「みにくいあひるの子」を生んだアンデルセンの貧困生活【作家貧乏列伝#3】

数々の名作童話を生み出し、世界を魅了したアンデルセンは、「貧乏人は死ぬしか救われないのでは?」と考えるほどの貧困にあえいだ作家でもありました。この記事では、アンデルセンの貧困生活と、そこからの脱却について解説いたします。

誰もが一度は幼い頃に読んだことがある、「童話」。今も昔も、童話作家の空想した物語は、子どもたちに生きるための知恵や教訓を与えてきました。

そして、グリム兄弟と並び、童話の世界を代表する作家と言えば、「マッチ売りの少女」や「みにくいあひるの子」で知られるデンマークの童話作家、アンデルセンを想像する人も多いでしょう。

現在では、時代を問わず多くの人に親しまれるアンデルセンの功績を記念して「ハンス・クリスチャン・アンデルセン文学賞」という文学賞も創設されていますが、2016年のアンデルセン文学賞受賞者となったのは、あの村上春樹氏でした。

アンデルセンの作品「影」を取り上げ、「アンデルセンはカオスのど真ん中で影と直接に対決し、ひるむことなく少しずつ前に進みました」と語った村上氏の受賞スピーチも話題になりましたね。実は、アンデルセンが向かい合った“影”とは、「貧困」のことでもありました。

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「作家貧乏列伝」第3回となる今回は、作風の変化を含め、知られざるアンデルセンの貧乏エピソードを紹介します。

 

「欠乏と貧困だらけ」アンデルセンを作った家庭環境。

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ハンス・クリスチャン・アンデルセンは1805年、デンマークの都市オーデンセに生まれました。同業組合への加入を認められない最下層の靴修理職人だった父ハンスと洗濯女の母アンナはともに貧しく、一家は馬屋を改築した安アパートに住んでいました。……とだけ聞くと、彼の童話作品にもつながるような、清らかで無垢な貧乏生活を想像するかもしれません。

しかし、幼いアンデルセンの苦しみは貧しさだけでなく、精神病を患った祖父、病的な虚言癖を持つ祖母、内閉性の父親、後にアルコール中毒になる母親、といった家庭環境にもありました。後にアンデルセンは、幼少期について「あの欠乏と貧困だらけの、重たい、暗い時代のことを思い出しますと、しばしばわたしはいっさいが夢のような気がしてなりません」とデンマーク国王に宛てた手紙で書いています。

 

父親譲りの向学心、祖母譲りの虚言癖?

しかし、その一方でアンデルセンは、「わたしの生涯は一編のうつくしい童話であり、ゆたかで幸福にみちている」という一文を自らの伝記の中に残しています。これは、貧しい家庭環境で育った身をロマンチックに見せたい気持ちの表れとも言えますが、アンデルセンの物語への興味はこの貧困生活の中で生まれていたのです。

アンデルセンは、妻と不仲だった父親に甘やかされて育ちました。暇さえあればアンデルセンに『千夜一夜物語』を読んで聞かせ、人形劇をこしらえていた父親……アンデルセンはのちに、自身が創作に興味を持つきっかけとなったのは父親のおかげ、と伝記に書いています。

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頭が良く、成績優秀であったものの貧しさを理由に進学を断念した父親は、いわゆる学歴コンプレックスを抱えていました。そして、同業者にすら相手にされず、成功者に対する恨みつらみを口にする惨めな父親の姿を見ながら、子であるアンデルセンは異常なまでの向上心や英雄願望を抱くようになります。

父と同じく、アンデルセンの祖母も彼の人となりに大きく関わっています。アンデルセンは母親よりも祖母に可愛がられており、その際に抱いた祖母を神格化する思いは「マッチ売りの少女」にも強く込められています。彼の祖母は大真面目に「私は貴族の血を引いている」と語っていたといいますが、それを真に受けたアンデルセンは自伝にもその通り記すほどでした。いわばアンデルセンは、そんな祖母から病的なまでの想像力を受け継ぐこととなったのです。

実際にアンデルセンは小学校で「あんたなんか、ただの貧乏な男の子じゃないの」とからかわれたとき、「僕は取り替えられた貴族の子で、神様のお使いが降りてきてお話をするんだ」と返しています。祖母ゆずりの虚言癖が垣間見えるエピソードですが、そこからは同時に「空想力に頼らなければ集団生活を送れない」という、悲しい事情もうかがえます。アンデルセンは精神病の祖父をネタにいじめられ、ますます空想の世界に逃げ込む内気な子どもになっていったのです。

 

