井上荒野さん『あたしたち、海へ』
昔から同調圧力が嫌い、という井上荒野さんの目に留まったひとつの記事。その出来事について考え続け、このたび上梓した『あたしたち、海へ』。学校で居場所を失っていく少女たちとその周囲を描く本作にこめた思いとは。
数年前、目に留まった新聞記事
「今回の本は、私の小説にしてはちょっとメッセージ性があるかもしれません。私はいじめが本当に嫌いだし、少女少年に死んでほしくないという気持ちがあるから」
人間同士が関わるなかでの微妙な心理に鋭く切り込む作家、井上荒野さん。最近は、社会的なことを小説の題材に取り入れることにも関心がわいてきたという。そんな彼女の新作『あたしたち、海へ』は、学校で理不尽な目にあう少女たちの物語だ。
「数年前に、新聞で十代の女の子が二人で自殺してしまったという記事を読んだんです。記事では理由は分からなかったけれど、二人で一緒に死んだ、ということが心に残っていて。この子たちはいつ一緒に死ぬって決めたんだろう、そのことについて何を話したんだろうと考えるようになりました」
中学生の有夢と瑤子と海は幼馴染み。リンド・リンディというミュージシャンのアルバム・タイトルナンバー「ペルー」が大好きな仲良し三人組だったが、学校でのマラソン大会での出来事がきっかけで海はひどいいじめに遭い、転校してしまう。そしてクラスのボス的な存在が次の標的にしたのは有夢と瑤子だ。
「昔から同調圧力が嫌いなんです。その一番悪い表れ方がいじめだと思うんです。だから、誰かがいじめに遭ったということを聞くだけで私は憤りを感じてしまう」
読者の多くは、読み始めて彼女たちが愛するリンド・リンディの名をネット検索するかもしれない。しかし彼は架空の存在。
「なぜか分からないけれど、ふとペルーという言葉が浮かんだんです。ネットでペルーを検索してみたら、インコやオウムがたくさんいる国立公園の映像が出てきて。そこからイメージが広がって。『ペルー』という歌を歌っているミュージシャンのファンで、いつかペルーに行こうと考えている子たちにしよう、と考えました。最初は置かれた状況が嫌で嫌でしょうがなくて、逃げることを考えて、ペルーという素敵な場所に行こう、と言い出す。現実逃避ですよね」
読者は次第に、〝ペルーに行こう〟という言葉が本当にあの国へ行くことではなく、死を暗示しているのではないか、と思うはずだ。
海がいじめられたきっかけは、マラソン大会での理不尽な選手選びに抵抗して当日ボイコットしたこと。
「私の学校にもマラソン大会があって、すごく嫌だったんです。クラス一丸になって頑張らないといけないとか、そういうことが本当に嫌いだったんです」
海はみなから無視されるようになり、転校。だがクラスの中心的存在であるルエカは、転校先でも彼女を追い詰めようとし、有夢と瑤子を加担させる。有夢たちが死を考えるようになったのは、いじめられているからだけでなく、親友を裏切ってしまった罪悪感が大きいのだ。
「死にたくなるほどのことは何かを考えました。それに、みんながよってたかっていじめている時、やりたくないのに参加させられている子もいるだろうと思って。それはすごく辛いんじゃないかという気がして」
それにしても、じわじわと心理的に相手を追い詰めるルエカたちの言動が、かなり陰湿。
「私自身、なかなか暴力的な方向に考えがいかなくて。現実には肉体的ないじめもあると思いますが、それを書こうとすると途中で止まってしまうんです。怖くてそれ以上考えられなくなるんですね。でも心理的に黒いことは、いくらでもねちねち考えられるんです(笑)」
関心の薄い大人、いじめる側の心理
物語は少女二人だけでなく、瑤子の父親や担任教師、そしてルエカや海の母親など、周囲の人間の視点からも進んでいく。
「複数視点にすることは最初から決めていました。いじめは、その子たちだけの問題ではなく、今の社会の問題であると考えているので。ここに出てくる教師のように、いじめに気づかないふりをする大人ばかりじゃないとは思います。でも、たまたま彼女たちのまわりに守ってくれる大人がいなかった。彼女たちのまわりの大人はみんな、子どものことを少しは気にしていますが、結果的に何の役にも立たない。そういう人が今いちばん多いんじゃないかなと思う」
ルエカは誰もがはっとするほどの美少女。裕福な家庭で育ったが、家庭で母親が苦労している姿をずっと見てきている。
「いじめる子を弁護する気はまったくありませんが、どうしてこういう子になってしまったのかを考えたかった。現実には、理由もなくただいじめて楽しんでいる子もいると思います。ただ、私はこの小説は、単なる善と悪の形式にはしたくなかったんですよね。ルエカについてはまず、このくらいの年代は容姿って大きな要素で、綺麗だというだけで強い。そして自分の母親を見て、生きていくことは闘いで、絶対に負けちゃいけないんだと思いながら生きている。でも、彼女が考える〝勝つ〟というのは間違った形なんですよね。それは、どこかで海のことを恐れていたからでしょうね。海のほうが正しいって、心のどこかが思っている。でも、自分の考えのおかしさに目をつぶっている」
