連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第45話 加賀乙彦さんと高山右近

連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第45話 加賀乙彦さんと高山右近

名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間には、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。一般読者には知られていない、作家の素顔が垣間見える裏話などをお伝えする連載の第45回目です。今回は、小説家であり、精神科や犯罪心理学の分野における医学者でもあった加賀乙彦さんとの逸話。キリスト教迫害の歴史を背景に様々な出来事を俯瞰で見つつ、実体験も交え、人間の内面と社会的背景の結びつきを丁寧に深く描写した作品は、数多くの文学賞を受賞しました。編集者ならではの視点で見た加賀さんとはどのような人物だったのでしょうか。


「PETIT POINT」というフレンチ・レストランが東京の南麻布にあった。客の銘々に配られるメニューの空白に、加賀乙彦さんがサインしたものが私の手元にある。

 私たち編集者が加賀さんを囲んで原稿を催促する会だった。

 Le 25 août 1993と印刷されているから、1993年の8月25日のことだ。

 その年より6年前、加賀さんには一身上の事件があった。

 加賀さんの自伝の中の「洗礼にいたる道」※(著者の『加賀乙彦自伝』(集英社)第5部「いかにしてキリスト教徒となりしか」の中に収められている章および、その信仰の歩みを指します)の項に、そのことが書かれている。

 洗礼を受けた母親が亡くなって4年後、加賀さんは、いっぺん神の存在を否定してしまうと、世の中のことがうまく認識できなくなって、信仰を持たないことがだんだんと苦しくなってくるという状態に陥った。そして、1974(昭和49)年に建てた追分の山小屋で、1987(昭和62)年、親交があった門脇佳吉かきち神父と、四日間、根を詰めた対話をする。

 加賀さんは、キリスト教で言う原罪、聖霊、悪など、およそ百項目くらいの質問を門脇神父にぶつけたようだ。

連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第45話 加賀乙彦さんと高山右近 写真

 その結果、加賀さんはイエスには何も疑うことがないという境地にたどり着く。それから3ヵ月後、1987年12月24日、クリスマス・イブの日に夫人と共に、遠藤周作夫妻を代父母として、カソリックの洗礼を受けた。

 この洗礼は、加賀さんにとって大きな意味を持つと同時に、私たちがずっと頼んできた長篇小説のテーマにとっても重要な意味を持つことになる。

 今度の小説は、高山右近を題材にするということになっていたが、冒頭に書いた食事会の席で、その年の暮れにマニラに取材に行くことが決定した。

 高山右近は、戦国時代を生きて武士道を極め、同時に茶道を極め、またキリスト教徒として宗教の道を極めた、いわば道の人であると思う。そして、キリスト教禁止令のために日本から追放され、最晩年をマニラで過ごし、亡くなった人である。

 取材が決まって席を立ちながら、加賀さんが、

「マニラは暑いところで、雪なんか降らない土地でしょう。あそこのクリスマスはどんななんだろう」

 と呟いたのを、私は覚えている。

 たしかに、マニラでは、ホワイト・クリスマスという訳にはいかないだろうし、トナカイだってソリを引けないはずだ。マニラの気温で一番低いのは2月だが、それでも20度を超すようだ。

 日本のキリスト教の歴史は、1547(天文16)年、フランシスコ・ザビエルがマラッカでアンジロウと会ったときからはじまっている。アンジロウは、記録上、日本最初のキリスト教信者であり、通訳でもある。ザビエルは日本伝道を志し、1549(天文18)年、アンジロウの案内で、トルレス神父、フェルナンデス修道士とともに鹿児島に上陸し、日本での布教をはじめた。

 織田信長の時代には布教も許されていたが、豊臣秀吉の時代になると、キリスト教徒受難がはじまる。

 1587(天正15)年、秀吉は、ポルトガルの大型戦艦2隻をめぐってのいざこざから、伴天連追放令を出す。

 1596年(慶長元年)、秀吉は、前の追放令より徹底した禁止令を発布し、みせしめに京都で活動していたキリスト教徒たち26人を処刑した。のちに、この26人は聖人の列に加えられたので、「日本二十六聖人」と呼ばれている。

