◇長編小説◇白石一文「道」連載第1回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第1回
ある画家の描いた一枚の絵。
その絵の持ち主から聞いたある言葉。
いまはまだ、物語が解き放たれる少し前の話。

「道」連載一覧


第一部

 
     1
 

 二〇二一年二月十九日金曜日。

 帰宅は午後十一時過ぎだった。

 今週はシフトをずらして、夕方には帰宅できるようにしていたが、今朝、出勤してみると三日前に出荷したデコレーションケーキのクリームに糸くず状の異物が混入していたとのクレームが発生しており、慌ててラインをストップしてスタッフ総動員で原因究明に当たらなくてはならなくなったのだ。

 昼過ぎには顧客から回収したクレーム品が工場に届けられ、急ぎ製品分析室で分析させて、それが一種類の繊維が絡み合ったものであることが判明した。これで午前中にすでに目星をつけていた原因箇所での混入でほぼ間違いないと分かったのだが、そうは言っても、他の可能性を完全に潰すために、デコレーションケーキ担当全員で夕方までかけて製造ラインを徹底チェックしたのだった。

 功一郎(こういちろう)自身は途中でその作業から抜けて、クレーム品を回収してくれた本社のクレーム担当に連絡をつけ、混入原因のあらましを報告。すぐに顧客への謝罪と説明に向かうように督促し、さらに午後六時過ぎにラインの総点検が終了して他の原因箇所が見つからなかったことを確認すると、今度は本社に提出する正式な事案報告書の作成に取り掛かったのだった。

 報告書作りを終えたのが午後九時で、十時の夜勤帯開始と同時に再稼働させるラインの点検を改めて一人で丹念に行い、ラインが順調に動き始めたことを確認して、十時半にようやく自分の車で帰宅の途についた。

 我孫子(あびこ)の工場から自宅のある柏(かしわ)市松葉町までは車で片道三十分程度だが、金曜日の夜は国道十六号線がトラックで混み合い、いつも余計に時間がかかってしまう。そういうわけで家のカーポートに車をすべり込ませたときにはとうに十一時を回っていたのである。

 玄関の鍵を開けて家に入る。

 玄関ホールは暗かったが、真っ直ぐに延びる廊下の先からは明かりが漏れている。碧(みどり)はまだ起きているのだろう。渚(なぎさ)の方は、この時間だと薬を飲んですでに寝入っているはずだった。

 式台に上がって脱いだ靴をきれいに揃え、通勤用のリュックを肩から外して廊下を進む。左手に十畳ほどの和室があり、渚はそこにベッドを置いて寝ている。月曜日にあんなことがあり、今週は、その和室に功一郎が布団を持ち込んで妻と一緒に眠るようにしていた。

 スリッパは履かずに冷たい床板を踏みながらリビングダイニングに通ずる正面の扉へと向かった。

 扉を開けると、案の定、碧がダイニングテーブルの前に座ってパソコンを開いている。

「ただいま」

 顔を上げた彼女がディスプレイを閉じながら「おかえりなさい」と言う。

「おにいさん、晩御飯は?」

 クレーム発生を知ってすぐに今夜は遅くなる旨、ラインで知らせてあったが、夕食のことは何も伝えていなかった。

「まだだけど、ラーメンでも作って食べるから心配ないよ」

「キムチチゲと御飯ならすぐだよ」

 そういえば、チゲの匂いがうっすらと室内に漂っている気がする。オープンキッチンのガスレンジには煮込み料理のときに使っているル・クルーゼの大きな赤い鍋が載っていた。

「それとも、チゲにラーメンを入れる?」

「プデチゲかあ、いいね」

 功一郎の会社と提携関係にある食品工場が韓国・水原(スウォン)市の郊外にあり、功一郎は年に一度、工場内の衛生管理指導のために渡韓している。もう十年来のことで、初めて出向いたとき水原市内のチゲ鍋料理店で振る舞われたプデチゲがあまりにも美味で、以来、チゲ鍋やそこにインスタントラーメンやハムを入れて作るプデチゲは彼の大好物の一つになっているのだった。

「じゃあ支度するね」

 ノートPCを抱えて碧が立ち上がった。キッチン脇のドアを開けて一旦姿を消す。本来であれば勝手口になるはずのそのドアの向こうには八畳ほどの洋間がある。

 ちょっとばかり隠し部屋めいたそこが碧の居室になっていた。

 この古い一戸建てを購入するときに決め手になったのはその〝隠し部屋〟の存在だった。

 渚の療養のために二年前、江東区東陽町のマンションを売り払って、ここに引っ越してきた。

 同居する碧が気を遣わずに過ごすことができ、しかも同じフロアで姉の面倒を見るためには、それはうってつけの部屋だったのだ。

 とはいえ、まさか二年もの間、こんなふうに碧と一つ屋根の下で暮らす羽目になるとは思ってもいなかった。長くても半年かそこらで渚の鬱症状も多少は落ち着くだろうと当時の功一郎は甘く考えていたのだ。

 洗面所で手を洗い、二階の自室で部屋着に着替えてからリビングダイニングに戻ると、碧がプデチゲに仕立てた鍋をテーブルのカセットコンロに置いて火をつけようとしているところだった。

 功一郎は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、

「きみも飲む?」

 食卓を準備している碧に訊ねた。

「うん」

 彼女が頷く。

 テーブルを挟んで差し向かいに座り、二つのグラスにビールをなみなみ注いで、一つを手渡す。

「きみも晩御飯まだだったの?」

 二人分の取り鉢と箸が手元に置かれているので確かめてみた。

「おねえちゃんと一緒に食べたんだけど、なんだかまたお腹が空いてきちゃって」

 食卓にはプデチゲの他にれんこんとゴボウのサラダ、キャベツの浅漬け、それに塩ゆでのピーナッツの小鉢が並べられていた。

「それじゃあ」

 グラスを上にかざして乾杯する。

 功一郎は、冷えたビールを一息で半分ほど飲み干し、

「渚の様子はどう?」

 と訊ねた。

 目の前ではプデチゲがぐつぐつと音を立て始めている。

「相変わらずよく寝てるけど、でも、今日は昼も夜もちゃんと食べてくれたよ」

 取り鉢に具や麺を取り分けながら碧が言った。山盛りに盛った鉢をこちらに寄越してくる。

「ありがとう」

 熱くなった器を用心しつつ受け取った。

「おねえちゃん、ずいぶん落ち着いてきたし、おにいさんも来週からは仕事優先で大丈夫だよ。私の方はこのまましばらく在宅でも何とかなるし、どうしても会社に行かなきゃいけないときは事前に日程の相談をさせて貰うから。それにしたって滅多にはないと思う」


「道」連載一覧

白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』。

鈴村ふみ『櫓太鼓がきこえる』
榎本泰子『「敦煌」と日本人 シルクロードにたどる戦後の日中関係』/オアシスの町をどう“発見”し、愛するようになっていったか