【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の33回目。普通選挙法を成立させた「加藤高明」について解説します。
第33回
第24代内閣総理大臣
加藤高明
1860年(万延1)~1926年(大正15)
写真/国立国会図書館
Data 加藤高明
生没年月日 1860年(万延1)1月3日~1926年(大正15)1月28日
総理任期 1924年(大正13)6月11日~26年(大正15)1月28日
通算日数 597日
出生地 愛知県愛西市佐屋町(旧尾張国海東郡佐屋)
出身校 東京大学法学部
歴任大臣 外務大臣
墓 所 東京都港区の青山霊園
加藤高明はどんな政治家か
普通選挙法を成立させる
大学卒業後は三菱に勤め、岩崎弥太郎の長女と結婚。のちに外務官僚に転身します。親英派で、日英同盟の締結に尽力しました。政党政治の必要性を強く訴え、桂太郎が構想した立憲同志会(のちの憲政会)に入党。党の総理(党首)を務めます。清浦内閣が倒れた後、護憲三派内閣を組閣。政党勢力の悲願であった普通選挙法を成立させました。
加藤高明 大仕事・大一番
政党勢力の悲願達成、男子普通選挙実現へ
「苦節10年」をへて、ついに総理に就任した加藤高明。
最大の懸案事項は、普通選挙法の成立だった。
●明治以来の普選運動が結実
1924年(大正13)5月の総選挙で、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の護憲三派は過半数を獲得した。6月9日、憲政会総裁の加藤高明は赤坂御所で組閣の大命を受ける。感無量だったのか、宮中では高明の煙草を持つ手が震えていたという。
高明にとって、最大の懸案事項は普通選挙(普選)の実施であった。公約として長年掲げてきたことである。総理就任の大命を受けた直後、高明は政友会の高橋是清総裁を訪問し、まず普選の実現に賛成してくれるかどうかを問いただしている。普選実施について、それだけ熱心だった。
選挙資格を制限するもっとも大きな条件は納税額である。この枠を縮小し、最終的には撤廃することこそが普選実施の目的であった。明治時代からの政党と政府の闘いは、この普選をめぐって展開してきた。
●貴族院を納得させ、法案成立
ほかの政党は必ずしも普選に全面賛成というわけではなかった。政友会の原敬は総理時代に「普通選挙実施は急激に過ぎて国情に合わない」と反対している。
元老たちははじめから大反対である。とくに高明を嫌っていた山縣有朋は普選を危険視し、高明はそのことを痛感していた。
しかし、1922年(大正11)に山縣は亡くなる。そして高明はついに、1924年12月開会の通常議会で、自らの内閣によって普通選挙法を制定させる機会を得たのである。
とはいえ、議会に提出された法案がすんなりと決まったわけではなかった。枢密院からはいくつもの修正案を付されて政府に戻され、貴族院でも猛反対にあうことになる。明治憲法下では、衆議院と貴族院両院の一致がなければ法案は流れてしまう。
会期を何度も延長し、法案の文言を微妙に変えるなどして、ついに貴族院を納得させたのが1925年(大正14)3月29日のことだった。この日、衆議院と貴族院はそれぞれ本会議を開き、法案を通した。日本男子の満25歳以上の者に選挙権が、満30歳以上の者に被選挙権が、納税の額にかかわらず与えられた。これにより、330万人ほどだった選挙権の保有者が、一気に4倍近い1240万人にまで増加した。
この時点で女子は普通選挙権を獲得しておらず、その闘いは1945年(昭和20)まで続くことになる。
1924年11月29日、憲政会での会談を終えた加藤高明総理。写真/毎日新聞社
普通選挙法通過を訴える女性
1925年(大正14)、普選法に関するビラをまく女性。婦人運動家の市川房枝らを中心に婦人参政権運動がおこったが、加藤高明内閣では女性の参政権は得られなかった。写真/毎日新聞社
普通選挙法成立の日
1925年(大正14)5月5日、東京の上野精養軒前で行なわれた、普通選挙法成立の祝賀会。写真/毎日新聞社
(「池上彰と学ぶ日本の総理22」より)
初出:P+D MAGAZINE(2018/03/16)