西川美和「深海の船」第2回 大家好(みなさん、こんにちは)

西川美和「深海の船」大家好(みなさん、こんにちは)

終戦直後の東京を舞台に孤児となった少女の姿を描く映画『わたしの知らない子どもたち』。「STORY BOX」では、西川美和監督がその制作過程での思いなどを綴るノンフィクション・ノベル「深海の船」を連載中です。このたび映画公開を記念し、過去の作品を再掲することになりました。ぜひお読みください。


「中国にお招きして、特集上映を開催したいと望んでおります」というレターが届いたのは、今年二月のことだった。

 レターを仲介してくれたのは上海シャンハイ国際映画祭のプログラマーで、二〇二一年六月の映画祭の際にオンラインで私にインタビューをしてくれたらしいのだが、なぜかさっぱり記憶がなかった。プロデューサーに確かめると、その年の私の新作映画は確かに上海に出品され、現地で上映もされたのだそうだ。「そう言えばそうでしたね」と誤魔化ごまかしたが、やっぱり思い出せなかった。

 二〇二〇年以降、世界中の国際映画祭はパンデミックで危機的状況に陥ったが、配信して自宅から鑑賞できるようにしたり、現地と監督とをオンラインでつないでイベントを行ったりとさまざまな工夫で乗り切っていた。私もそんな変則的なルールのもとで確かにいくつかの海外の映画祭に参加したはずだったが、それらの体験のほとんどは、健忘症にかかっていたかと思うほど抜け落ちてしまっている。同じように顔を見て話したはずなのに、パソコン画面越しに出会った二次元の人の顔や声は、なぜか私にはおぼえられない。

 ずいぶん前から、香港、台湾では私の映画も公開されることも多くなり、現地に赴いたりもした。台湾の映画関係者は日本映画への関心や親交も深く、あたたかく迎えてくれる。また長くアジア映画を牽引けんいんしてきた香港も、かつては実にリベラルでアグレッシブで、頼もしい姉御という雰囲気だった。

 しかし「大陸」での事情は違う。今や中国の映画興行収入は年間一兆一千億円を超えた巨大産業であるが、公開される映画の内容は政府によって厳しく検閲される。ヌードの露出や社会問題、当局の見解と異なる歴史認識を表現した映画はたちまち上映禁止となり、中国国内で活動する監督の場合は製作禁止処分を受ける例もある。天安門事件を描いた婁燁ロウ・イエ監督も、『鬼が来た!』で検閲をぶっちぎってカンヌのグランプリを受賞した姜文ジャン・ウェン監督も、共に五年間干されたそうだ。(しかしその後二人とも、鋭意製作再開。ストロング!)

 一方、中国国外の作品の上映は、国家間の政情もダイレクトに影響する。韓国の場合、朴槿恵パク・クネ政権で中韓関係が悪化した二〇一六年以降、あらゆる韓国カルチャーの輸入、ドラマ・映画の公開は禁じられてしまった。よって、ポン・ジュノ監督のアカデミー賞受賞作『パラサイト』も、配給会社がポスターや絵コンテ本まで準備して公開の機をうかがったが、依然中国国内では未公開だという。日中関係も先の予測はつかないが、今のところ日本映画は年間10本~20本程度の公開が認められているらしい。スタジオジブリやドラえもんなどの人気アニメ作品が多くを占めるが、実写作品も大ヒット作やエンタメ作品が選出されているようだ。昨年は『THE FIRST SLAM DUNK』が中国国内で百三十億円超の興収をあげる爆発的ヒットとなったが、かといって日本映画を無制限に公開しようという動きになるわけでもない。私の過去作は中国政府を刺激するような内容ではないはずだが、中には性的な描写もあったし、広い広い中国大陸内(「香港特別行政区」を除く)では一度も公開されてこなかった。そんな場所で、いきなり特集上映? 私の作品のことなど、あの大陸に住む人の誰が一体知っているんだろう?
 しかし、「レター」の内容はこうだった。

 近年、中国の創作者たちは「家族」の意義を見直さざるを得ない状況にあります。二〇一八年以降、中国映画にはあたたかい家庭に潜む暗さや複雑さを描いた作品が多数現れました。これらの作品の監督は、多くが八〇年代から九〇年代生まれです。中国の経済や社会潮流が大きく変化する中、彼らの家庭に対する感覚はすでに親世代とは全く異なり、自身が都市でサバイバルしている感覚にもとづき、家族愛、介護、死、女性の家庭労働、夫婦の日常生活の新しい意義というテーマに挑み始めています。西川監督はデビュー作からずっと、あたたかい家庭の日常の下にうごめく闇を取り上げてきました。第二作目では家族の上にある暴力性をさらに強く描いています。昨今ニュースで取り上げられているような、失業や高齢化、婚姻率の低下などをすでに二〇〇三年の時点でテーマとして扱われており、こうした作品は中国で多くの共感を呼んでいます──