 江戸幕府になると、すぐには禁止されなかったが、1612(慶長17)年、まずは天領のみが禁止され、翌1613(慶長18)年、徳川家康は全土にキリスト教禁止令を出す。

 この禁止令によって、62歳になっていた高山右近は日本から追放になって、追放船に乗って、マニラに行くことになるのである。

 加賀さんは追分の山小屋を執筆の場として活用していた。

「僕は執筆に行き詰まると、必ずここに来るんです。すると、不思議なことにとたんに書けるようになる」

 と言っていた。だが、『高山右近』ばかりはそういう風にはならなかった。

 私はその後何年か、夏に一回、軽井沢プリンスで、加賀さんとワインを飲みながら、原稿を催促するということをした。

 私が、毎年、軽井沢で催促したにもかかわらず、小説が完成する前、1997年11月14日に、加賀さんは、創作能『高山右近』を、千駄ヶ谷の国立能楽堂で初演した。

 私はチケットを加賀さんから頂戴して、当日、能楽堂に足を運んだが、

「小説より能の方が先に完成したのか」

 と思うと、冷静ではいられなかった。

 この創作能『高山右近』は夢幻能の形式をとっていて、高山右近の霊が地上に降りて、父(右近)の死を嘆く娘ルチアに、肉体が滅びることによって得た魂の平安を語り、娘を慰める。そこに洗礼した加賀さんの思想が表れている。

 創作能『高山右近』は、台本は加賀乙彦さん、作曲が野田暉行てるゆき氏、衣装デザインが森はな氏、演出が梅若猶彦なおひこ氏による新機軸の能である。

 この作品で演奏される音曲や地謡は新しく作曲され、洋楽器も使われている。フルート、ハープ、チューブラーベル(鐘)、それに中国古代の楽器が演奏され、女声合唱も歌われるのだ。

 森英恵氏による衣装デザイン、とくに天国への飛翔を思わせる白い衣装は斬新な意匠だった。梅若猶彦氏の演出は、新しい試みへ挑戦し、この難物の創作能を見事に開花させていた。

 私もはじめに持っていた不満を忘れて、能の世界に没頭していた。

 そして、ついに、1999(平成11)年9月号の「群像」に長篇小説600枚『高山右近』が一挙掲載され、少し遅れて、単行本『高山右近』が出版される運びとなった。

 もちろん、能の『高山右近』と小説の『高山右近』とは違った作品であるが、しかし、肉体が滅びて神のもとで心の平安が訪れるというテーマは共通している。

 小説『高山右近』は、17章に分かれていて、各章の見出しは以下の通りである。これらの章を追うと自然に、高山右近の半生と、日本のキリシタン布教と迫害の歴史が分かるようになっている。

1章「さい果ての島国より」

2章「降誕こうたん祭」

3章「豪姫」

4章「悲しみのサンタ・マリア」

5章「金沢」

6章「雪の北陸路」

7章「英雄たちの夢」

8章「湖畔の春」

9章「花の西国路」

10章「長崎の聖体せいたい行列」

11章「キリシタン墓地」

12章「遣欧けんおう使節」

13章「追放船」

14章「迫害」

15章「城壁都市」

16章「南海の落日」

17章「遺書」 

 このうち、冒頭の1章と2章、10章、14章、そして終章となる17章は、神父のファン・バウティスタ・クレメンテが金沢、長崎、そして雲仙の山中から、ポルトガルのゴアに住む妹に向けて送る手紙という構成になっている。

 この構成のおかげで、高山右近の近況、キリスト教布教、キリシタンへの迫害、金沢や長崎の当時の日本の状況などが、客観的な視点で描かれることになる。

 クレメントは、天正少年遣欧使節団の少年たちの品格ある行動を見て、日本での布教を志し、伴天連追放令のために、金沢に追われ、そのために高山右近と知り合うようになる。「降誕祭」とはクリスマスのことで、金沢では、毎年、聖書の場面を演劇化したものが、子どもたちによって演じられた。1613年の年は、禁令が敷かれ、残忍な迫害が行われる状況の中、子どもたちは「ノアの方舟」を演じて、拍手喝采を浴びる。そのあと行われたミサも感銘深いもので、加賀さんは、マニラの夏のクリスマスを案じていたが、金沢では吹雪の中、降誕祭の喜びが聖堂いっぱいに満ちたようだ。

