谷川俊太郎の“スゴい”詩7選

85歳を迎えてなお、精力的に詩を執筆し続ける国民的詩人・谷川俊太郎。今回は谷川俊太郎の80冊を超える詩集の中から、選りすぐりの“隠れた名作”を7つご紹介します! めくるめく詩の世界をお楽しみください。

「万有引力とは/ひき合う孤独の力である/宇宙はひずんでいる/それ故みんなはもとめ合う」
『二十億光年の孤独』より

現代詩にほとんど触れたことのない人でも、きっとこのフレーズには聞き覚えがあることでしょう。谷川俊太郎『二十億光年の孤独』の一節です。

谷川俊太郎の作品には、学生時代、国語の教科書や合唱コンクールの課題曲として出合ったという記憶のある方も多いのではないでしょうか。1952年に『二十億光年の孤独』で鮮烈なデビューを果たした谷川は、85歳のいまもエッセイや絵本の執筆、翻訳といった多彩な活動を行いながら、精力的に詩を作り続けています。

彼の詩に対してもしも、難解、暗い、わからない……なんてイメージを思っているとしたら、それは大間違い。谷川俊太郎は、言葉遊びのような詩からほのぼのとした詩、時には怖い詩まで、カメレオンのようにいくつもの作風を使い分ける異色の詩人なのです。

今回は彼の80冊を超える詩集の中から、比較的知名度の低い、7編の“隠れた名作”をご紹介します! めくるめく谷川俊太郎ワールドをお楽しみください。

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1.私は背の低い禿頭の老人です――『自己紹介』(2007年)

自己紹介

私は背の低い禿頭の老人です
もう半世紀以上のあいだ
名詞や動詞や助詞や形容詞や疑問符など
言葉どもに揉まれながら暮らしてきましたから
どちらかと言うと無言を好みます

私は工具類が嫌いではありません
また樹木が灌木も含めて大好きですが
それらの名称を覚えるのは苦手です
私は過去の日付にあまり関心がなく
権威というものに反感をもっています

斜視で乱視で老眼です
家には仏壇も神棚もありませんが
室内に直結の巨大な郵便受けがあります
私にとって睡眠は快楽の一種です
夢は見ても目覚めたときには忘れています

ここに述べていることはすべて事実ですが
こうして言葉にしてしまうとどこか噓くさい
別居の子ども二人孫四人犬猫は飼っていません
夏はほとんどTシャツで過ごします
私の書く言葉には値段がつくことがあります

『私―谷川俊太郎詩集』より

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最初に紹介するこの『自己紹介』は、文字通り、谷川俊太郎が読者に対し自己紹介をするという形式の風変わりな詩です。

2007年に詩集『私』の中の1編として発表されたこの詩からは、谷川俊太郎の持ち味である控えめなユーモアが感じられます。「言葉どもに揉まれながら暮らしてきましたから/どちらかと言うと無言を好みます」という1行には、思わずクスッと笑ってしまう読者も多いのではないでしょうか。

飄々と進む『自己紹介』は、「私の書く言葉には値段がつくことがあります」というハッとするような言葉で終わります。谷川俊太郎は、私たちが詩人に対して抱いている“金銭の話をしない”“霞を食べて生きている”といった幻想的なイメージを笑って否定しながら、詩には値段がつく、と静かに言い切るのです。

彼は自分のホームページ上の文章でかつて、詩の値段についてこんな風に語ったこともあります。

詩は金融市場とは無縁ですが、詩をお金の力が届かない聖域に祭り上げるのも、誤魔化しのように思えます。
『立て続け』より

『自己紹介』は、詩は生活に根づいたものであり、決して「聖域」のものではないのだ――という谷川の姿勢が分かる、素直な詩です。

2. 俺はおとつい死んだのに 世界は滅びる気配もない ――『ふくらはぎ』(1991年)

ふくらはぎ

俺がおととい死んだので
友だちが黒い服を着こんで集まってきた
驚いたことにおいおい泣いているあいつは
生前俺が電話にも出なかった男
まっ白なベンツに乗ってやってきた

俺はおとつい死んだのに
世界は滅びる気配もない
坊主の袈裟はきらきらと冬の陽に輝いて
隣家の小五は俺のパソコンをいたずらしてる
おや線香ってこんなにいい匂いだったのか

