【樋口一葉】「5千円札の人」の涙ぐましい借金生活 【作家貧乏列伝#2】

「5千円札の顔」でもある樋口一葉は、その貧乏生活がペンネームの由来になったという説もあるほど苦しい生活を強いられた作家でした。「にごりえ」や「十三夜」といった小説の原型ともなった一葉の貧乏エピソードを紹介します!

女流作家の第一人者であり、「たけくらべ」や「にごりえ」といった作品で知られる樋口一葉。一葉の作品は、森鴎外をはじめ、当時の文壇から高い評価を受けていました。

現在では5,000円札の顔として知られる彼女ですが、24歳で幕を閉じた生涯は決して順調なものではありませんでした。【作家貧乏列伝】第2回となる今回は、貧しい生活に苦しみながらも、わずか1年弱の間に数々の名作を執筆した樋口一葉の貧乏エピソードを、作品とともに紹介します。

 

ある日突然家督を相続?困窮の原因は、父親の事業が失敗したことにあった。

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樋口一葉(本名:樋口奈津)は1872年(明治5年)、現在の東京都千代田区内幸町に生まれました。

農民の出身だったものの、武士の身分を勝ち取った父親は、明治新政府の下級官吏として働きます。その傍ら、不動産業や金融業で財を成していた樋口家は当初、金に困るような環境ではなかったようです。

一葉は小学校の成績で首席になるなど、幼少時より優秀な子どもでした。しかし11歳のときに母親が「女にはこれ以上の学問はいらない。それよりも、家で針仕事や家事を身につけるべきだ」と主張したことから退学を余儀なくされます。この出来事について、「悲しく辛いことだった」と日記に残しているように、一葉はひどく心を痛めます。

そんな娘を見かねた父親は、一葉に和歌の通信教育を受けさせたほか、知人の紹介により一葉を歌塾「萩の舎はぎのや」へと入門させます。この頃の樋口家はまだ経済的に余裕があったことに加え、向学心の強い聡明な娘に「もっと学ばせてやりたい」という親心がはたらいた結果でしょう。

この歌塾には、華族夫人や令嬢といった上流階級の女性たちが集っていました。上流社会のサロンでもあった萩の舎に気後れしながらも、一葉は熱心に和歌の創作へと打ち込みます。

そんな一葉の生活が一変する出来事が起こります。父親が退職後に出資していた荷車請負業組合が経営に失敗し、さらに父親自身も事業の失敗による膨大な負債を残したまま、1889年(明治22年)に病死します。一葉が17歳の頃でした。

兄も亡くなっていたため、一葉は若くして家督を相続することに。母・一葉・妹と女3人となった樋口家の生活は、困窮を極めていきます。

 

貧乏が原因で婚約破棄、小説の師匠との良からぬ噂……樋口一葉の恋愛事情。

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父親と兄に先立たれ、度重なる不幸にあった一葉にさらなる追い打ちをかけたのは、許嫁いいなづけだった渋谷三郎でした。お互いの祖父が親しかったことから許嫁となった2人でしたが、事業の失敗で樋口家に多額の借金があったことを理由に三郎は婚約を破棄します。樋口家から援助を受けることを前提に婚約を結んでいた三郎は、樋口家が負債を抱えるや否や婚約破棄を選んだのです。この出来事は一葉の心に癒えない傷を残しました。

樋口家の借金の問題で立ち消えた縁談はこれだけではありません。なんとあの夏目漱石の家との間にあった縁談の話も経済状況を理由に破談となっています。

樋口家は当時、母と妹と一葉の3人は針仕事や洗い物でなんとか生活費を稼いでいる状態でした。それでも生活が立ち行かないときは様々なところから金を借りることも多かったようです。

一葉は一向に火の車から抜け出せない家計に悩んでいましたが、ある日、同じ塾に通う田辺花圃たなべかほが小説「藪の鶯」を書き、多額の原稿料を得たことを知ります。そんな田辺に刺激を受けた一葉は「小説を書けばお金になる」と考え、小説家を目指すようになります。

「家族を支えなければいけない」という責任感を抱えながら、執筆活動をはじめた一葉のもとに、妹は良い知らせを持ち込みます。それは友人から東京朝日新聞(現在の朝日新聞東京本社版)の新聞記者、半井桃水なからいとうすいを紹介してもらえるというもの。坪内逍遥を師匠に持つ田辺のように、自らも師匠のもとで執筆を学びたいと願っていた一葉にとっては、この出会いはまたとない機会でした。

熱望していた小説の師匠との出会いを、一葉は以下のように日記に書いています。

顔色は大変よろしく、おだやかで、少し微笑まれたお顔は、ほんとに三歳の幼児もなつくように思われました。背たけは普通の人よりも高く、肉付きよく肥えていらっしゃるので、ほんとうに見上げる程でした。静かな調子で現代の小説界の様子などを語ってくださる。(明治24年 4月15日)

