【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の40回目。親英米派で国際協力路線を推進した「幣原喜重郎」について解説します。
第40回
第44代内閣総理大臣
幣原喜重郎
1872年(明治5)~1951年(昭和26)
写真/門真市立歴史資料館
Data 幣原喜重郎
生没年月日 1872年(明治5)8月11日~1951年(昭和26)3月10日
総理任期 1945年(昭和20)10月9日~46年(昭和21)5月22日
通算日数 226日
出生地 大阪府門真市(旧堺県茨田郡門真一番下村)
出身校 帝国大学法科大学法律学科
選挙区 衆議院大阪3区(総理辞任後)
歴任大臣 外務大臣・国務大臣ほか
墓 所 東京都豊島区の染井霊園
幣原喜重郎はどんな政治家か
国際協調の「幣原外交」を展開
ワシントン会議の全権を務めた幣原喜重郎は、1924年(大正13)に加藤高明内閣の外務大臣に就任して以降、若槻礼次郎・浜口雄幸の各内閣で外相を歴任。国際協調路線を推進、中国に対しては内政不干渉を提唱して、「幣原外交」と謳われました。終戦の年、親英米派の外交通として総理になり、昭和天皇の人間宣言にも関与しました。
幣原喜重郎 その人物像と業績
「幣原外交」を展開した国際協調の平和主義者
「幣原外交」の真髄は、信頼構築を第一義とした協調外交である。
しかし、戦争の時代にあって、列強との協調や軍縮を実現させるのは、
けっして生易しいものではなかった。
●外交官人生がスタート
幣原喜重郎は、1872年(明治5)8月11日、堺県茨田郡門真一番下村(現大阪府門真市)で、門真村の初代助役を務めた父新治郎、母静ヅの4人兄妹の次男として生まれた。2歳年上の坦は、もの静かな学者肌で、1928年(昭和3)、台湾の台北帝国大学の初代総長に就任している。妹の操は助産婦で、医師の夫を養子に迎えて、幣原医院を開業した。操の夫が亡くなったのち、幣原医院を継いだのは、大阪府で初の女医となった末っ子の節であった。
教育熱心な両親のもと喜重郎は、英語教育で定評があった大阪中学校から京都の第三高等中学校に進学したのち、帝国大学法科大学の法律学科に学んだ。
外交官になろうという希望を抱いていた喜重郎だったが、帝大4年生のときに脚気を患い、外交官試験を受けられなかった。そのため帝大を卒業した幣原は1895年(明治28)、農商務省鉱山局に勤務するが、本意ではない。翌年9月に外交官試験を受験した幣原は、合格者わずか4名という狭き門を突破する。
幣原は領事館補として韓国の仁川領事館に勤務を命じられ、1897年(明治30)1月に着任した。時代は、日清講和条約に対するロシア・フランス・ドイツの三国干渉がますますエスカレートし、とくに南下政策をとるロシアの遼東半島をめぐる干渉は熾烈であった。こうした潮流の
●外務次官に就任
1899年(明治32)5月に幣原はロンドン総領事館勤務となり、翌年12月にはベルギーのアントワープに赴任。落ち着く間もなく、1901年(明治34)9月に韓国の釜山領事館勤務を命ぜられた。釜山には日露戦争開戦直後の1904年(明治37)3月まで滞在することになる。この釜山領事館時代に、三菱財閥の創立者岩崎弥太郎の三女の雅子と東京で挙式した。仲人は、幣原が仁川領事館に赴任したときの領事石井菊次郎であった。岩崎の長女春路は加藤高明に嫁いでいたので、幣原と加藤は義兄弟になった。のちに幣原は加藤高明内閣の外務大臣として初入閣する。
釜山勤務から帰国した幣原は、本省で電信課長、取調局長、アメリカ大使館参事官などを歴任し、1914年(大正3)6月にオランダ公使兼デンマーク公使となった。翌月、幣原がハーグに着任したとき、すでに第1次世界大戦は始まっていた。翌年10月に帰国した幣原は、第2次大隈重信内閣の外相となった石井菊次郎の推挙で外務次官に昇進する。以降、寺内正毅内閣、原敬内閣でもそれぞれの外相のもとで次官を務めた。当時、臨時外交調査委員会の幹事でもあった幣原は、第1次世界大戦の戦時外交、シベリア出兵、パリ講和会議の処理にあたった。
●ワシントン会議での活躍
1919年(大正8)9月には駐米大使となり、ワシントンには11月に着任した。その翌年9月に幣原は、男爵の爵位を授けられ華族に列せられている。
1921年(大正10)11月から始まったワシントン会議では、全権委員として加藤友三郎首席全権を補佐した。太平洋と東アジアに権益のあるロシアを除く世界9か国の参加により開かれたこの会議は、初の国際会議であり、初の軍縮会議でもあった。太平洋地域における各国の対応が協議され、日本・イギリス・アメリカ・フランスの領地を相互尊重するという4か国条約が調印される。同時に日英同盟条約が終了した。一連の会議を通して形成された国際秩序は「ワシントン体制」と称されている。この会議が、後年幣原が展開した、「幣原外交」と呼ばれる信頼構築を第一義とする協調外交の原点となった。
ワシントン会議の大任を終え、1922年(大正11)4月に帰朝した幣原は、駐米大使を辞任し、病気療養を兼ねて待命休職した。
腎臓結石に苦しみながらもワシントン会議に加わっていたのだった。
●「幣原外交」を展開