俺はおとつい死んだから
もう今日に何の意味もない
おかげで意味じゃないものがよく分る
もっとしつこく触っておけばよかったなあ
あのひとのふくらはぎに

『詩を贈ろうとすることは』より

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「俺がおととい死んだので/友だちが黒い服を着こんで集まってきた」――。もう死んでしまった「俺」が自分の葬式を眺めながら語るという、奇妙な1編です。

知人が白いベンツでやってくる、近所の子どもが自分のパソコンをいじっている……といった残酷なまでに現実的なシーンを、語り手である「俺」はさして気にする様子もなく見つめています。最後の連の、

「俺はおとつい死んだから/もう今日に何の意味もない/おかげで意味じゃないものがよく分る」

という3行からは、もうこの世に未練のない死者の視点だからこその空虚さと、強い説得力が感じられます。谷川俊太郎は詩の中で触れられている「意味」というものについて、2005年のインタビューの中で、哲学者・鶴見俊輔の言葉を借りながらこう語っています。

無意味なことも、意味あることと同じように大事だって思えると、僕はいいと思う。(哲学者の)鶴見俊輔さんが、nonsenseは世界の肌触りだって言うんです。人間は世界の意味を一所懸命つけようとしてるけど、意味だけでは追求しきれないものが世界であって、それを肌触りって言ってるんだと思うんだけど。
『baby mammoth』2号より

『ふくらはぎ』の中で「俺」が語る「意味じゃないもの」とは、まさにこの「世界の肌触り」のようなものなのでしょう。生への執着を一切感じさせない「俺」が、唯一の未練のように「もっとしつこく触っておけばよかったなあ/あのひとのふくらはぎに」という本能的な願いをポロリとこぼすのは、実はとても正しく、馬鹿にできないことのようにも思えてきます。

3. ここがどこかになっていく――『ここ』(2000年)

ここ

どっかに行こうと私が言う
どこ行こうかとあなたが言う
ここもいいなと私が言う
ここでもいいねとあなたが言う
言ってるうちに日が暮れて
ここがどこかになっていく

『女に』より

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「私」と「あなた」のテンポのよいやりとりが印象的な、やさしい詩です。恋人同士がどこにも行かずに他愛のない会話をしているだけなのに、“いま、ここにいること”への強い喜びと実感が溢れ出ているようです。

「何ももたずに私はあなたとぼんやりしにいく」(『川』)、「だが何にもまして幸せなのは/かたわらにひとりのひとがいて/いつでも好きなときにその手に触れることができるということ」(『足し算と引き算』)……など、谷川俊太郎の詩には、好きな人とただ一緒にいることが至上の幸せである、という素朴な感覚が色濃く表れています。

最後の「ここがどこかになっていく」というフレーズには、共感を覚える方も多いでしょう。恋人や親しい友人と一緒に読んで、しみじみと味わいたい詩です。

4.ひもにはあたまもしっぽもなく ふたつのはじっこがあるだけだった――『ひも』(2006年)

ひも

うまれてからこのかた
ひもにはあたまもしっぽもなく
ふたつのはじっこがあるだけだった

いろあせたこいぶみのたばを
くくっているあいだはよかったが
わけあってこいぶみがもやされ
もうむすぶものもしばるものもなくなると
ひもはすっかりじしんをうしなった

ひきだしのおくでひもは
へびになるのをゆめみはじめる
ちゃんとあたまとしっぽがあるへびに

へびになれたら
ぼくはにょろにょろとおかにのぼろう
そしてとおくのうみをながめよう
しっぽがもうかえろうといいだすまで

『すき―谷川俊太郎詩集』より

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へびになることを夢見る「ひも」の悲哀が描かれた、ユニークな詩です。子ども向けの詩集『すき』に収録されているこの詩は全編ひらがなで綴られており、一見“ゆるい”雰囲気ですが、実はこんな続編があります。

「ひもにむかってわごむはさけぶ/おまえはもうじだいおくれだ/せろてーぷはだまってきいている/それぞれにやくにたてばそれでいい/それがせろてーぷのたちば」
『ひも また』より

