企画の副題として掲げているのは、「出合い方、出合う意味から変える」という言葉だ。読書を広げるとは、冊数を増やすことだけではなく、本との最初の出合いをどうつくるか、その出合いにどんな意味を持たせるかということでもある。

 この考え方は、僕個人の実感というだけではない。「令和7年度文化庁の文字・活字文化資源活用推進事業」の実績報告書には、読書を「読ませる」から「関わらせる」へと変えていく各地の実践が具体的に記録されている。大事なのは、紙の本を守ろうという情緒的な話ではなく、文字・活字文化を次の世代へどう手渡すかという問いに対して、地域ごとにどんな仕組みをつくったのかが示されていることだ。文化庁の報告書は、理念ではなく実践の集積だ。

 たとえば兵庫の事例では、高校生や大学生らが地域の「食」をテーマに ZINE(小冊子)を制作している。若い参加者たちは単なる読者ではなく、編集者の立場に立って文字・活字文化に触れている。テーマを決め、取材し、言葉を選び、構成し、誰かに届けるために編集する。その過程そのものが、文字・活字文化への参加になっている。しかも、もともとあまり本を読まなかった層に変化が生まれている。読書習慣のある子どもにさらに読ませるのではなく、本から遠かった層にどう入口をつくるか。その問いに対して、実績報告の事例は「関わることから始める」という答えを出しているのだ。

 その意味で、茨城の事例はさらに重要だ。いばらき読書フェスや、副読本『読書の時間 みと・いばらき』の取組では、地域書店がハブとなり、出版社、作家、教育機関、NPOなどをつなぎながら、紙の本へ向かう導線がつくられている。読書推進を学校の中だけの課題にしていない。学校で副読本を配るだけでなく、地域の書店、出版社、作家、図書館、イベントの場がゆるやかにつながり、子どもが本と出合ったあとにその先へ進めるようになっている。本を読むことが、教室の中の一回限りの出来事ではなく、地域の文化の中に位置づけ直されているのだ。

 副読本『読書の時間 みと・いばらき』の事業目的にも、その思想ははっきり表れている。単なる本の紹介ではなく、「なぜ読むのか」「誰がどのように本を作っているのか」という視点を含めた副読本を作ることで、読書意欲の向上と活字文化への理解促進を図る。つまり、読書を量の問題ではなく、意味の問題として捉えているのだ。

 さらに、茨城の取組では、茨城ゆかりの作家の寄稿を集め、寄稿した出版社や作家が出前授業を行うことまで設計されている。本は完成品として棚に並んでいるだけでは、その背後にいる人の存在が見えにくい。けれども、作家や編集者や本に関わる人が実際に学校へ行き、子どもたちと話をすると、本は急に「誰かが作っているもの」になる。情報には作り手がいて、届け手がいて、受け手がいるからこそ、その回路が見えるようになるのだ。

 実際、水戸市の副読本事業では、市内小学校33校の小学5年生2,069名に配布され、活用率は82.3%だった。もっとも多い活用場面は「朝の読書」の58.8%で、教員の約7割が読書意欲の高まりを感じている。「タブレット読書から紙の本での読書に戻るきっかけになった」という声まで出ている(同事業の報告におけるアンケートの回答による)。これは、紙の本に戻る導線が理念ではなく実践として成立していることを示している。

 出前授業もその延長線上にある。希望校6校で実施され、座学とワークショップの二部構成で行われた。出版社の編集者とともに、僕自身も講師として関わり、「本のクイズ」を通して読むことを少し身近なものへと引き寄せてきた。授業後には、「クイズが楽しかった」「友達と協力できて楽しかった」「図書館に行ってみたくなった」といった声が並ぶ。読書は一人の行為だが、その入口は、誰かと一緒に笑ったり、考えたり、驚いたりする時間の中から立ち上がることがあるのだ。

 だから僕は、紙の本を使う意味を、ノスタルジーではなく教育の条件として考えたい。第一に、読書を「個の行為」として成立させ、つながりっぱなしの社会の中で、いったん自分に戻る時間を保障すること。第二に、情報がどのようにつくられ、誰が責任を持ち、どう点検されて世に出るのかという「情報の構造」を学ぶこと。そして第三に、本を学校の中だけに閉じ込めず、地域の文化として子どもたちに手渡していくこと。この三つを土台にしたうえで、デジタルをどう活かすかを考える。そういう順番が、いまの教育には必要だ。教科書供給所の役割を担う書店を経営している僕としては、ここまで書いてきてもなお、教科書は紙であってほしいという思いを消すことはできない。けれども、その思いを差し引いても、紙の本を使う意味は教育の側から十分に説明できる。

 紙を守ることと、デジタルを活かすことは、本来対立しない。けれども、何を土台にするのかは問われるべきだ。子どもたちがまず紙の本を通して、読むことの意味と、情報に向き合う姿勢を身につけることには、いまなお大きな意味がある。そのうえで必要なところにデジタルを足していく。そうした順番の中でこそ、紙もデジタルも、それぞれの役割を果たせる。
 僕たちNPO法人読書の時間は、これからも「出合い方、出合う意味」から組み替える仕事を続けていく。紙かデジタルかの結論を先に置くのではなく、子ども自身が「本をどう使うか」を自分の言葉で選べる状態をつくる。そのための環境づくりを、学校と地域と出版の側から、もう一度ていねいに進めていきたいと考えている。


田口幹人(たぐち・みきと)
1973年岩手県生まれ。盛岡市の「第一書店」勤務を経て、実家の「まりや書店」を継ぐ。同店を閉じた後、盛岡市の「さわや書店」に入社、同社フェザン店統括店長に。地域の中にいかに本を根づかせるかをテーマに活動し話題となる。2019年に退社、合同会社 未来読書研究所の代表に。楽天ブックスネットワークの提供する少部数卸売サービス「Foyer」を手掛ける。著書に『まちの本屋』(ポプラ社)など。


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採れたて本!【国内ミステリ#42】
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