 
 ちょっと、ちょっと、ちょっと待って。猛烈に熱意は伝わってくるけど、「多くの共感」って、まず、どこでた?
 想像はしていたが、つまりは海賊版だ。心配しなくても『パラサイト』、何億人もがばっちり観てます。以前は中国の街中の路面に海賊版DVD販売の店舗が白昼堂々と並んでいたというが、今ではネットからのダウンロードが主流となり、海外作品の海賊版の流通は膨らみ、スピードを加速させてきた。一説にはホームシアター用のチューナーらしき「箱」を購入すれば、あらゆる日本作品が下手すれば公開前から自宅で鑑賞できるとか、できないとか。なんだよその箱。

 しかし、多くの外国映画が規制されている中国国民の渇きは激しい。あらゆる情報統制の隙間をかいくぐり、若者たちは世界の映画やドラマをむさぼるようにあさっていく。「海賊版はけしからん」──理屈ではそうなのだけれど、日本の劇場で映画を公開したって、脚本家や監督には著作権がなく、一円も実入りがないのだ。そんな利益配分に甘んじてきた感覚からすれば、もはや怒る順番が違う気がしてしまう。海賊版業者が、何千万という中国人に私の作品を売って、私やスタッフの得るべき利益をかすめとっているのは許せないが、それでも永久に売られる見込みもないままにただ忘れ去られていくよりは、遠い土地に住む、縁もゆかりもない人々に観てもらえる方が映画は報われる、とも思ってしまう。私だって、若い頃から数百円のレンタル料で世界中の映画を観せてもらってきた。それが厳密にベルイマンやタルコフスキーの個人口座にチャリンチャリンと入金されていたわけでもないだろう。そう考えれば、持ちつ持たれつだ。手段はどうあれ、私の作品を観てきてくれた人たちが、かの大陸にいるのだという。そして、実際にはパソコンでもコピーDVDでも、もはやいくらでも視聴方法があるというのに、わざわざスクリーンで観直したいと言ってくれるのである。

 こうした中国の現状と、西川監督の創作を結ぼうというのが、今回の企画の趣旨です。ぜひ中国にお越しいただき、中国の観客との直接交流を通じて、作品やその背景の全体像を知る機会を与えていただければと願っております。二〇二四年はちょうど西川監督の長編デビュー作の二十周年に当たる年でもあります。これが良き回顧と交流になることを希望します。

 
 え、私二十周年なの? 数えてみれば正確にはデビューから二十一年がっていた。けれど、その節目だった去年、私の作品はどこで振り返られることもなく静かに過ぎていった。ここまで言ってくれる人がどこにいる! 行きましょう、どこにでも。私は先のプロデューサーに電話をかけ、すべての長編作が上映できるようにしてもらう段取りを頼み、七月に北京ペキン杭州こうしゅう武漢ぶかんの三都市を巡る旅に出ることを決めた。

 
 過去に一度だけ中国を訪れたことがあった。一九九五年の夏、まだ映画の仕事に就こうなどと考えもしていなかった学生時代のこと。北京に留学していた友人の寮に遊びに行き、内モンゴルや上海などを巡ったのだ。当時の中国の物価は日本の十分の一くらいだったと記憶している。あまりお金がかからないから旅行先に決めたようなものだった。

小綺麗こぎれいな服装はだめ。悪目立ちするから一番ダサくてボロい服で来て」と友人から言われていた。言われなくても古着の上下しか持っていなかったが、いくら色褪いろあせていても、擦り切れていても、私たちの洋服と現地の人々の着ているものは根本的に異なっていた。人民服の人も多かったし、老いも若きも一様に、デザイン性や色彩や個性というものが削り取られたような服装をしていた。英語の文字のプリントされたTシャツや洗いざらしのジーンズは、やっぱり浮いていた。