「豪姫」は前田利家の四女で、子のない秀吉のために養女に出され、のちに宇喜多秀家の正室となる。秀家が八丈島に流されたあと、秀吉の正室である寧々ねねに仕えていたが、洗礼を受け、右近とは、キリシタン同士の親交がある。兄の前田利長が病で伏せっているなか高岡城を築いたのは高山右近で、右近は築城術の名人でもある。

 金沢を追放になるにあたって、高山右近は茶人・南坊みなみのぼうとして、(1624慶長18)年元旦、初釜を開く。客には、親しいジョアン内藤忠俊、その子息のトマス内藤好次、トマス宇喜多久閑を選ぶ。

 普段、右近は茶の部屋には掛け物を嫌い、いわゆる「床無とこなし」に固執していたが、今年は床の間が寂しく見え、「悲しみのサンタ・マリヤ」という南蛮画を掲げることにする。

 完璧な茶の湯のあと、右近は、

拙者は武将として多くの人をあやめてきた。これ以上の殺生は望まぬ。御禁制となれば殉教こそ望むところじゃ

 と、己の覚悟のほどを語る。

 秀吉からの使者は、右近の茶道の師である千利休であったが、そのおもむきは、禁令に従わなければ、マニラに追放するというものであった。右近はそれを莞爾かんじとして受け入れる。

 62歳の右近は、妻のジュスタ、娘のルチア、十太郎はじめ5人の孫と、ジョアン内藤忠俊夫妻とふたりの子、さらにトマス内藤好次とその子4人、それにサンチョ岡本惣兵衛とミカエル生駒弥次郎ふたりの家来を連れて行くことを決めた。

 岡本惣兵衛は、洗礼名をドン・キホーテの従者と同じサンチョとなっているが、それは加賀さんのドン・キホーテへの関心の深さゆえであろう。惣兵衛の洗礼は、主人にならってのことで、キリスト教と仏教の教えの差もよく分かっていないようだ。また、生駒弥次郎は剣の達人であり、勉強熱心でもある。

 娘ルチアは、嫁ぎ先に迷惑がかかることを恐れ、加賀藩家老で、夫の横山康玄やすはるへ離別を申し出て、別れることになる。

 右近たちは、激寒に積雪を分けながら北陸路を歩んでいかねばならない。それも咎人とがにんゆえだからだ。

 その後、右近たちは、北国街道を南下、今庄を抜けて4日目の夕方、越前と近江の国境、栃ノ木峠に着く。ここの宿場で、ゼス・キリシトの血と肉をいただくミサを開くことができた。

 この先、近江の木ノ本まで3日をかけて到達すると、余呉湖が見える。ここは柴田勝家の軍勢と羽柴秀長の陣が向かい合い、高山右近も加わった古戦場であるが、ひどい負け戦だった。

 いま、咎人の身となって右近は古戦場や安土を通りながら思うのは、信長も信玄も秀吉も家康も血にまみれた武将であるということだ。右近は、「英雄たちの夢」の虚しさを思い、琵琶湖沿いに北国街道を進み続ける。比叡山の向こうは京で、いよいよ旅の終わりは近い。

 しかし、右近は京に入ることは許されず、しかも人体改め(※死体(あるいは生きている人間)の身元や死因、傷の有無などを詳しく検査・確認すること)があり、咎人用の白装束に着替えさせられ、坂本にて禁足される。

