月刊 本の窓 スポーツエッセイ アスリートの新しいカタチ 第8回 石浦
相撲ファンにとっては、聞きたくない話が連日メディアを賑わした昨年末だったが、ひたすら強くなろうと、日々稽古に励む力士たちの思いは真っ直ぐだ。なかでもオーストラリアに留学し、総合格闘技も経験した小兵の石浦関が、ファンを惹きつけてやまない理由は何なのだろう?
「角界のオシャレ番長」という呼び名について、「いやいやいやいやいや。誰が言い始めたんすかもう……」と石浦。角界では着物に詳しい人が多いなか、洋服が好きということもあるだろう。小兵とはいえ、サイズの合う洋服はほとんどない。着られない洋服買っては「いつか着られるかなって思って……。嫁さんに叱られてます」と笑う。
石浦(27歳)
(宮城野部屋)
Photograph:Yoshihiro Koike
心根の優しさと育ちの良さが滲み出ている。世間では「角界のオシャレ番長」とも呼ばれている石浦。ハイセンスなセレブリティに人気のクリスチャン ルブタンのバッグを持った姿が、同ブランド公式のインスタグラムにも掲載され、ストリート系ファッションを着こなすとSNSでも話題だ。大卒で留学経験もある。ということで、やや構え気味に対面したところ、実際の本人は、素直すぎるほどの心の清らかさが露わな好青年だった。
話を伺ったのは九州場所の直後。日馬富士の貴ノ岩暴行事件の騒動に揺れる中、福岡の宮城野部屋の周辺には報道陣が物々しく集まっていた。騒動前にアポイントを取っていたが、本当に会えるのかどうか……。おそるおそる行くと、部屋の若い力士たちが「はい、聞いてました」と至って普通に、私たちを奥へと通してくれた。ほどなく石浦がやってきた。胸をなで下ろしながら、インタビューが始まった。
この場所の石浦は、七勝七敗の瀬戸際から、勝ち越し、幕内復帰を決定づけた。ヒヤヒヤしました、と伝えると石浦は「七勝七敗、多いんで」と笑い、「でも、勝率は結構いいんですよ」とさらりと応えた。なぜなのか。理由を聞くと、「千秋楽は負けたらどうしようという気持ちより、この一番で終わる、最後だから思いっきり行けるっていう気持ちで取れるからでしょうか」と最終日の強さの秘訣を明かした。
百七十三センチ百十五キロの小兵力士である。「小よく大を制す」といえば聞こえはいいが、空手や柔道に始まり、ほとんどの主な格闘技は、体重差が大きなハンデとなるため、体重別に分かれている。ボクシングなど、立ち技の打撃系はかなり細かい。なのに“無差別級”である相撲は、自分より何十キロも重い、鍛え上げた力士とぶつかり合う。当然、ケガのリスクは、小さい身体の力士ほど大きい。小柄な石浦は人一倍の注意を払って、十五日間を戦い抜いているのだろう。「最後だから思いっきり行ける」という本音からその苦労が窺われた。
高級ブランドのクリスチャン ルブタンのバッグを披露した写真。このショットが、同ブランドの公式ツイッターでも掲載され、石浦は「ルブタンのツイッターに載るなんて!」と感激。「カッコいい!」「新しいサムライのスタイルだ」といった反響を集めた。
実際、土俵ではどうやって集中力を高めていくのか。尋ねると、驚くほど穏やかな表情で言葉を紡ぎ出した。
「あまり闘志は出さなくて、どっちかというと感謝なんです。それこそ、生んでくれてありがとうとか。みんなのおかげで今、ここで相撲が取れてるんだなって、いつも考えてるんです。そうすると、欲がなくなって、勝ち負けもどうでも良くなって、かえっていい相撲が取れるんです」
そう語る石浦の表情はとても清らかで嘘がない。こんなに邪心のないように見える力士とは夢にも思わなかったので、ただただ驚かされた。けれども、誰よりも困難を強いられてきた小兵力士は、過去には病で激やせしたり、総合格闘技に傾倒したり、オーストラリアに留学したりと、紆余曲折の道のりを歩んできたという。「フラフラしてたんです」と、未熟な過去の自分をも赤裸々に語ってくれた石浦。そういうものを一つ一つ、消化して人柄も人生も磨いてきたのだろう。
「お菓子もジュースも禁止」の食育
父は全国屈指の強豪校の名監督
石浦は、常勝で知られる鳥取城北高校相撲部の石浦外喜義監督の長男として生まれた。母も同校の養護教員で、妹が二人。ドラマ「暴れん坊将軍」で力士が戦う場面を見て、相撲に興味を持つと、五歳でまわしをつけるように。小学時代は野球で左腕エースだったが(父親の影響で幼い頃からの阪神ファン)、早くから元力士の父譲りの相撲センスを発揮し、父のもとで実力を蓄えていった。
鳥取城北高校の相撲部総監督で現校長の父・外喜義氏は、一九八六年に同校の体育教師で相撲部監督に着任し、歳月をかけて全国屈指の相撲強豪校に育て上げた。十五年ほど前からは、モンゴル勢も預かるようになった。教え子には長男の石浦ほか、照ノ富士をはじめ、逸ノ城、話題の貴ノ岩、そして石浦と兄弟のように育った山口など、有名力士の名が続く。