 私が時折シャッターを切っていたニコンFM2という一眼レフのマニュアルカメラを、すれ違う人、店の人、乗り物で対座する人たちは必ずじっと凝視した。バイトでめたお金で七万円台で買った中古品だったが、そのカメラ一台の値段が、庶民の月収の七、八ヶ月分にあたる、と聞いた。そのくらいの価値のものを二十歳そこそこの日本の小娘がぶら下げて歩いていることに対して、中国人民の視線がただの羨望ではないことは確かだった。年配の人には、統治時代の名残でまだ日本語がわかる人もいた。散々自分たちを踏みつけにした日本人が、戦争に負けた末にこんな豊かさを手に入れているという現実を、どう捉えているのか。私が見返しても彼らが目をらすことは決してなく、結局ひるんで目を伏せるのはこちらだった。

 経済成長の波が押し寄せるまさに前夜、という時代だったのだろう。街の風景はまだすべてが前近代的で、建物は殺風景で古ぼけており、おびただしい数の自転車が街を行き交い、人々の暮らしは貧しそうだった。北京駅前の食堂で定食を食べ終わって席を立つと、隣の席に潜んでいた男性がすかさず私たちの皿に残った魚の骨や煮汁をすすり出して、店員に怒鳴りつけられていた。美食の国と言われるが、学生が入りやすいようなカジュアルなレストランは見当たらず、カップラーメンや餃子ギョーザでやりくりしていたが、二日に一度は腹を下し、日本から持っていった正露丸も効き目を失っていった。

 銀行員や駅員や店員、サービス業の人は誰もが無愛想で、何を尋ねても「没有メイヨー(ない)」としか答えなかった。粘ってすごんでせっついて、やっと物を出してもらった挙句、一瞥いちべつもせずに釣り銭を放り投げられた。公衆トイレには個室の仕切りがないのが当たり前で、下に掘られた一本の溝をまたいで用を足すようなスタイルもあった。排泄はいせつをする他人の尻を目の前にしたのは初めてだった。トイレットペーパーは滅多めったに置いてないから、日本からポケットティッシュをたくさん持ってくるようにとあらかじめ言われていたが、上海の饅頭まんじゅう店で、相席した子供が服に肉汁を散らした時にそれを若い父親に手渡すと、彼は控えめにお辞儀しながら、なんと便利なものを、とためつすがめつ見入っていた。
 あれから約三十年。間違いなく、世界のどこより大きく変わった国だろう。
 あの頃は、自分たちの無自覚の豊かさに、少し身を小さくしなければならない気持ちがあったものだが、経済の勢力図はとうにひっくり返り、そんな遠慮はもはや無用だろう。その代わり、GoogleやLINEは使えないから他の連絡手段を準備しておくこと、スパイ行為の取締まりが強化されているから、空港や街中で無闇に写真を撮ったりしないこと、など、通常の海外出張前には聞かされない類いの注意事項を伝えられた。三十年前、人々は一眼レフカメラそのものにじっと見入っても、レンズを向けられることには誰もが泰然としていたものだが、私はもう、小さなデジタルカメラさえ持って行くことを断念した。


 北京の空港に着くと、美しいはすの花束を持ったスタッフの人々が出迎えてくれた。彼らは政府機関の人でも一つのカンパニーの人でもなく、俳優、配給会社のスタッフ、出版企画者、日本人通訳者、デザイナーなど有志の集まりで、熱烈な日本映画のファンでもあり、これまでに濱口はまぐち竜介りゅうすけさんや三宅みやけしょうさんの巡回上映を行ったチームなのだという。同じ思いを共有する彼らが企画し、スポンサーを募り、かの「レター」を美しい日本語でしたため、中国政府の電影局に対して綿密な交渉を繰り返してようやく上映にぎ着けたものだそうだ。それでも、六日後に控えた武漢市での上映スケジュールが確定していないと言っていた。「現地の電影局の担当者が長期不在中で、最終許可が下りないんです。申し訳ないんですが、一日オフになるかもしれません」。直前に上映禁止のおふれが出ることもあれば、上映中に映画館の電力をオフにされることもあるという。

「蓮の花束なんて日本じゃ見たことがないですよ」と言うと、「蓮の花は中国では『平和』という意味があるので、『美和』さんに」と、私の重たいスーツケースを代わりに引っ張ってくれつつ、この巡回上映の企画者である三十歳の薛旭春シュエ・シーチュン氏は人のさそうな笑顔で教えてくれた。蓮の淡いピンクと同系色のガーベラやカーネーションがぎっしりと寄せられた花束のデザインは実に豊かで洗練されていた。


