著者の窓 第53回 ◈ 井上先斗『夜がまだ明けない』

著者の窓 第53回 ◈ 井上先斗『夜がまだ明けない』
 ストリートカルチャーを扱った松本清張賞受賞作『イッツ・ダ・ボム』で一躍脚光を浴びたミステリー作家・井上先斗さん。7月末に刊行された最新作『夜がまだ明けない』(小学館)は、26歳の私立探偵・苗場清志郎が5つの事件に遭遇する、クールでビターな私立探偵小説です。貴重なデニムジャケットを持ったまま消えた古着屋アルバイト、デビューを目前に失踪したロックバンドのボーカリスト、ボディーガードを依頼してきた元恋人──。ハードボイルドと本格ミステリーの面白さを兼ね備えた連作について、井上さんにうかがいました。
取材・文=朝宮運河 撮影=松田麻樹

私立探偵小説に愛着があった

──『夜がまだ明けない』は井上さんの4作目にして、初めてプロの探偵を主人公に据えた連作ミステリーです。まずは執筆の経緯を教えていただけますか。

 デビュー前に書きためていた私立探偵ものの習作が下敷きになっています。僕は元々ミステリーのなかでも私立探偵小説という形式にすごく愛着があって、デビュー作『イッツ・ダ・ボム』からして第一部は私立探偵小説の手法を使用していたつもりです。今回小学館で新作を書かせてもらうにあたり、その習作をあらためて形にしたいと思いまして編集さんに読んでいただいたところ幸い面白いと言ってくれたので、以前書いた4作を全面的にリライトするとともに、雑誌「GOAT」第3号に新作「ヴィンテージ」を発表して5作をまとめて連作小説としました。

──私立探偵小説といえばハードボイルドミステリーのサブジャンルで、その名のとおり私立探偵を主人公にした作品のことですね。

 ええ。僕が私立探偵小説を好きなのは、視点の置き方なんです。一人の私立探偵の目を通して謎を追っていくというスタイル。それがあれば犯罪小説でも本格ミステリーでも私立探偵小説的だと思う。たとえば法月綸太郎さんの『生首に聞いてみろ』や米澤穂信さんの「小市民」シリーズは、主人公は別に私立探偵じゃありませんが、僕にとっては私立探偵ものの範疇ですね。このジャンルには好きな作品が山ほどあって、一番は『暗い落日』に始まる結城昌治の「真木探偵」シリーズですが、他にも仁木悦子の「三影潤」シリーズとか、近年だと宮部みゆきさんの「杉村三郎」ものとか。海外作家ならマイクル・コリンズ、マイクル・Z・リューイン、ローレンス・ブロック……、いくらでもあげられますね(笑)。

井上先斗さん

──巻頭を飾る「ヴィンテージ」は古着業界を描いた作品。私立探偵・苗場清志郎は大学時代の同級生が経営する古着屋から消えた学生アルバイト・大村を捜すことになります。

 古着業界を扱ったのは、完全に自分の趣味です。執筆のタイミングで時間的余裕がなかったので、新しく取材をせずとも書ける、熟知しているネタを使ったという裏事情もあるのですが、これは面白く書ける題材のはずだという確信もありました。少し前にテレビで古着屋で成功しようとする若者たちを追ったドキュメンタリーが放映されていて、それに対して古着屋の店主が YouTube で辛辣なコメントをしていたんですよ。こんな仕入れじゃ商売にならないとか、古着屋をやっている自分に酔っているだけだとか。やっぱり独自の価値観があるコミュニティだし、そうした部分は古着を買わない人にも興味を持ってもらえるだろうと思いました。

──大村とともに店から消えたのは一枚のデニムジャケット。第二次世界大戦中に作られた〈大戦モデル〉の偽物であるにもかかわらず、50万円の値がつけられた〈偽大戦〉をめぐって、ヴィンテージ品の価値が問われていきます。

 古着でも高価なものもあれば安いものもある。格好いいものもダサいものもある。違いはどこにあるんだろうという問いを、自分なりに考えてみました。古着業界にも「高いからいいものなんだ」というのではなく、なぜそれがいいものなのか自分の言葉で語れる人がいる。その背後にあるものに迫ってみたかったんです。

──大村の足取りを追っていた苗場は、やがて依頼そのものにも疑わしい点があることに思いいたります。依頼人の抱えたさまざまな事情が調査とともに明らかになる、という展開は5作に共通していますね。