「完全現代語訳 樋口一葉日記」より

「私は先生と呼ばれるほどの才能はないけれど、お話の相手にはいつでもなりましょう。遠慮なくいらっしゃい」と優しい言葉をかけられたことに感動した一葉は、その場で涙をこぼしています。意図せず生活が困窮し、それを理由に許嫁に裏切られた一葉が桃水の優しさに涙をこぼすのも無理はありません。

その後、桃水から時に厳しい指導を受けながらも小説家として学びを得ていく一葉でしたが、周囲からは「2人が男女の関係になっている」と噂されるようになっていきます。当時はお互いが独身であったとしても、結婚を前提としない男女交際が認められない風潮にありました。良くない噂を聞いた萩の舎の仲間から、一葉は別れるよう忠告を受けるのでした。

桃水に対し、一葉が特別な感情を抱くのも無理はありませんでした。当初は原稿料のためだったとはいえ、自分のやりたい執筆活動を、一目惚れに近い形で出会った男性から指導を受けることで、一葉は生活の苦しさを少しでも忘れられたのです。しかし噂を無視することもできなかった一葉は、自ら桃水の家に出向き、「絶交」を告げることとなります。

 

苦しい生活に負けず、「奇跡の14ヶ月」で残した数々の名作とは

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桃水から経済的な援助も受けていた一葉でしたが、絶交によりそれもなくなり、生活はますます苦しくなっていきます。この頃より少しずつ小説を発表し、原稿料を得られるようになる一葉ですが、求められたのは売れるための大衆小説でした。自分の書きたいものとは違うことに思い悩んだ一葉の筆は徐々に重くなっていきます。

それにも関わらず、一葉の母親はまだ書いていない原稿料を担保に、知り合いから次々と金を借りてくる始末。自分の書きたいものが書けないと悩んでいる間にも膨らむ借金に、樋口家はますます困窮していくのでした。

昨日から家にはお金というものは一銭もない。(明治26年3月15日)

我が家の貧乏は日ましにひどくなって、今はもうどこからも借金する方法もなくなってしまった。(明治26年3月30日)

「完全現代語訳 樋口一葉日記」 より

そんな状況を少しでも改善すべく、明治26年、樋口家は現在の台東区に駄菓子や日用雑貨を取り扱う雑貨店を開きます。この店の近くには遊郭があり、一葉はこれをきっかけに吉原の生活を知ります。やがて遊女になり、身を売ることでしか生きていけない少女たち。それでもなお懸命に生きようとする彼女たちの姿は、一葉が描く作品の方向性を定めることとなります。

資金も不十分であったために結局商売は失敗に終わりますが、樋口家は店を引き払い、本郷丸山福山町へ住まいを移します。そして1894年(明治27年)には雑誌「文学界」に「大つごもり」を、翌1895年(明治28年)には「たけくらべ」を発表。「大つごもり」から「うらむらさき」発表までは文学史において「奇跡の14ヶ月」と呼ばれ、この14ヶ月の間に一葉は優れた作品を数々残しています。

 

恋模様と出世欲が混ざり合う名作、「にごりえ」

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出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4101016011

樋口一葉の代表作の1つ、「にごりえ」は、「濁った水」の意味を持つ言葉通り、社会の「底辺層」に生きる人々の生を活写した作品です。

この物語の主人公、銘酒屋の遊女おりきには源七という馴染み客がいました。源七はお力に入れ込んだ結果没落し、妻子ともども長屋で苦しい生活を送ることを余儀なくされていました。それでもお力への未練を断ち切れない源七の思いをよそに、お力は上客の結城朝之助ゆうきとものすけを愛するようになります。

ある日、酒に酔ったお力は店にやってきた結城に向け、身の上話を始めます。貧しく辛い自分の境遇と出世欲を聞いた結城はただ、「お前は出世を望んでいるんだな」とだけ言うのでした。

お前は出世を望むなと突然だしぬけに朝之助に言はれて、ゑッと驚きし様子に見えしが、私等が身にて望んだところが味噌こしがおち、何の玉の輿までは思ひがけませぬといふ、嘘をいふは人に依る始めから何も見知つて居るに隠すは野暮の沙汰ではないか、思ひ切つてやれやれとあるに、あれそのやうなけしかけことばはよして下され、うで此様こんな身でござんするにと打しほれて又もの言はず。

「にごりえ」より

そんなお力を思い続け、仕事もままならなくなった源七の家庭は見るも無残なものとなっていました。さらに子どもがお力から高価な菓子を買い与えられたことから源七は妻といさかいを起こし、妻子とも別れます。