「舞台役者になりたい!」首都コペンハーゲンへ旅立ったアンデルセンを待ち受けていたものは。

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1819年、14歳になったアンデルセンは、「仕立て職人になってほしい」という母親の要望を振り切って、首都コペンハーゲンへ旅立ちます。舞台役者になる野望を胸に秘めたアンデルセンには資金もツテもありませんでしたが、人々が自分の美声に惚れ込んでくれるのではないかという自信を持っていました。

アンデルセンはまず王立劇場のプリマドンナのもとを訪れます。なんとしてでもツテを得たいアンデルセンは帽子をタンバリンの代わりに、歌いながら裸足で踊る奇行に走りますが、「頭のおかしい男が物乞いに来た」と思った彼女に追い返されます。

その後もアンデルセンは劇場での職探しを行いますが、なけなしの資金をあっという間に使い切り、生活に行き詰まってしまいます。今さら故郷に帰るわけにもいかず、「もはや死ぬしかない」と覚悟を決めるアンデルセン。しかし、運良く王立音楽学校の校長に拾われ、声楽を学ぶチャンスを得ます。さらに校長へ会いに行ったときに出会った詩人や作曲家から教育費を援助してもらうことが決まります。

声楽への道は順調に見えたものの、1年もしないうちに声変わりが訪れ、アンデルセンは自慢の美声を失ってしまいます。資金も可能性もない……と、再び絶望の淵に立ったアンデルセンでしたが、ある詩人との出会いにより、語学を勉強する環境と資金を援助してもらうなど、またしても強運が彼を救います。

 

文学者としてのデビュー

かねてから文学に対する関心の強かったアンデルセンでしたが、初めて世間に公表された文学作品となったのは、20歳の時、彼が新聞に投稿した「臨終の子」という詩でした。

母さん ぼくはつかれて もうねむい
胸にだきしめて ねむらせて
(中略)
母さん 見えるかい ぼくのそばにいる天使が?
聞こえるかい このすばらしい音楽が?
(中略)
ああ ひどく疲れたよ! 目をつむってもいいかい?
母さん ほら!ーー天使がぼくにキスしてる!

「臨終の子」

どこかナルシスティックなまでの自己憐憫と、マザーコンプレックスが込められたこの詩からは、貧しい家庭環境がアンデルセンの自己形成に与えた影響を知ることができますね。

1828年、23歳になったアンデルセンはコペンハーゲン大学に入学します。入学後からアンデルセンは詩作で稼いだお金を元に食いつないでいかなければならなくなり、時に借金をしながら大学へ通っていました。当時、識字率が著しく低かったデンマークにおいて著作料だけで生活を立てる詩人や作家はほぼ皆無であり、収入がわずかだったアンデルセンは自然と倹約家になっていくのでした。

翌年1829年には、小説『ホルメン運河からアマゲル島東端までの徒歩旅行』を自費出版。やがてこの作品は大きな評判に。続いて戯曲作品『ニコライ塔の愛』が王立劇場で上演されています。辛い幼少期や下積み時代を乗り越え、ようやくアンデルセンは夢を次々と叶えるのでした。

 

母のエピソードをふまえて書かれた「マッチ売りの少女」

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アンデルセンによる童話のなかでも有名な「マッチ売りの少女」は、アンデルセンの母親が過ごした貧しい少女時代をモデルに書かれたと言われています。

大晦日の夜、幼い少女が寒空の下でマッチを売っていました。少女は凍えながら呼びかけるも、買ってくれるどころか少女に目もくれない人ばかりです。寒さに震える少女は売り物のマッチで暖をとろうとマッチに火をつけます。すると、暖かいストーブやご馳走が目の前に次々と現れるのでした。続けてマッチをするうち、少女の大好きだった祖母が姿を現します。しかし、炎が消えてしまうと祖母の幻も消えてしまうことを恐れた少女は、ありったけのマッチ全てに火をつけます。

「おばあちゃん!」と、少女は大声を上げた。「ねぇ、わたしをいっしょに連れてって! でも……マッチが消えたら、おばあちゃんもどこかへ行っちゃうんでしょう。あったかいストーブや、ガチョウの丸焼きや、大きくてきれいなクリスマスツリーみたいに、パッと消えちゃうのね……」

少女はマッチの束をぜんぶだして、残らず火をつけた。そうしないとおばあさんがすぐに消えてしまうからだった。マッチの光は真昼よりもずっと明るくなった。

翌朝、少女はマッチの燃えかすを抱えたまま亡くなっていましたが、口元に微笑みを浮かべたこの少女が、祖母とともに天国へ向かったことを知る人はいませんでした。死にゆく少女を冷たくあしらう町の人の描写には、貧困層に見向きもしない上流階級の人々への皮肉が込められているのです。