「今回の巡回上映の告知を開始した途端に、チケットはほんの数分で売り切れてしまいました」と彼らは言ったが、にわかに信じがたいと思った。

 濱口さんは二〇一九年の中国巡回上映で3500人(七日間)、三宅さんは二〇二三年に6000人(十四日間)もの観客を動員し、その熱気と盛り上がりに企画者のメンバーも胸を熱くして、私の名前を新たに挙げてくれたのだという。

 しかし私が日本国内の映画祭や上映イベントなどに呼ばれて出かけても、滅多に会場が満席になることはない。空席の目立つ会場の壇上で上映後の質疑応答をしながら、客席で高齢者が気持ちよさそうに舟を漕いでいるのを眺めることもしばしばだ。

 恐る恐る、上映の終了した「中国電影資料館」のホールの扉を開けると、そそり立つような600席はぎっしりと若い観客で埋まっていた。

 質疑応答の時間です、と司会者がマイクを客席に回すと、半数近い人が一斉に手を挙げた。洋服や帽子を振ったり、立ち上がったり、大声で「ニシカワ!」と絶叫したり。指名された観客はガッツポーズでマイクを受け取り、通訳が追いつかないテンションで自分の感想を滔々とうとうと述べ、さらにいくつもの質問を重ねてくる。

 質疑応答の後は、サイン会の時間が取られており、何百人もの列ができる。中国語訳された私の小説やエッセイ、また一体どこでどうして手に入れたのか、十五年、二十年前の作品の限定チラシやポスターを持っている。あるいは、自作とおぼしきオリジナルポスターやグッズ、私のブロマイド(!)やらを誇らしげに持ってきては、これにも、ここにも、とサインを求められる。手作りのお土産や、達筆な簡体字の並んだ手紙もくれる。電影資料館の警備のおじさんに「サインは一人一つまで! それ以上欲しい人は最後尾に並び直せ! てゆーかお前、何回並んでんだ!」などと容赦なく𠮟責され、追い立てられながらも、彼らの情熱がたゆむことはない。何度でも並び直し、何度でもサインをもらう! もらうまで帰らない! ……何だかまるで試合後のスポーツの観客の活気のようだ。さっきまでかかっていたのは、本当に私の映画だったんだろうか?

 これが、連日数回、北京・杭州・武漢、三都市のどの劇場でも繰り返された。何かきつねにつままれたような思いである。私の映画にこうも熱く、多くの若い人が反応しているところを日本では見たことがない。人口14億人超という分母を考えれば、目に見えないようなパーセンテージでしかないのだろうけれど、しかし彼らの関心は現代日本映画に限らない。フェリーニやパゾリーニ、ロメールといった作品の特集上映が行われれば、情報解禁後数秒でチケットが完売し、IMAXの巨大スクリーンの数百席が連日超満員になるのが今の中国だというのだ。他の国の住人なら当然触れられる情報に触れられないことが、人間の好奇心を余計にき立て、かくもアグレッシブな渇望を育むということなのか。それは翻って、あらゆる情報にアクセスできる環境が、どれだけ人間を無関心にさせるかということの裏返しのようにも思えた。また、重苦しい歴史や領海を巡る政情によって反日教育を繰り返し受けてきたはずの人々が、こんなふうに熱烈に日本の作り手を歓迎するということに対しても驚きを禁じ得なかった。この国は一体、どこまでが自由で、どこまでが不自由なのか。彼らは何を知っていて、何を知らされていないのか。何を覚えていて、何を忘れているのか。生きていく上で、どんな表の顔と裏の顔の使い分けがあるのか。

 真夜中近くに会場から出て、迎えの車に乗り込む時にもまだ観客たちはわいわいと表で待っていて、見送ってくれた。その場の空気に飲まれて、皇室の人のように窓から手を振っている自分が滑稽だった。三十年前の旅行の時とは比べ物にならないほど清潔で瀟洒しょうしゃなホテルの一室には、花瓶に生けた蓮の香りが控えめに漂っていた。LINEは通じず、Wi-Fiも役には立たなかったが、私は誰と交わることもなく、深夜までただ考え込んでいた。ホテルのシャワールームで使ってください、と薛旭春がプレゼントしてくれたパンダ柄のクロックスもどきを履いて。

   *

 妻に突然先立たれる夫を主人公にした映画を香港で公開した時、女性のライターから「なぜあなたは女性なのに、夫に先立たれる妻の視点から描かなかったのか?」と問われたことがあった。

