今月のイチオシ本【エンタメ小説】
『ハッピーライフ』
北大路公子
人は感情に翻弄されがちだ。とりわけ、不安や悲しみ、恨みや憎しみといった昏い感情に。それらはじわりじわりと心を侵食していき、やがて拭っても消えないシミのように、心の隅っこに沈着してしまう。消えずとも薄くなっていってくれればそれでいいのだけど、時にはいつまで経っても薄れないそのシミが、暴れ出してしまうことだって、ある。
そんなことにならないように、いっそのこと、全ての感情を穏やかに均してしまう世界があったとしたら。北大路さんが本書で描いたのは、そんな世界だ。
「すべての人は時が来れば自然と入れ替わり、だからといって何かが変わるわけではなく、本人に至っては、自分がいつ入れ替わったかすら気づかない」ことが当たり前になっている世界、である。
ある朝突然、母親が入れ替わったり、夫が入れ替わったりするその世界で、けれど人々は「均され」ることを良しとして暮らしている。「剥き出しの感情を抱えて」生きていた時代は「ずいぶん大変な時代だったらしい」、と認識されているのだ。
読み進めるうちに、気持ちがうっそりと寒くなってくる。穏やかな心は欲しいけれど、でも違う、違う、これじゃない、という思いが強まっていく。だから、第五話のエピソードにほっとする。「いつかはペラペラの記憶になる」と割り切って生きている人々の中にも、そんな世界に疑問を持つ男がいることに。その後の話に出てくる、ごく少数ではあるが、入れ替わらない人々もいることに。
そして唐突に気付くのだ。ユートピアなんてどこにもないし、そんなものはなくていい、と。物語のラストに出てくる「善意という灰色の雪」という言葉に、はっと目が覚める。私たちは、ぐらぐらする感情に振り回されつつ、振り回されすぎないように、えいこらしょ、と日々をやっていけばいいのだ、と。
北大路さんといえば、思わず吹き出さずにいられない軽妙なエッセイで人気を博しているけれど、こちらもぜひ。北大路さんの新たな一面(才能)を知ることができますぞ!
(文/吉田伸子)
〈「STORY BOX」2020年12月号掲載〉