そもそも、少女は何故死ななければいけなかったのでしょうか。その答えは、アンデルセン自身がコペンハーゲンで八方塞がりだった時期に味わった「生き倒れて死ねば、この苦しみから解放されるのに」という心境にありました。

自分を愛してくれる祖母は既におらず、家に帰ればマッチが売れないことを理由に自分をぶつ父親しかいない……望みがどこにもない少女を救う手段は「死による解放」にしかないとアンデルセンは思っていたのでしょう。一見残酷なお話にも思えますが、アンデルセンは自らの味わった境遇から少女を救おうと、この結末を選んだのです。

 

虐げられながらも大成した自身と重ねた「みにくいあひるの子」

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同じくアンデルセンの作品でよく知られている「みにくいあひるの子」は、アンデルセンが失恋した心を癒そうと旅行している際に見た白鳥と雛を見て書き始められたといわれています。

ある夏の日、あひるの群れの中にとても大きく、灰色で他の雛とは似ても似つかないあひるが生まれます。見た目が異様なあひるの子に周りは強くあたりますが、唯一母あひるだけは庇うのでした。

赤い布を脚に巻いたおばあさんあひるもこう言った。「あなたのあひるはどの子もとってもきれいね、一羽をのぞいてだけど」そして、さらにつけ加えた。「あなた、その子をつくりなおせればいいのにね」

「それは不可能ですわ、奥さま」と母あひるは返答した。「たしかにあの子はかわいくありませんけれど、とても気だてがいいし、泳ぎは他のものより上手です。」(中略)「この子は力をつけ強くなって、ちゃんと自分ひとりで生き抜いていくと思います

しかしいじめは日に日に酷くなっていき、ついに母あひるの「おまえは生まれてこなければよかったのよ」の一言に傷ついたあひるの子は家族の元から逃げ出します。行く先々で他の動物や人間に虐げられたあひるの子は、生きる希望を失ったまま一冬を過ごします。

いつの間にか大人になっていたあひるの子は自らを殺してもらおうと白鳥の住む水辺に行くと、自分があひるではなく実は美しい白鳥であったことに気がつきます。「ぼくがみにくいあひるの子だったときには、こんな幸せになれるなんて思わなかった」と心の中でつぶやきながら、その後幸せに暮らすのでした。

周りと違う容姿を理由に、虐げられ続けるあひるの子にアンデルセンが自身の姿を重ねているのは言うまでもありません。彼と共に旅行をした者は「腕と脚は長くて細く、まったくつり合いがとれていない」と書き残しており、またアンデルセン自身も「わたしは空から落ちてきたのでしょう」とチャールズ・ディケンズへの手紙に書いています。

舞台俳優を目指していたアンデルセンは、それとなく自分の容姿が異常であることにコンプレックスを抱き、周囲から笑われても「都会で有名になる」という夢をあきらめずに挑戦を続けました。長い時間を必要とはしましたが、結果的に作家として大成したアンデルセンは、自らが「みにくいあひるの子」ではなく、白鳥であったことを証明したのです 。

 

「死=苦しみからの解放」ではない。

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出典:jolly / Shutterstock.com

この他にも「人魚姫」「赤い靴」など、悲しい結末こそが悲しみから解放される手段だとアンデルセンは考えていました。しかし、童話が少しずつ認められていくにつれ、少女が少年を助け出す「雪の女王」や、白鳥に変えられた兄たちを助けようとする妹を描いた「野の白鳥」など、やがてアンデルセンの作品には大きな変化が見られるようになります。

アンデルセンは70歳の時に肺がんで亡くなりますが、その葬儀にはデンマークの皇太子から各国の大使まで、老若男女を問わず彼の作品に魅了された人で葬儀場が大騒ぎになるほどでした。アンデルセンはそれ程まで人に愛される作品を書き続けたのです。

コペンハーゲンには「人魚姫」の銅像があることは広く知られていますが、アンデルセンが生まれ育ったオーデンセには現在、彼自身の銅像のほか、様々な作品の銅像が作られています。また、デンマークの旧紙幣に書かれ肖像画が描かれるなど、今なお彼は多くの人から愛され続けています。

現実ばなれしたメルヘンを描く以上に、作者の生涯を強く反映しているアンデルセンの作品たち。貧乏で過酷な家庭環境もまた、アンデルセンを世界を代表する童話作家にまで成長させる一因となったのです。

初出:P+D MAGAZINE(2016/11/18)

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