「妻に先立たれた夫の方が悲惨でドラマになりやすいと思ったから」と答えたら、いまひとつに落ちない顔をしていたので、「だってほら、家のことを何もわからない男性は多いでしょう? 悲しみに暮れる以前に、洗濯機の回し方がわからなくて困ったり」と補足すると、彼女はややバツの悪そうに笑い、「ああ……でも香港は、女性も男性も同じように家事が苦手だから……」と教えてくれた。

 古くから女性の就業率が高く、外食文化や家事・育児の代行サービスの利用が庶民にも広く定着している香港。日本の妻たちのように、夫が亡くなると家事労働や介護から解放され、のびのび羽を伸ばして第二の人生を! といった話には馴染みがなく、グロテスクにも感じたようだ。男も女も、伴侶に先立たれれば残るのは喪失感と悲しみだけ。「ロマンチックですね……」と言うと、「だからみんなすぐに他を見つけて再婚しますよ」とにっこり笑っていた。

 そんな話を聞いたけれど、中国大陸、他の地域はどうですか? と北京の人々に尋ねてみた。北京は東京と同様、中国全土の人が集まって仕事をしている。湖南省、湖北省、雲南省……スタッフの出身地もバラバラだが、みなその質問には当然だと言わんばかりにうなずいて、

「家事は男性の方が上手ですよ。共働きがほとんどですが、女性は家に帰ると横になってます。料理は大抵父親の担当。外出する時も荷物を持つのは男性。優しくて家事ができないと男性はモテませんからね」と答えが返ってきた。カルチャーショック!

 戦後の新生政府が、一九五〇年には世界に先駆けて夫婦別姓を認めたという中国では、「空の半分は女性が支える」という概念が定着しており、女性は外で仕事を持ち、ものをはっきり言い、強いのだという。上海などの大都市や四川省などでは特にその傾向は大きいそうだ。「四川省の二つのうそ、という話があって、一つは、『この料理はそれほど辛くないよ』。もう一つは『うちの妻は俺の言うことを聞く』」。

 もちろん地域差はあり、農村部や、孔子こうし孟子もうしの出身地である山東省は儒教的・保守的で、来客時には妻が夫たちと同じ部屋で食事をってはならないという習慣があるのだそうだ。「乗っている飛行機が山東省の上空に来た時は、女性は食事のテーブルを畳まなきゃいけない、なんて冗談もありますからね」と、中国人同士でゲラゲラ笑っていた。

 日本が数十年かけてえっちらおっちら是正しようとしてもなかなか上がらない女性の就業率や性別役割分担のアンバランスは、中国においてははるか昔に解決済みの課題であり、ジェンダー・イクオリティはずっと先を行っているようにも思えた。

 二十年前の私のデビュー作など、典型的な家父長制の家庭を描いたホームドラマで、家事・介護を母親が一手に担い、会社人間の父親はふんぞり返って自らのリストラを家族に打ち明けられず、娘は適齢期に結婚を考え……という風景が描かれており、今なら日本人が観ても隔世の感はあるはずだ。中国の人には、理解できない不当な価値観に見えるのではないかとも思ったが、どうだったのだろう。

「ええ、確かに家庭の中では女性は強いんですが、政治の中核を担うメンバーや社会的地位の高い幹部は男性が占めているから、社会構造は変わらないんですよ。だからフェミニズムや#MeToo運動も盛んです。相変わらずルッキズムは根強いし、求人欄にもいまだに『容姿端麗』なんて平気で書かれてますからね」と日本人の通訳さんが教えてくれた。

「たとえば演劇大学の演出家コースにはたくさん女子学生も在籍してるんですが、びっくりするほど背の高い美人ばかりなんです。とにかくメンツを気にするし、見栄え重視な価値観が根強いんですよ。北京電影学院の監督科には少し前まで身長制限があったらしくて、有名監督の賈樟柯ジャ・ジャンクーは背が足りないから監督科には落ちたんだ、という説もありますから……」ショック! 相撲部屋か!

 この仕事に自分が向いているかはともかく、身長だけは関係ない、背が低くても支障はない、と思ってこれまで映画監督業を続けてきた152センチの私だが、「あんなチビでよくやるな」と中国の観客には思われていたのだろうか……ちょっと泣いてきていいですか。

 世界基準の価値観との合致とズレとが複雑に絡み合う不思議の国。しかし、彼らの中ではズレでも遅れでもなく、自分たちの基準の方がはるかに「合理」だということなのかもしれない。

