【著者インタビュー】吉村萬壱『回遊人』
お世辞にも売れっ子とは言えない中年作家が、妻子を残しプチ家出した先で拾った錠剤。死んでもかまわない、とそれを飲むと、10年前にタイムリープしてしまう。何度生き直しても、うまくいかない男の転落劇に、著者が込めたメッセージとは?
【ポスト・ブック・レビュー 著者に訊け!】
妻以外と結婚していたらもっと幸福になれたのか? 欲深い人間の業が痛々しい長編
『
徳間書店 1700円+税
装丁/水戸部功
吉村萬壱
●よしむら・まんいち 1961年松山生まれ。京都教育大学卒。高校教師や支援学校教諭を経て、2001年『クチュクチュバーン』で第92回文學界新人賞を受賞しデビュー。03年『ハリガネムシ』で第129回芥川賞、16年『臣女』で第22回島清恋愛文学賞。『バースト・ゾーン』『ボラード病』『虚ろまんてぃっく』等の他、初コミック『流しの下のうーちゃん』も好評。写真は芥川賞作家・玄月氏が営む南船場の文学バー・リズールにて。172㌢、67㌔、B型。
幸せになりたければ今この瞬間からでもなれると確認したかったのかもしれない
大阪在住の芥川賞作家・吉村萬壱氏(56)は、日頃からよくゲンを担ぐらしい。
「喫茶店のあの席に座ると、筆が進むとかね。でも僕ら作家はその作品から書き手としてたまたま選ばれただけで、芥川賞受賞作はあっても、
だが文学や人生の一回性に、何度生まれ変わろうと気づけないのも人間だった。最新作『回遊人』の主人公〈江川浩一〉は、お世辞にも売れっ子とは言いがたい中年作家。ある時、妻子を残し、〈プチ家出〉した彼はドヤ街の食堂で誰かが落とした〈錠剤〉を見つける。そしてそんなものをあえて飲むのが作家たる所以。宿に戻り、遺書まで
ずっと手に入れたかった成功やカネや豊満ないい女。だが何度も生き直し、それらを手にしてなお満足とは程遠く、人間とはつくづく懲りない生き物らしい。
*
「僕の小説の主人公は男も女も全部僕で、この錠剤も実際、転がってたんですよ。大阪の『王将』の汚い床にヤバそうなカプセルが!
ええ、もちろん飲みました。何かあった時のために作家仲間に遺書も書いて。あとで調べたら普通の皮膚病の薬やったんですけどね。実は『臣女』(島清恋愛文学賞作)の次に書いた話がただのエロ話になってしまって、全ボツになった。でも発売日は迫っているし、何か書かなきゃという時に、『もし結婚前に戻れたら、自分は妻を選ぶのか』ってふと思ったんですよ。別にタイムリープ物なんて新しくもないけど、スケベ心から他へ行くのか、やっぱり妻がいいのか、結構今回は自分が思ったことを素直に書いた。まあ仮に戻れてもいいことばかりじゃなさそうだし、どうにもならないなというのが、結論です(苦笑)」
妻〈淑子〉や7歳の息子〈浩〉と借家に住む江川は築75年の古民家を別に借り、仕事場にしていた。ある日、親子で買物に行き、〈醤油のミニボトル〉を手に取った彼は、〈家にあるのを分けてあげるから、また仕事場の空の容器を持って来て〉と妻に止められ、憤然とする。
〈淑子の考えは分かる。しかし私は、小さな醤油ボトルくらい自由に買ってもいいのではないかという気持ちを、心の中からなかなか消し去れなかった。家計は私の作家収入だけで支えられている。親子三人暮らしていくのがカツカツの収入ではあるが、醤油のミニボトルは百十八円ぽっちだ〉
そこに現れたのが淑子の大学の友人〈江藤亜美子〉だ。かつて江川は肉感的な彼女に交際を申し込んだが、結局は〈痩せて平板な淑子〉と結ばれ、浩が生まれた。だが人妻の亜美子になお未練がある彼は〈熟女の品格〉とは名ばかりのデリヘル嬢を、つい呼んでしまうのだ。
と、前半は冴えない作家の日常が自嘲気味に綴られ、自分にしては売れた自信作〈『ブラッド・キング』〉を別の作家の大ベストセラー〈『ブラック・キングダム』〉と間違われるなど、トホホな毎日が続く。そして結婚の際、〈煙草を止めない事〉〈衝動的に旅に出る事〉の2要求を呑ませた彼は腰痛の妻を残して場末の歓楽街に入り浸り、例の薬を拾う。
「彼は中坊並みのバカですよね。ただ今回は書けなくなった作家の業についても書いていて、物理的な死より
10年前に戻った彼が自作を二度と書けないように、作品も人生も1回きりだからいいわけで、
ダメなやつは何度生き直してもダメ
2度目の人生では亜美子と結婚。『ブラック・キングダム』を作者より先に発表し、一躍人気作家となるが、亜美子の体にも次第に飽き、以前〈貧乏の、成れの果てね〉と話した安アパートに住む淑子と再会したことで、江川の心はさらに揺れる。そして再び過去へと戻ることを決意するのだった。だが彼が、妻子を救うべく生き直しを重ねるほどかえって人生は先細り、元の世界を覚えているふうでもあった淑子のひたむきな愛もまた、失われてゆくのだ。
「僕は自分が生きなかった自分に興味もないし、必ずよく生き直せると思うほど楽観的でもない。『クチュクチュバーン』や『ハリガネムシ』でも書いたように、人類はいつ何時でもエログロに転びうる醜く恐ろしい存在だと思ってますから。
だからこそ今こうやって本を出してもらえる環境は大事にせなあかんと思う。普通は原稿用紙に何か書いたら、ただの汚れですよ。そこに原価以上で買う価値を付与する能力がもし自分にあるなら、その能力を1滴残らず使い果たして
〈書くという営みは、一種の熱病なのかも知れない〉とかつて記した江川はやがて小説自体書かなくなり、味気ない回遊を繰り返す。そんな彼の転落劇は、人生は一度きりだからこそ輝き、私たちはその事実に救われてもいることを、おかしくもホロ苦い形で突き付ける。
□●構成/橋本紀子
●撮影/三島正
(週刊ポスト 2017年11.17号より)
初出:P+D MAGAZINE(2018/06/13)