他の近代的な道具に「じだいおくれだ」と馬鹿にされる「ひも」。ところが、

「せんそうがはじまると/ひももわごむもせろてーぷも/てきみかたのくべつなく/にんげんのためにはたらいた/そのささやかなはたらきが/へいわをもたらすことにはならなかったが」
『ひも また』より

他の道具に混じって唐突に「せんそう」に駆り出され、「にんげんのために」働かされるひもたち。『ひも』シリーズは、そんな結末で唐突に終わります。
ラブレターをくくらされるのと同じ「ひも」が戦争の道具にも用いられる、という描写からは、人間の営みの多様さだけでなく、その身勝手さも感じずにはいられません。谷川俊太郎は、押しつけがましくないやさしい言葉で、人間のエゴイズムをこんな風にして説くのです。

「ひも」は果たして、生まれ変わったら「へび」になれるのでしょうか。「ひも、よく頑張ったね」と声をかけてあげたくなるような、いじらしく切ない作品です。

5.空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ ――『なんでもおまんこ』(2003年)

なんでもおまんこ 

なんでもおまんこなんだよ
あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ
やれたらやりてえんだよ
おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな
すっぱだかの巨人だよ
でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな
空だって色っぽいよお
晴れてたって曇ってたってぞくぞくするぜ
空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ
どうにかしてくれよ
そこに咲いてるその花とだってやりてえよ
形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ
花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ
あれだけ入れるんじゃねえよお
ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお
どこ行くと思う?
わかるはずねえだろそんなこと
蜂がうらやましいよお
ああたまんねえ
風が吹いてくるよお
風とはもうやってるも同然だよ
頼みもしないのにさわってくるんだ
そよそよそよそようまいんだよさわりかたが
女なんかめじゃねえよお
ああ毛が立っちゃう
どうしてくれるんだよお
おれのからだ
おれの気持ち
溶けてなくなっちゃいそうだよ
おれ地面掘るよ
土の匂いだよ
水もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれに土かけてくれよお
草も葉っぱも虫もいっしょくたによお
でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ
笑っちゃうよ
おれ死にてえのかなあ

『夜のミッキー・マウス』より

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『なんでもおまんこ』というタイトルのこの作品を、馬鹿げた詩ととる方も、衝撃的な詩ととる方もいるかもしれません。丘、空、花といった大自然に対し、見境なく欲情して「やれたらやりてえんだよ」などという「おれ」は、一見、ただふざけているだけのようにも思えます。

しかし、後半の「おれのからだ/おれの気持ち/溶けてなくなっちゃいそうだよ」という言葉からは、「おれ」がただ何にでもいいから性欲をぶつけたいというよりも、対象と“一体化したい”という欲望を持っていることが窺えます。

谷川俊太郎は、特に若い頃、『二十億光年の孤独』や『春』といった作品に代表されるような、宇宙(コスモス)や自然をテーマにした詩を多く作りました。彼はかつて、哲学者である父・谷川徹三との対談で、自分の中の「コスモス」という感覚についてこう語っています。

コスモスというふうなものを感じ取れたのは、青年のころ、この北軽井沢の中にいたからだと思うのですけれども、十代の終りから二十代の初めにかけて、自分が自然というものと一体になっちゃっているような状態、一体になっている状態がそのまま生きるということで、そこで自分がほんとうに幸せで完全だったような状態があったんですよ。
『対談』より

まさに、彼の語る「自然というものと一体になっちゃっているような状態」を描いたのが、この『なんでもおまんこ』なのでしょう。“一体化”を強く望み続けた末に行き着くのが、「おれ死にてえのかなあ」というひと言。私たちはこの詩に向き合うとき、生と死は密接不可分であるという事実について思いを馳せずにはいられません。

6. かっぱかっぱらった かっぱらっぱかっぱらった ――『かっぱ』(1973年)

かっぱ

かっぱらっぱかっぱらった
とってちっていた
かっぱなっぱかった
かっぱなっぱいっぱかった
かってきってくった

『ことばあそびうた』より

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1973年に、子どものための『ことばあそびうた』のひとつとして発表された『かっぱ』。小学校の国語の授業で読んだ、という方も少なくないかもしれません。