 映画産業はアメリカにもせまる右肩上がりの市場で、最新のスタジオやテクノロジーに対しても、巨額の資金が投じられているという。北京市内で撮影中だったあるベテラン監督の現場を見学に行かせてもらったところ、歓待してくれたプロデューサーたちはみな三十五歳未満。日本の難関大学や欧米に留学経験があり、英語が流暢りゅうちょうしゃべれて、スマートな洋服を身にまとい、実に爽やかでホスピタリティあふにれている。いわゆる日本の「映画屋」と言われてきた人たちのような、いかつさ、気難しさ、古狸ふるだぬき臭を全く感じない。

 通常の商業映画の現場スタッフの人数は、150人~200人(日本は30人~70人)。機材も人も潤沢に投じられ、余裕のある雰囲気で撮影は進められていた。ああ、日本の映画界がこの二十年変わらなかった間に、現場も何歩も先を行っている……。きっと労働時間や生活の質も、重視される傾向に改善されたんでしょうね、と、思いきや、
「いえいえ、中国の映画撮影は規定がありませんから。四十二日間休みなし、みたいなのは普通です」
 なんと。日本の撮影隊をしの蟹工船かにこうせんぶり!

 時計は夜の十二時近いというのに撮影は終わらず、平気で次のシーンの準備が始まっている。私の方がそわそわし始め、「終電は何時なんですか。今日はスタッフはタクシーで帰るんですか」と尋ねると、
「撮影期間中は、全員ホテルで合宿してるんですよ。スタッフ用の車両でホテルと撮影現場の送迎があるから、何時になろうと大丈夫。ほとんどのスタッフは北京市内に住んでますけど、中国は全寮制文化ですからね。北京での撮影でも地方ロケでも同じことです。東京のスタッフは毎日自宅に帰るんですか?」
「帰りますよ……予算が少ないし、宿泊費やタクシー代を出せないから、必死で終電までに撮影を終わらせようとするんです」
「そりゃ大変だ」
 どっちが大変なのかはわからない。しかしなぜだか全体的に雰囲気がゆったりしていて、疲労感も、切羽詰まったような緊張感もない。
「製作予算は大きいものなら数十億円、数百億円にもなっているし、スタッフも大量に投入するから、現場の緊張感や一体感はあんまりないですよね。仕事をしてるんだかしてないんだかわからないような人もぶらぶらしています。日本の現場は必要最小限の人数しか入れないんでしょう。だからスタッフ一人一人のスキルや作業効率はずっと高いかもしれませんね」

 日本の近ごろの現場と最も違うと思ったのは、ぐるりと見回しても、女性がほとんど見当たらず、監督や撮影監督以外には年嵩としかさのスタッフがいなかったことだ。確かにこんな弾丸体制では、家庭を持つ人や、子育て世代の生活との両立は難しいだろう。

 中国では「三十五歳の壁」と言われる問題があり、多くの企業や公務員の雇用・採用は三十五歳以下に限られ、それを超えると賃金が下がったりリストラされたりするという。クビを切られない重要な役職を得るために若い働き手の出世競争は熾烈しれつを極めるが、ポストが得られなかったミドルエイジの多くは組織から姿を消し、変化の少ない業種や、ドライバーなどに転職していくのだそうだ。

 日本は今でさえ「上がつっかえている」と言われているのに、定年は七十歳まで引き上げられ始め、まるであべこべな状況だが、高い賃金を払うのに物覚えも成長も鈍い中高年よりも若者を取る、という容赦のなさはいかにも現代の中国社会らしくもある。確かにこの巡回上映イベントのスタッフも、撮影現場にいる人々も、誰もが若い。若い人々が主導権を握り、ネットやチャットを駆使して、効率よく生き生きと現場を切り盛りしている姿はいかにも風通しがよく、明るい未来を予感させもするが、実は、すでに若くない人は見えないところに追いやられてしまっただけなのかもしれない。

 
 一方で、若者の就職難が社会問題にもなっている。経済成長に伴って子供の教育にお金を使うことが奨励され、今では毎年1000万人の若者が大学を卒業して社会に出てくるというが、もはや経済も失速する中で彼らの学歴に見合う職種が足りなくなり、高等教育を受けた人の七割が親元でニートになったり、食品デリバリーの仕事に就いてやり過ごしたりしているのだという。その上に、三十五歳の壁が重なって、若者たちは、元気に見えても悩みは深刻だ。

 バブル崩壊後の就職氷河期を経験した私の世代は、今の中国の若者の相似形とも言えるのかもしれないし、二十年前から作られてきた私の映画の描くものは、彼らにとっては自分たちの辿たどる暗い未来像のような見え方をするのかもしれない。