周囲の生徒たちも彼女に同調する。有夢や瑤子もそうだったといえる。
「今、社会全体が、強いものにつくのが得だとか、生きるためにはそうするしかない、と思ってそれ以上のことは考えない気がします」
大人同士の間にもある同調圧力
海の母親、和子の視点の章では、彼女が調理師として働く高齢者専用マンションでの同調圧力が描かれる。そこで異端視されているのが波多野さんという老婦人。彼女がとった行動は、救いと励ましと勇気を感じさせてくれる。
「波多野さんがいい働きをしてくれましたね(笑)。波多野さんがとった行動だってひとつの抵抗だし、そういうことができる社会だといいなと思っています」
若くて未熟な少女たちには、波多野さんのような覚悟と強さはない。日常に風穴をあける行動といえば、有夢がインスタグラムを始め、なんでもない日常の光景を記録していくことくらい。でもそれは、決して小さなことではない。
「すごく辛くても、私たちは無数の瞬間を生きていて、そこには素敵な瞬間もある、ということが言いたかったんです。ペルーもその象徴ですよね。本当に行けるかどうか分からないけれど、別の場所は絶対にある、ということが書きたかった」
二人も海のように転校すればいいのに、と考える人もいるかもしれない。でも、それは決して簡単なことではない。
「自分が成長した今なら、学校なんて大したことないし、やめたければやめればいい、と思える。でも、今その環境にいる当人にとっては、そんな簡単なことじゃない。親との関係性の問題もありますよね。学校をやめたいとか、いじめられていると親に言えない子もいる。自分の子どもがいじめられているとは認めたくない親もいる。そうなると子どもは八方塞がりになってしまう。だから逃げればいいと安易には言えませんが、でも、大きくなれば別の場所に行けるし、助けてくれる人だって出てくるかもしれない」
自分が悪いなんて思わないで
気楽なアドバイスは言えない。でもはっきり伝えられるのは、
「いじめられているのは自分が悪いからだとか、駄目な人間だからだなんて思わなくていい。いじめは絶対に絶対にいじめている側が悪いんです。だからどんな場合であっても、自分のことを小さく、醜いと思わないでほしい。何か失敗をしたことがきっかけだったとしても、失敗は失敗であって、だからといっていじめていいわけではない。いじめはこの世で最低の行為であり、いじめられている人は自分を被害者だと思って。絶対に、自分を小さくてとるに足らない価値のない人間だなんて思わないで」
〝絶対に〟という言葉に熱がこもる井上さん。昨今は教師間でのいじめも問題となっている。どうして人は、他人の人権を踏みにじることをしてしまうのか。
「人間には本質的に悪い部分があるんでしょうね。誰かをいじめることによって、何か生きやすくなるんでしょう。しかも、その傾向がどんどんひどくなっている気がします。相手が一人の人間であって、自分が見ている部分なんて相手のほんの一部分であるってことが分かっていない。相手だって自分と同じようにいろんな記憶や歴史、いろんな関係性が詰まった人間だということが考えられない。だから表面に見えるものだけを理由に相手を虐げてしまう」
その理由のひとつが、想像力の欠落。
「相手も自分と同じだけの人生が詰まった存在であると想像できない。この先、学校の教科書から文学がなくなって、マニュアルみたいな文章ばかり読まされるようになったら、ますます想像力が養われなくなってしまう。本を読むにしても、情報として摂取するだけで再読しない人も多いといいますよね。でもいい小説は読む度に違う。年取って読み返すたびに違う発見があったりする。そういう部分が、どんどんこの世界から失われている気がします」
他人の人生を想像できないから、自分と違う価値観を受け入れられないのではないか。
「ああ、私の本でも、『あちらにいる鬼』は不倫の話だから許せないと言う人がいますね。不倫はもちろんやらないほうがいいけれど、そうなった時にどういう気持ちになるかとか、奥さんはどう考えたのかに興味がないんでしょう。〝そんなの普通許せないよ〟と言う人もいる。でも、あなたの知っている普通って何? どれだけあなたはこの世界について知っているの? といつも思う。なんでそんな自信たっぷりに〝普通〟という言葉が使えるのかなって」
個々の人間の不可思議な心の動きを描いてきた井上さんが言うだけに、説得力がある。次の作品でも、他者が素通りしそうな人の心理をあぶりだす予定だ。
「『小説トリッパー』でセクハラについての小説の連載を始める予定です。もちろん設定は変えて書きますが、人権派のフォトジャーナリストが弟子たちにセクハラしていたというニュースを見て、表ではいいことをしている人にそうではない部分があることが、小説的に面白いと思ったんです。それに、その人の奥さんはどう思っているのだろうという興味もありました。やっぱりいろんな人の視点で書くつもり。今いろいろ考えていて、自分でもちょっと楽しみです」
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