幣原がふたたび外交の表舞台に登場するのは、1924年(大正13)6月、義兄加藤高明の組閣した護憲三派内閣での外相就任であった。かつて「日本の政界というものは実に複雑で、僕のような者には外務大臣はつとまらんよ」と言って憚らなかった幣原だが、以後、第1次若槻礼次郎内閣、浜口雄幸内閣、第2次若槻内閣と4度の外相を務めた。この間、ワシントン会議に象徴される国際協調路線の推進、ソ連との国交回復、中国内政不干渉主義など、平和のための「幣原外交」を展開した。中国で軍閥と国民党との間に内乱が起こったときでさえ、徹底して不干渉を貫き、日中両国民の経済的な関係を深めることで、ワシントン会議の精神に基づいた国際秩序を形成するという理念を通した。
さらに、1930年(昭和5)4月には日英米仏伊5か国によるロンドン海軍軍縮条約に調印する。これは今日では幣原外交の最大の功績と評価されているが、当時は天皇の軍隊に対する最高指揮権を侵犯しているとする統帥権干犯問題を引き起こす。同年11月14日、ときの浜口総理が東京駅で海軍軍縮に不満を抱いた右翼青年に狙撃され、幣原は翌年3月まで総理臨時代理を務めた。次に成立した第2次若槻内閣でも、幣原は外相に留任する。
この年、1931年(昭和6)9月に満州事変が勃発。幣原は不拡大方針をとり、国際連盟理事会で日本軍の撤退を約束したが、関東軍は全満州の占領を意図して紛争は拡大する一方だった。時代は、幣原の考えとは逆に動きはじめたのである。幣原の協調路線は軟弱外交との批判を浴び、世論も軍事行動を支持するにいたり、同年12月、第2次若槻内閣は総辞職する。幣原は外務省をあとにし、ここに「幣原外交」は終わりを告げた。在野となった幣原に残されたのは、1926年(大正15)1月に授かっていた貴族院議員の肩書きだけであった。
●総理として政界に復帰
1945年(昭和20)10月、忘れられた存在となっていた幣原は、政界へと押し戻された。しかも、総辞職した東久邇稔彦内閣の後継総理という大任である。このとき、幣原は73歳であり、在野の期間も14年に及んでいた。外交官時代から内政とは距離をおいていたこともあり、幣原が躊躇するのは当然であった。しかし、日本は占領下というかつてない難局にある。天皇に懇請されると、幣原にはその大命を断わることができなかった。
同年10月9日に第44代内閣総理大臣になった幣原が、まず最初にやらなければならなかったのは、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥に会うことだった。マッカーサーは、婦人参政権や労働組合の奨励、自由主義教育など5大改革を指示するとともに、憲法の改正を要求した。さらに、軍国主義的教員の追放、皇室財産の凍結、財閥解体など重要指令を矢継ぎ早に突き付けた。
こうしたなか幣原は、戦争責任が天皇に及ぶことを避けるために、1946年(昭和21)1月1日、天皇の神格性を否定する「朕は爾ら国民と共に在り」との詔書(人間宣言)発布に関与する。その3日後の1月4日、GHQから軍国主義指導者たちに対する公職追放の覚書が出される。その対象者に幣原内閣の5人の閣僚が含まれていたことに激昂した幣原は、いったんは内閣総辞職を考えたが、翻意して内閣改造にとどめた。
●日本進歩党総裁から衆議院議長に
幣原改造内閣の最大の課題となったのが、憲法改正であった。松本烝治国務相を委員長とする憲法問題調査委員会の試案に満足しないマッカーサーは、GHQに草案の起草を指示する。マッカーサーは、国民に主権がある天皇制・戦争放棄・封建制度の廃止の3原則にこだわった。これに対し、幣原は天皇制擁護のために「どうしても我々は戦争放棄の平和憲法を主張していかなければならない」と、憲法改正の道筋をつけたのである。
一方で、国民生活はインフレと食糧難が深刻化していた。4月10日、婦人参政権も認められた新選挙法による戦後初の総選挙が行なわれた。この選挙で自由党が第1党となったが過半数に及ばなかったことから、幣原内閣続投の可能性が浮上する。幣原自身も意欲を示したが、結局、4月22日に幣原内閣は総辞職した。翌23日に、幣原は日本進歩党の総裁に就任し、はじめて政党入りする。
5月22日に成立した第1次吉田茂内閣は自由党と進歩党の連立であり、幣原も国務大臣として入閣した。翌年4月の衆議院総選挙で幣原は初当選し、1949年(昭和24)2月には衆議院議長に就任。1951年(昭和26)3月10日に心筋梗塞で急逝するまで登院していた。享年78。マッカーサーはただちに「現下の緊迫した世界情勢に際し、幣原氏の死去は必ずや大きな損失となろう」との弔辞を発表した。3月16日、史上初の衆議院葬が、東京・築地本願寺で行なわれた。
駐米大使時代の幣原喜重郎。写真/門真市立歴史資料館
外国記者の取材を受ける幣原総理
幣原を総理に推薦したのは、東久邇内閣で外務大臣を務めていた吉田茂であった。当初、幣原は吉田の説得に応じなかったが、1945年(昭和20)10月6日、日本の将来を憂える天皇の言葉に接し、総理就任を拝命した。写真は、1945年10月7日、外国記者団に総理就任の抱負を語る幣原総理。写真/毎日新聞社
衆議院議長を務める幣原喜重郎
1949年(昭和24)2月、幣原は吉田茂総理(写真手前)の推薦により衆議院議長に就任。衆議院議長とは、新憲法下、総理大臣(行政府)・最高裁判所長官(司法府)とともに3権のひとつである立法府の最高職。このうち2権の長に就任したのは幣原だけである。写真/門真市立歴史資料館
(「池上彰と学ぶ日本の総理30」より)
初出:P+D MAGAZINE(2018/05/11)