「先行きが困難と思えるこんな時代に、僕たち若者はどうすべきだと思われますか」とサインついでにぼそりと尋ねた学生がいたが、その問いかけの重さに、私は言葉に窮してしまった。上向くことを期待できない時代の若者だった私がどう生きたか──そこには、社会をより良くしようという殊勝なビジョンはなく、安定的なレールから自らドロップアウトした結果がこのような「創作活動」につながっているとも言える。労働に対する適正な対価や生活の質などはな・・から期待せず、アウトサイダーとして生きることを引き受けなければ「本当のこと」は言えない。社会や企業が用意した都合の良い条件にはあえて背を向けたし、失うものはなかった。

 しかしある種の不遇さを共有したはずの同世代と連帯することもできず、捨て鉢だったまさにその先に今の時代があるようにも思える。戦争も高度経済成長も環境破壊も、ツケを回されるのはいつも後から生まれた者たちだ。「気がついたらそうなっていた」と上の世代は口をそろえて言っていたが、自分ももはやその一人になったのだとも思った。あなたに「こうすべき」とは言えない。私たち以上の世代が今からでもどうできるのかを考えるべきだと思うのですが……と独り言のようなことをモゴモゴ返したが、彼は期待した答えを得られなかったような微笑ほほえみを浮かべて、帰っていった。

 公務員として生きていくことが最も安定的で理想的、という価値観が固定化した中国で、農村と都市、肉体労働者とホワイトカラーとの格差は大きい。私にインタビューをしてくれたライターの女性は、両親ともに公務員で、彼女がシェフの男性と交際していることを報告すると猛反対されたという。賃金や暮らしのレベルだけでなく、職種、属性、外見などをめぐる精神的な断絶や差別が、日本とは比べ物にならないほどむき出しだ。豊かさや幸せという、本来すべて人によってかたちの違うはずのものが、ひどく小さな物差しではかられようとすることで、この広い広い国土に住む人たちの心を窮屈にさせ、過剰な緊張を強いている気がしてならない。チビでフリーランスで固定給がなくても、私は不幸だと思っていなかった。その無意識さそのものが、なんという幸福だったのかと初めて思った。

 
 時速350キロのスピードで、高速鉄道は田園風景の広がる大陸を駆け抜けてゆく。地図上では日本とは比べ物にならない国土だが、耳抜き必須のスピードで、都市から都市への移動は呆気あっけないほどに速い。どこの街にも、天をつくようにニョキニョキ伸びた高層ビルが乱立していて、また、釜のように暑かった。

「各地で美食を楽しんでください」とレターには添えられていたが、その言葉通り、どの土地の料理もすばらしかった。キノコをふんだんに使った上品な雲南料理、汗の吹き出す湖南料理、珍しい野菜を使った杭州の農村料理、デリバリーの飲茶ヤムチャ、長江の港湾労働者メシの魚骨スープのラーメン、武漢名物ゴマダレまぜそば……そんな料理が、東京の食通が好むような、気取った気配のかしこまった店でちまちま出るのではなく、わいわい雑多な、気の置けない店で、ドーンと、ダーッと出され、ぐるぐる回してじゃんじゃん食べる。都市ごとに、食事をし、上映会があり、質疑応答をし、数百人にサインをし、食事をし、また上映会があり……息つく間もない過密日程だったが、私以上にスタッフたちは寝る間も惜しんで当局との調整を図り、働きづめの様子だった。ホテルを出た瞬間に迎えの車が到着し、会場に着いた途端にデリバリーが届く。日本の宣伝マンもびっくりの気遣いと段取りだ。「三十年前はあんなにやる気のない人たちだったのに……」とは言えないが、働きまくるスタッフも、何時間でもサイン待ちする観客も、この体力の根底には、やはり文句なく「うまい飯」というエネルギー源があるのではないかとも思った。

 出国前に食事の希望を尋ねられ、「できれば家庭料理を食べてみたい」と私がリクエストをしていたので、厨房ちゅうぼう勤めの経験があるという武漢上映の協力者のワンさんが、自宅で手料理を振る舞ってくれた。一般家庭の台所とは思えない燃え盛るような火力のガス台の上で、汗だくになって鍋を振るエプロン姿の男性。使うのは大きな中華鍋と蒸し鍋一つくらいだが、洗っては火にかけ、洗っては火にかけ、ものすごい効率で進んでいく。とりどりの旬の野菜のえ物、いため物、ザリガニの麻辣マーラー煮込み、タウナギと豚肉の旨煮うまに、蒸し魚の香味のせ、数えてみたら、たった一人で長テーブルをぎっしり埋める十四品。これがモテる男か!