その数日後、町から2つの棺桶が運ばれていったことについて人々が噂しますが、お力と源七、2人の死の真相は闇に包まれたまま……。

この「にごりえ」には貧困にあえぐ家庭で育ったお力、そのお力に入れ込んだあまりに仕事も家も無くす源七と、貧しい登場人物が描かれています。そのなかで唯一金離れのいい紳士の結城に心を開こうとお力は自分の心の内を打ち明けますが、理解を得られないことに愕然とします。結城は「父親だって本当は名人の腕を持つ職人だった」というお力の言葉から、「本当だったら自分だってこのような生き方ではなく、生活に困らない将来が待っていたはずだ」という出世欲を見抜いたのでしょう。これにはは、一葉の「父親が事業に失敗していなかったら」という自分の境遇に対しての“ないものねだり”が込められていたのかもしれません。

 

零落した思い人との別れを美しく描いた「十三夜」

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出典:https://www.amazon.co.jp/dp/430901125X

「にごりえ」に続いて発表された「十三夜」もまた、主人公のやるせない境遇と主人公が原因で没落する男性が登場する点において共通しています。

「十三夜」の主人公、お関は高級官吏の原田のもとへ嫁入りして7年が経った十三夜の夜更け、自らの実家を訪れます。その胸中には、息子が生まれてから邪険にされるようになった夫に耐えかね、離縁状をもらうための決意がありました。

そうとは知らずに娘を歓迎する両親に、「夫は召使の前で私の教養のなさをただあざ笑う。息子の乳母として家に置いてやっているとまで言われた」と話すお関。お関はそれでもなお、息子のために耐え忍んでいたのです。

原田の態度に母親は憤慨する一方、父親は「お前が食うに困らない生活をできているのは彼のおかげだ。それに子どもを置いてやってきたようだが、子を思うのなら母として耐えろ」とお関を諭します。

父親の言葉で冷静になったお関は、同時に実家にはもう自分の居場所がないことを悟ります。改めて母親として生きていくことを決めたお関は原田の家へと戻ります。

その途中、偶然にもお関が乗っていた人力車を引いていたのは幼馴染の録之助でした。2人はかつての幼馴染であり、互いに淡い恋心を抱いていました。しかし、録之助はお関が原田に見初められて嫁いだ後、放蕩に明け暮れていたことを明かします。一度は家庭を持ちますが録之助の放蕩は止まず、妻は実家に帰った挙句、子どもは病死……。もう2人はお互いに別の人生を歩んでおり、交わることはないと知った2人は静かに別れていくのでした。

随分からだを厭ふて煩らはぬ様に、伯母さんをも早く安心させておあげなさりまし、蔭ながら私も祈ります、(中略)お別れ申すが惜しいと言つても是れが夢ならば仕方のない事、さ、お出なされ、私も帰ります、更けては路が淋しう御座りますぞとて空車引いてうしろ向く、其人は東へ、此人は南へ、大路の柳月のかげに靡いて力なささうの塗り下駄のおと、村田の二階も原田の奥も憂きはお互ひの世におもふ事多し。

「十三夜」より

最後の文章にある「村田の二階」は録之助が身を置く安宿、「原田の奥」は原田の妻であるお関を表しています。同じ思いを持ちながらも、住む世界が異なる2人がそれぞれの生活に戻っていく様子が物悲しく描かれています。

一葉も、家庭の問題で破談となった渋谷三郎、周囲からの噂で「絶交」という選択肢に至った半井桃水と、叶わぬ恋に終わった恋愛を経験しています。そんな自身の経験もこの「十三夜」の執筆には大きく関わっていたのかもしれません。

また、お関が自身の意思ではなく、家により逃れられない運命にある点もまた、一葉の境遇を重ね合わせているのではないでしょうか。

 

ペンネームの元にもなった貧乏生活

 

叙情的で美しい文学作品を執筆し、これから作家としてより大成していくと誰もが思っていた矢先、長年の過労から肺結核を患った一葉は、24歳という若さで亡くなります。困窮にあえぎながらも自身の書きたいものを追求し続け、作家としての人生を歩み始めた矢先のことでした。

実は、「樋口一葉」というペンネームも、困窮した生活を理由につけられたものだと言われています。なんでも、インドの達磨大師が一枚の葉に乗って中国に渡ったという伝説について、一葉が「私にもお足(銭)がない」と冗談めかして友人に語ったことがその由来だったとか。ペンネームにも掲げるほど貧しい生活のなか、一葉は同じく苦しみながらも懸命に生きる人々の姿を描ききったのです。

初出:P+D MAGAZINE(2016/10/12)

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