【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール

池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の7回目。流転の運命を生きた公爵宰相、近衛文麿について解説します。

第7回

第34・38・39代内閣総理大臣
近衛文麿このえふみまろ 1891年(明治24)〜1945年(昭和20)

近衛文麿切り抜き_01

Data 近衛文麿

生没年 1891年(明治24)10月12日~1945年(昭和20)12月16日
総理任期 1937年(昭和12)6月4日~39年(昭和14)1月5日、
1940年(昭和15)7月22日~41年(昭和16)10月18日
通算日数 1035日
出生地 東京都千代田区
出身校 京都帝国大学法科大学
歴任大臣 班列(無任所大臣)、国務大臣など
ニックネーム 青年宰相、関白
墓  所 京都市きた区の大徳寺
だいとくじ

名家出身の青年宰相「僕の志は知る人ぞ知る」

近衛文麿は、若いころから名家出身であることに複雑な思いを抱いていました。孤独を感じていた近衛は、高校、大学と哲学に熱中し、将来は哲学教師になりたいという希望をもちます。しかし、時代は彼にそのような自由を許してはくれません。
1936年(昭和11)3月、二・二六事件の後、近衛は総理に推薦されますが辞退します。しかし、翌年に再度推薦され、第1次近衛内閣が発足しました。
近衛の国民的人気は高く、その人気を背景に国家総動員法を成立させ、第2次内閣では大政翼賛会を組織、日独伊にちどくい三国同盟を締結します。アメリカとの戦争には最後まで反対し、第3次内閣でも交渉を続けました。戦後は戦争責任を問われ、出頭前日に自ら死を選びます。

近衛文麿はどんな政治家か 池上流3つのポイント

1 五摂家ごせっけ筆頭の名門出身

近衛家のルーツをたどると大化改新たいかのかいしんで活躍した藤原鎌足ふじわらのかまたりまで行き着きます。「この世をば我が世とぞ思ふ…」の歌で知られ、平安時代に栄華を誇った藤原道長みちながも祖先のひとりです。近衛家は藤原北家の流れをくむ五摂家の筆頭です。明治時代になって公爵の位を与えられ、無条件で貴族院議員になる資格を有しました。

2 国家総動員体制を推進

盧溝橋ろこうきょう事件後、思いもよらなかった日中戦争の拡大に近衛内閣は動揺します。さらに長期化の恐れもあったため、国民精神総動員運動を展開することにしました。そのための法律が国家総動員法だったのです。政党の反対も軍部の力で押し切り法案は成立。戦争の激化とともに、この法律による経済統制はどんどん厳しくなっていきました。

3 みずから命を

近衛文麿の最期は、青酸カリによる自殺でした。戦争犯罪の容疑で出頭する前日の夜のことです。近衛は出頭前の心境をつづり、次男の通隆みちたかに託しました。文書には、戦争犯罪人として法廷に立つことは「がたい事である」とあり、「僕の志は知る人ぞ知る」と書かれていました。歴代総理の中で自殺で亡くなったのは、近衛ただひとりです。

近衛文麿の絶筆ぜっぴつ

僕は支那事変しなじへん以来、多くの政治上過誤を犯した。これに対して深く責任を感じて居るが、所謂いわゆる戦争犯罪人として、米国の法廷において裁判を受ける事はがたい事である。ことに僕は支那事変に責任を感ずればこそ、この事変解決を最大の使命とした。そして此解決の唯一のみちは、米国との諒解りょうかいにありとの結論に達し、日米交渉に全力をつくしたのである。その米国から、今犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思ふ。
しかし僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへ、そこに多少の知己ちきが存することを確信する。戦争に伴ふ昂奮こうふんと、激情と、勝てる者の行き過ぎた増長と、敗れた者の過度の卑屈と、故意の中傷と、誤解に本づく流言蜚語りゅうげんひごと、是等これら一切の所謂輿論よろんなるものも、いつかは冷静を取り戻し、正常に復する時も来よう。是時このとき始めて、神の法廷に於て、正義の判決が下されよう。
― 亡くなる前日の夜、次男に託した文章

揮毫きごう

近衛文麿揮毫_01

「黙」 近衛文麿書
憲政記念館蔵

人間力にんげんりょく

◆ 柔軟な強さ

名家に生まれたためか、近衛の性格はおっとりとしているように見えた。しかし、しんには非常な強さが秘められていた。近衛内閣は軍部と正面から対峙たいじできず、つねに「弱い」と評されたが、実際には中国やアメリカとの交渉実現のため、様々な方法を試みており、開戦後も、戦争の早期終結にむけた和平工作に力を尽くした。

◆ 家族思い

生まれてすぐに実母を、幼いころに父を亡くし、大勢の使用人に取り囲まれて生活していたため、ひときわ肉親に対する愛情が強かった。4人の弟妹には父のように接して可愛かわいがり、自分の子どもたちにも愛情を注いだ。

◆ 世評に左右されない

近衛文麿の人気は、名誉や金もうけに淡泊で、すべてを達観しているような風情ふぜいのせいだった。何かを成し遂げる際、努力は惜しまないが、万策尽きると未練をもたずにあきらめる。時にはそれが何かを「投げ出した」ようにもみえた。死の前日に記した文には、そうした誤解に基づく厳しい世論に触れているが、あえてそれに反論しないのも近衛の美学であった。

(「池上彰と学ぶ日本の総理28」より)

初出:P+D MAGAZINE(2017/08/25)

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