 それは私立探偵小説だからという事情が大きいですね。本格ミステリーだと中心に置かれるのはあくまで事件であり、魅力的な謎と解決が重視されるので極端な話、依頼人は舞台装置でしかなくても成立はすると思うんですが、私立探偵小説の場合、依頼人の扱いが粗雑なのは許されない。会話を通して、依頼人をひもといていく話になることも多い。この連作では依頼人の名前から書き始めているエピソードが何作かあるんですが、それはこの人を深掘りしていく話だよというサインなんです。

カルチャーの来歴と、それを選び取った人のせめぎ合いを書いていきたい

──2話目の「消えた歌声」の依頼人はレコード会社の社員。デビューを目前にして突如失踪したロックバンドのボーカリストを捜してほしい、という調査依頼です。

「消えた歌声」の原型になった短編は大学時代からあって、それを何度か書き直して現在の形になりました。真相そのものは変わっていないんですが、音楽業界が10年前と大きく変わったので、サブスクや動画をめぐる状況をアップデートして、依頼者やバンドメンバーの人間性もそれに合わせて多少変更しています。

──デビュー作の『イッツ・ダ・ボム』ではストリートアートのグラフィティ、そして今回は古着とロックと、若者カルチャーを扱うことが多い印象ですが。

 いや、どれももう若者カルチャーじゃないと思いますよ(笑)。かつては若者向けのものでしたが、すでに文化として完成しきっていて、どちらかというと中年以上がメインの担い手になっている。興味があるとすれば、自分の世代とずれたカルチャーにあえて入っていこうとする若者の心理ですね。そこがいまやミステリー読者の中でも少数派であるハードボイルドファンの自分と重なるというか。カルチャーの来歴と、それを選び取った人のせめぎ合いを書いていきたいんです。

井上先斗さん

──「ヴィンテージ」でも「消えた歌声」でも、苗場がこうだと見抜いた真相が一度ひっくり返され、その先に本当の答えが現れるという構成になっていますね。

「ヴィンテージ」の初稿を書き上げた際に、担当さんからもうひとひねりあった方がいいと感想をもらったんです。それで真相はそのまま生かしながら、手前にもうひとつ誤った推理を置くことにしました。他の4編も「ヴィンテージ」を踏襲して、事件解決の前はツイストを入れるようにしています。後半になるとそれがエスカレートして、ひとひねりどころか二転三転するような形になっています。

──続く「レモンジュース」には苗場の元恋人であり、仕事仲間でもあった秋津夢芽が登場。ストーカーから身を守ってほしいという依頼を受けて、一日行動をともにすることになります。

 各篇で中心となる人物は苗場にとってどんなポジションの人間かで考えていて、「ヴィンテージ」が元同級生、「消えた歌声」は年下だけどすでに社会に出ている人たち、4話目の「溶けるように」が年上の社会人、5話目の「夜がまだ明けない」は女子中学生ですが、あれは苗場自身のような存在なんです。そうやって配置してみて、まだ登場していないのは元恋人だなと。

人間性がにじみ出るような文章を

──油断のならない夢芽とのやり取りは、クールで洒脱。絶妙なユーモアを交えた文章が効果をあげていますね。

 デビュー作の頃からハードボイルドの文体は取り入れているのですが、今回はそれを徹底しています。つまり苗場が見ているもの、思ったことがすべての文章に反映されるようにしようと。苗場は古典的なハードボイルド探偵のようなへらず口こそ叩きませんが、物の見方はひねくれていて、ユーモラスでもある。その人間性がにじみ出るような文章を書くことを最後まで意識しました。

井上先斗さん

──苗場の目を通して描かれる、都市の表情もまた魅力的。「レモンジュース」では吉祥寺の賑やかな町並みが、生き生きと描かれています。

 それもやはり私立探偵小説であるからですね。ダン・フォーチューン(マイクル・コリンズ作品の主人公)が眺めるニューヨークと、マット・スカダー(ローレンス・ブロック作品の主人公)の目に映るニューヨークは、同じ都市であっても印象が異なります。探偵の目を通した都市の表情は、ハードボイルド小説だと必ず立ち現れてくる。そこはあえて意図せずとも、苗場の視点を徹底することで自然と出てきました。ちなみに今回舞台になっている町は、すべて僕の生活圏、あるいはかつて生活圏だった町です。実感を伴った町の風景を書くべきだと思ったので、敢えてそういう町を選びました。

──「溶けるように」では事業資金を持ったまま身を隠している男・益田を捜すことになった苗場。ところが雑居ビルまで追い詰めた益田は、エレベーターに乗ったきり、煙のように消え失せてしまいます。

 これはトリックが先にあって、大学時代にまったく別のシチュエーションの短編として同人誌に書いたことがありました。気に入っていたトリックだったので、苗場のシリーズに流用したんですが、その際に考えたのはこのトリックを使うのはどんな人間なのだろうかということ。そこに苗場が軽蔑しそうな大人たちというイメージを結びつけて、人間消失ものに仕上げたという感じです。