 ここまで10日間は、北陸路と北国街道の難行の旅だったが、琵琶湖湖畔は春めいて来た。20日間ほど留め置かれたのち、京都所司代からの使者は「上意」が伝えられる。

高山右近、内藤忠俊、内藤好次の三名は長崎に放逐ほうちく致すべし。ただし婦女子は京に留まるを差し許す。また向後こうご、従者の同行は一切まかりならぬ

 ということであった。

 しかし、妻のジュスタと娘のルチア、それに孫の十太郎たちは、右近と同行をともにすることを懇願し、それは許された。惣衛門と弥次郎たち従者は、幕命とあればいたしかたなく、ここで別れることになった。

 京所司代の与力に引き連れられた雑色20人あまりが警護する中、丸腰で白装束に身を包んだ右近一家8人と内藤一家10人は、従者たちに別れを告げ、「花の西国路」を歩いて行く。右近がそばを通りながら山崎の戦いを思うと、絶叫、雄叫び、呻き、骨を砕いていく刃の軋み、矢音が耳に迫ってくるようだった。

 右近は、いままさに歩いている西国路を、秀吉軍の先鋒となって進んだときのことを思い出す。明智軍の先鋒として高松に向かっていたそのとき、本能寺の変を知らされたのだった。 

 黄昏たそがれ時、高槻たかつきに着く。その昔、城主だった高槻城があるところだ。いま、咎人としての右近一家の宿は、宿場の外れの破れ寺である。 

 右近は大坂で、町人に扮した岡本惣兵衛を見かけた。目で挨拶をする岡本惣兵衛は、どこまでも右近についていく気らしかった。 

 長崎には、メスキータ神父、ペドロ・モレホン神父、ジョアン・ロドリゲス・ジラン神父などにまじって、天正遣欧使節だった原マルチノと中浦ジュリアンたちがいた。

 長崎は海と山に囲まれている地形のせいか、警備も緩やかで、高山右近たちは、イエズス会の本部のあるトドス・オス・サントス教会付属の宣教師館に移り住むようになった。

 そして、右近はサンディアゴ病院で働きたいと申し出て、受け入れられると癩舎(※かつて「らい病」と呼ばれたハンセン病の患者を隔離・収容するために、療養所などの施設内に建てられた居住用の建物のこと)を希望し、黙々と癩者の世話をした。

 九州で、キリシタンの残酷な迫害をもっとも早く開始したのは加藤清正きよまさで、その影響は近隣の大名にも影響を与えた。キリシタン大名であった肥前の日野江ひのえ城主の有馬晴信はるのぶの死後、その子の直純なおずみは棄教し、残酷な処刑を行なったが、教徒撲滅に失敗し、延岡に移封されるという一幕もあった。しかし同じキリシタン大名であった肥前大村城主の大村純忠すみただの子、喜前よしあきやその嫡子・純頼すみよりも棄教して、教徒を迫害した。

 そうした状況の中、長崎では、聖体行列の儀式が行われている。聖体とは聖別されたイエスの肉体であるパンである。大勢の信者が長い行列をつくる儀式であって。その中に、代官のアントニオ村山等安とうあん一家が加わっているのが、長崎ならではの、不思議な光景である。

 寄宿しているサン・フランシスコ教会の裏の墓地に、右近は墓参に行くことにする。親しくなった村山等安の案内で、まず、右近の父であるダリオ飛騨守の墓に参った。

 飛騨守は、三好長慶ながよしから大和国宇陀うだ郡の沢城の城主に任じられる。

 1563年、仏教とキリスト教の論争の審判役に任命され、その論争を聞いているうちに、キリスト教に感化され、家族とともに洗礼を受けることになる。嫡男の右近もそのひとりである。

 1595年、飛騨守は、京都にて帰天きてんし、遺骨は長崎に運ばれ、ここに葬られたのである。

 この墓地には、右近旧知の、イルマン・ロレンソ、イルマン・シメオン・アルメイダ、パードレ・フロイス、パードレ・オルガンティーノなど多くの宣教師たちの墓も多くあり、キリシタン墓地の名にふさわしい。

 右近たちが長崎にいる間に5ヵ月が過ぎ、秋になった。右近はイグナチオ・デ・ロヨラによってはじめられた霊性修行を行うのが日課となり、いまでは、心が自在に動いてあの人の一生を追体験できるようになり、聖痕が、右近の手や足、脇腹に現れるようにもなった。