 普段はドキュメンタリーを製作したり、映画批評をしたり、自分で映画の上映会を行ったりという王さん(中国の人々は、いろんなことをしていて肩書きが多い)。どれも言葉を失うほど美味おいしくて、その感激を何度も伝えるのだが、汗だくで頑張ってくれた割には反応が薄く、当人はビールを飲みながらまるで違う話をしていた。中国人にとって、美食も、料理上手であることも、日本人が家を整頓し、街にゴミを捨てないくらいのことなのかもしれない。十四品、食べ尽くしたはずなのに、朝起きたらもうおなかいていた。

 
 旅に出る前には、「中国ですか! また何で?」と人から驚かれることが多かった。特にパンデミックの発生地とされた武漢市も組み込まれていたから、大抵の人々は「わあ……」と言葉を飲み込んだ。「羨ましい!」とは誰からも言われなかった。

 日本を訪れる中国人観光客や働き手は多い割に、政治的には常に緊張感が漂い、文化交流の場としても旅行先としても、三十年前以上に遠く感じる国になった。けれども、実際に行ってみなければわからないことがこれほどある国も珍しい。連日、聞く話、出くわすこと、驚きの連続だ。最もふるくから交流があり、海を挟んだ隣のはずなのに、これほどまでに私たちと違い、世界のどの国とも違う。そして、報道や日常的な情報から抱いている印象とも、大きく違う。上映会のファシリテーターたちの勉強量や準備は、私が知る限りのどこの国の映画祭やイベントよりも周到だったし、スタッフたちは時間に正確で、気配りが行き届き、仲間同士にも優しく、朗らかで、オープンで、何一つ強引な注文や、約束と違う行動はなかった。どうだろう。私が出会った中国人が、特殊な人々だったのだろうか?
「次の作品こそ、公開できるように期待しています。いつまでも待ってます」
 と、観客の人々もスタッフも口々に言ってくれたが、社交辞令、という言葉は、中国からきた四字熟語ではないはずだ。各地でもらったプレゼントやお土産とパンダのクロックスもどきを、ぎゅうぎゅうのスーツケースにじ込んで私は帰路についた。

 普段は海外から戻ってくると力が抜けたようになり、まずは出汁だしの利いたうどんを啜り込みたくなるのだが、帰国して台所に立った私が取り出したのは行平鍋ではなく、底の丸い鉄の中華鍋だった。武漢のスーパーで王さんが勧めてくれた豆板醤とうばんじゃんを鍋底に放り込み、最大の火力で、激しく鍋を振っていた。

 

追記:この原稿の脱稿後に、深圳しんせんの日本人学校に通う男の子が中国人男性に襲われて命を落とす事件が起きた。なぜ十歳の男の子が殺されねばならず、中国人男性が日本人を襲わねばならなくなったのかはわからない。この稿に書いた通りの、日本人や日本文化に対して友好的な中国の人々を目の当たりにしたばかりの私には、一方でそのような憎悪の価値観が存在していることが信じがたく、また信じたくもない思いだ。亡くなった男の子の死を、国境や国籍を越えて多くの人が悼んでいる。政治や歴史への反発が、個人への暴力にあらわされるべきではないし、小さな人の未来を奪うことは間違っている。このような事件がもとで、それぞれの国内に住む人が互いに背を向け合うことにつながらないことを祈りたい。(二〇二四年九月二十七日)

 

〈「STORY BOX」2024年11月号より〉
※次回は9月7日公開予定です。

 


西川美和(にしかわ・みわ)
1974年広島県生まれ。映画監督。2002年、『蛇イチゴ』で脚本・監督デビュー。主な作品に『ゆれる』『ディア・ドクター』『すばらしき世界』など。小説に『ゆれる』『永い言い訳』、エッセイに『スクリーンが待っている』『ハコウマに乗って』などの著書がある。映画『わたしの知らない子どもたち』は、第51回トロント国際映画祭のプラットフォーム部門に正式出品が決定。最新刊は同名の原案小説。

わたしの知らない子どもたち

『わたしの知らない子どもたち』

(palm books)


映画『わたしの知らない子どもたち』ポスター

映画『わたしの知らない子どもたち』

原案・脚本・監督:西川美和
10月16日(金)全国公開
©︎2026 K2 Pictures・AOI Pro.
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採れたて本!【デビュー#44】
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