この詩はただ眺めるだけでなく、まず音読をしてみてほしい詩です。前半の3行(「かっぱかっぱかっぱらった/かっぱらっぱかっぱらった/とってちってた」)と後半の3行(「かっぱなっぱかった/かっぱなっぱいっぱかった/かってきってくった」)の音数が揃っており、自然とリズミカルに読み上げられることが分かると思います。

谷川俊太郎は、『ことばあそびうた』を発表する以前の1970年代、言葉の“音楽性”について、

子どものころはすごく自然にその言葉の音楽性とか、言葉の楽しさみたいなものを口にしているんだけども、小学校へはいると、だんだん言葉っていうものがわりとしかつめらしい“意味的”なものに偏してきてね、早口言葉的なおもしろさとか、そういうものは教育面ですごく無視されているでしょう。それはぼくはよくないと思うんですよ。(中略)

基本的な日本語を美しく発音してね、その言葉に内在しているリズムみたいなものをちゃんと声に出せる訓練をしてるかっていうと、そういうものはすこしもないわけでしょう。
『FORK REPORT』「歌にいたる詩」より

と語っています。この『かっぱ』や、「いるかいるか/いないかいるか」というフレーズが印象的な『いるか』に代表される『ことばあそびうた』の数々は、言葉の“音楽性”を回復させたい、という谷川が行った実験的な試みのひとつでした。
これらの詩について、後に彼は「これは普通の詩よりはるかに書くのが難しいわけです。ひとつ書くのに一ヶ月かかるのはざらなわけですよ。」と解説しています。

7. しんだきみといつまでもいきようとおもった ――『きみ』(1988年)

きみ

きみはぼくのとなりでねむっている
しゃつがめくれておへそがみえている
ねむってるのではなくてしんでるのだったら
どんなにうれしいだろう
きみはもうじぶんのことしかかんがえていないめで
じっとぼくをみつめることもないし
ぼくのきらいなあべといっしょに
かわへおよぎにいくこともないのだ
きみがそばへくるときみのにおいがして
ぼくはむねがどきどきしてくる

ゆうべゆめのなかでぼくときみは
ふたりっきりでせんそうにいった
おかあさんのこともおとうさんのことも
がっこうのこともわすれていた
ふたりとももうしぬのだとおもった
しんだきみといつまでもいきようとおもった
きみとともだちになんかなりたくない
ぼくはただきみがすきなだけだ

『はだか―谷川俊太郎詩集』より

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この詩を一読しただけで、ぎゅっと胸が締めつけられるような、切ない気持ちになる方はきっと多いことでしょう。
「きみ」を女性と捉え、幼い男の子の切ない恋心を歌った詩と読むこともできます。……しかし谷川は自ら、この『きみ』という詩について、

オレはこれが出たときに、小学生のゲイの詩があるんだっていばったんですけどね。なんかみんなピンとこなかったみたいなんだけど、これは明かに男の子同士の愛情の話なんですよ。
『ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る』より

と語っています(谷川は同著の中で、かつて自分も中学生のときに同性愛的な傾向があった、とも言っています)。
「ねむってるのではなくてしんでるのだったら/どんなにうれしいだろう」という1行からは、決して自分だけのものにはならない「きみ」への、屈折した愛情が伝わってきます。同性愛に限らず、叶わない恋をしたことのあるすべての人にとって『きみ』は、突き刺さるような1編なのではないでしょうか。

おわりに

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谷川俊太郎は、自分のことを「デタッチメント」の人間だとたびたび評します。
「他人とは浅い付き合いだから、相手を肯定できるんです」(『考える人』2016年夏号より)という言葉のとおり、彼の詩にはあまり他人への執着や、ベタベタとした感傷は感じられません。その代わり、明るい詩の中にもそこはかとない“死”や“孤独”の匂いが、常に漂い続けています。

これまでに、子ども向けの詩集から大人のための愛の詩集まで、数多くの作品を発表してきた谷川俊太郎。読みやすく、高尚すぎない彼の詩は、日常生活のどんなシーンにも馴染みます。ちょっと疲れたときにはひとりで、あるいは大切な人と、詩集のページをめくってみてはいかがでしょうか。

初出:P+D MAGAZINE(2017/12/23)

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