「遣欧使節」がヨーロッパに着いた時から、この小説ははじまったが、あれから30年近く経っているいまとなっては、4人の使節たちは中年になっている。クーベルタンの印刷機をこなすことのできる原マルチノはパードレのメスキータに仕えているほか、中浦ジュリアンは布教に努めているが、伊東マンショは一昨年亡くなっていて、千々石ミゲルは、棄教して行方不明となっている。

 ここで、パードレのメスキータ(※ポルトガルイエズス会宣教師の名)が読んでいる『ドン・キホーテ』の、真っ直ぐ自分の信念に生きる姿勢は、高山右近の信仰の生き方を象徴するものとして、加賀さんにとって大切なキーワードになっていると、私は思う。

 いよいよマニラに向けて追放の船旅がはじまる。大分古ぼけたスペイン船に、右近一家と内藤一家、それに惣兵衛が乗り込む。彼らがあてがわれた部屋は、最下等の部屋であった。外洋に出ると、船は大きく揺れ、船酔い、海水の流入、貧しい食事、用便、腹痛、行水さえ出来ぬ水不足、船体の破損など、さまざまな困難が、右近たちに襲いかかってきた。

 クレメント神父と中浦ジュリアンのふたりは布教のために、出航前にスペイン船から小舟に乗り移り、長崎に潜航したようだ。

 雲仙の山中に潜行したクレメンテの手紙がしるす九州の状況は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康の指示で、上使山口駿河守直友と長崎奉行長谷川佐兵衛藤広たちが九州全土に指揮を飛ばし、家康の意向を完遂しようとする。そのために、キリシタンたちの足の骨を砕き、指を切り落とし、鼻を削ぎと迫害は残酷を極めた。

 苦難の船旅の末、右近たちの船はマニラに着いた。マニラの降誕祭は収穫祭と重なるため、12月15日からはじまって、来年1月6日まで続く盛大なものなので、加賀さんが案じたことは杞憂に過ぎないことになる。

 マニラ在住のフィリピン諸島総督ファン・デ・シルバは軍人上がりだが、ルイス・ド・グスマンが1601年に出版した『東インド、中国、日本伝道史』を読んでいて、その中に書かれている右近や如安のことをよく知っていた。

 シルバ総督はことのほか、高山右近に敬愛の念を抱いていたが、それは軍人だった自分から見て、右近がたどった武士道に感銘を受けたからである。しかし、金沢を追放されてから難行の旅、追放船の苦行の船旅で、老齢である右近の体は消耗し切っていた。

 咎人としての旅は、やはり老いの身には応えたのであろう、翌年、右近は死の床につく。死の香油を塗られながら、死後に来る明るい世界を生き生きと感じつつ、右近は深い眠りに落ちるのであった──。

 私は、小説を読みながら、命懸けで信仰に生きた高山右近と、山小屋で神父と対論した加賀乙彦さんとが重なるのだと思った。

 

 1995(平成7)年、阪神・淡路大震災が起き、加賀さんは復興委員会に電話し、医師としてボランティアを志望するが、加賀さんの専門が精神科と聞いて、断られた。

 震災の後のメンタル・ケアは大事なのにねと、加賀さんは私にこぼしたことがある。

 加賀さんは平和運動に関心を持ち続けて、1997(平成9)年にペンクラブ副会長となる。

 そして、年下の作家や評論家たちにわれて、2012(平成24)年に発足した「脱原発をめざす文学者の会」の代表になる。そのときの世話人は川村湊さん、佐藤洋二郎さん、宮内勝典さん、森詠さん、村上政彦さんたちで、結成式は、加賀さんの追分の山小屋で行われた。

 世話人のひとりだった私も参加させてもらったが、はじめて訪ねて、ほう、これが例の宗教論争があった山小屋なのかと感慨深いものがあった。

【著者プロフィール】

宮田 昭宏
Akihiro Miyata

国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギヤマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。

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