一番の悪は「許せない」という感情

──最終話の「夜がまだ明けない」で苗場が捜索を依頼されたのは、家を出たまま帰らない中学生の安西萌衣。安西家のトラブルに関わるなかで、苗場自身の抱えていた問題も改善に向かっていきます。

 担当さんから5編を貫くものがあった方がいいと言われたんです。最終話ですべての短編が繋がって大きな絵が浮かぶ、いわゆる連鎖式と呼ばれる形式じゃなくてもいいけど、一冊通して訴えかけてくるテーマがほしいと。それで何だろうと考えて、浮かんできたのが「許す」というワードでした。

井上先斗さん

──ハードボイルドもので「許す」がテーマとは興味深いですね。

 以前、石田衣良さんに、「現代の悪と戦う話を期待します」というようなことを言われたんです。でも僕には憎むべき巨悪というものが存在しなくて、どんな人に対してもその人なりの事情があるよね、と考えてしまうタイプなんですよね。そんな自分にとって一番の悪は何だろうと考えてみたら、「ダサい」とか「許せない」という感情だった。憎い人はいなくても、ダサいと見下してしまう人や、この人のこと許せていないんだろうなと思ってしまう相手はいる。苗場には許せないと思っている人がいます。でも本当に許せないのは実はその人というよりも、その人を許せないと考えてしまう自分の中のわだかまりなんですね。だからこの短編集は、一冊通して苗場が許せないものを許していく話にしようと。苗場が次々にダサい人間、許せない人間に出会って、さまざまな感情を抱きながら、それを許していく。極めて個人的ですが、これが苗場にとって「悪と戦う」ということなんですね。

フルスクラッチで小説を書ける作家でありたい

──なるほど、5話通して読むとまさに苗場の変化が感じられる連作になっていました。井上さんは今年3月にも『ノーウェア・ボーイズ』を刊行し、順調なペースで執筆活動を展開しています。今後どのような作家を目指していきたいですか。

 フルスクラッチで小説を書ける作家でありたいと思っています。フルスクラッチというのは模型の世界の用語で、既存のパーツを使わずに一から自分で造形して完成させることを言います。これまで僕が書いてきた小説は「ジャンルらしくない」と言われることがしばしばあったのですが、それは市販品ではない、自分の中にある素材で大好きなジャンルを書いてきたからなんだろうと思うんです。借り物の道具は嫌だという気持ちで、いかにもそのジャンルらしい小道具とか設定を使いたがらないみたいなところがあるんです。今回も表面的にはハードボイルドっぽさは薄いかもしれませんが、自分にとっての私立探偵小説、ハードボイルドはこれだという気持ちで書いています。話をしていても分かると思うんですが、結局、僕はジャンル大好き人間なんですよ。でも一方で、ジャンルの価値観を常に疑いたいという気持ちを持っています。今日Tシャツを着てきたデッド・ケネディーズというバンドに、「ナチ・パンクス・ファック・オフ」という有名な曲があるんです。髪を立てただけでパンクになれるわけじゃない、自分の頭で考えろ、というようなことを歌った曲なんですが、その歌詞すら疑うのがパンクだろうと思います。今後もジャンルを疑いながら、フルスクラッチでジャンル小説を書いていきたいですね。

──今後書いてみたい題材はありますか。

 古着業界も今回書いてしまったし、自分の趣味という意味で手持ちのネタはほぼ使い尽くしました。近々サウナの熱波師の話を書こうと思っているんですが、それで書いたらもう在庫はありません。でもデビュー作で扱ったグラフィティにしても、元から詳しかったわけではなく、調べながらテーマや面白さを見つけていったので、書きようはいくらでもあるのかなと。僕がミステリーやパンク・ロックに感じる格好よさを、今後いろんな分野に見つけていけたらと思っています。


夜がまだ明けない

『夜がまだ明けない』
井上先斗=著
小学館

 

井上先斗(いのうえ・さきと)
1994年愛知県生まれ。成城大学文芸学部文化史学科卒業。2024年『イッツ・ダ・ボム』で第31回松本清張賞を受賞しデビュー。他の著書に『バッドフレンド・ライク・ミー』 『ノーウェア・ボーイズ』がある。敬愛する作家は伊坂幸太郎、島田荘司、松本清張、結城昌治、ドナルド・E・ウェストレイク、ローレンス・ブロック。70年代パンク・ロックが好き。

井上先斗さん

採れたて本!【海外ミステリ#43】
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