著書『弱くても勝てる 強くても負ける』(幻冬舎)によると、外喜義氏は当初、プロの世界が好きになれず、大相撲には入れない前提で指導をしていたという。加えて、従来の「気合い一辺倒」ではなく、理詰めで「どうすれば強くなれるか」を一人ひとりの個性に応じて実戦した。強豪校になろうとも、相撲バカにならないよう、学業が本分と説いた。そうした「人間づくり」に重きをおいて育てた相撲部員は、卒業後も多方面で評判を呼び、ますます城北高校には有望な相撲部員が入部するように。同氏は、部員を世話するため、借金をして三階建ての寮を建てたのだという。
この「石浦寮」では食生活も徹底管理が行き届いていたという。力士にとっては「食べることも稽古」だが、お菓子やジュースといった嗜好品は一切禁止。栄養バランスの良い食事での身体づくりを徹底したため、入寮すると一旦は痩せたり、糖尿気味の部員は完治したりするほど。栄養士も太鼓判を押す食生活を送った同校の部員に、力士の職業病でもある糖尿病になった者は一人もいないというから驚きだ。
石浦は当時を振り返り、「ちゃんこも、出汁の素みたいなものは一切使わないんです。その時は、なんでお菓子もジュースもダメなんだろうって思いましたが、おかげで好きじゃなくなりました。食べると気持ち悪くなるんです。本当にありがたいと思います」と感謝を語る。こうした食生活が小さくても逞しい身体をつくり出したことは、想像に難くない。
腸の病で激やせして投げやりに
総合格闘技からオーストラリアへ
父のもとで相撲を磨いた後、石浦は悩んだ末に、「体育の先生になれるよう、教員免許を取りたい」と日本大学へ進学。強豪の相撲部にも入部した。だが、大学三年の時のこと。全国大会を目前に控え、目標体重を目指し、手っ取り早く太ろうとファストフードなどを手当たり次第に食べ続けた。結果、身体が悲鳴をあげた。「最初は肉離れかと思ってたら、だんだん起き上がれなくなって。病院に行くと大腸の憩室炎と診断されて、即入院でした」
百キロ以上の目標体重をクリアしたのに、一週間の入院で十数キロがあっという間に落ちた。大会出場が叶わなくなり、ますます食が細り、みるみる七十キロまで体重は激減。投げやりになった石浦は、そのまま相撲部に戻らず、バイトをしては夜遊びに繰り出した。「クラブに行って、好きな音楽を聴いたりして、友だちに連れられて、慣れないナンパもしました。一回も成功しなかったですけどね。お酒をおごらされただけ」と弱り顔で笑う。ちなみに、石浦は音楽の好みも“オシャレ”だ。ボブ・マーリーなど、七〇年代のレゲエが好きという。「あまりがちゃがちゃしてないルーツが好きで、だからスカとかも好きです」
潰れた耳は格闘家にとって勲章だ。「ずっと潰れなくて、高3の時にやっと潰れました。山口の頭がここに当たったんです」と石浦。その後、2人の先生から「温めなさい」「冷やしなさい」と正反対の指示を受けたため、交互にやっていたら「シワシワで汚くなっちゃった」と苦笑い。
大学四年の時のこと。石浦は相撲から離れるうちに、大学進学時にも悩んでいたという総合格闘技への思いを募らせ、山本“KID”徳郁の運営するKRAZY BEEの門を叩き、トレーニングを開始した。相撲という格闘技で育った石浦だったが、愕然としたという。「多少はできると思ってたら、ど素人もど素人でボロボロでした。相撲が染みついてるんです。まず、打撃は避ける概念がない。それに、ステップもできなくて、すり足になっちゃう」。それでは、すぐにKO負けである。「ああ、自分はやっぱり相撲しかできないんだって思い知りました」
こうして大学時代に相撲の“ブランク”をつくってしまった石浦は、「もう相撲の競技選手には戻れない」と考えた。そこで、「でも、相撲を教えることならできる。国際相撲連盟っていう世界大会を運営してるところがあるんですが、そこで働いて海外の人たちに教える仕事がしたいと思ったんです」。英語も勉強しようと決心を固め、大学卒業後にオーストラリアの相撲連盟を通じて、オーストラリアへ単身留学した。
仲間の大相撲入りとフランチェスコとの出会い
横綱・白鵬のいる宮城野部屋へ
オーストラリアでは、相撲大会を手伝うなど連盟のサポートを担った。出場人数が少ない時には、代わって大会にも出た。「そうしたら、ストロンゲストマンと対決することになったんです」。ストロンゲストマンとは、一九七七年に始まったワールド・ストロンゲストマンという世界一の怪力男を決める大会で、そのチャンピオンを指す。石浦は、そんな力自慢の世界王者とまさかの対決。百七十キロはあろうかという大男を相手に、「ケガしないようにしなくちゃ」と警戒しながら見事に勝利した。
その頃、中学から一緒だった山口や大学の同級生だった英乃海は角界入りしていた。留学中の石浦は、インターネットで検索しては、同じ釜の飯を食べた二人の取組を見た。その度に、「自分だったら、こう相撲を取るな」とシミュレーションをしていたという。相撲への思いが、沸々と高まっていった。
そんな石浦の前に、「相撲が大好きなので、世界チャンピオンにしてくれ」というオーストラリア人が現れた。連盟に何度も「相撲を教えてほしい」と頼み込んでいたという。当時すでに三十歳。エンジニアだったフランチェスコさんを、石浦がマンツーマンで指導した。
幼少から相撲街道をひた走りながらも、“ブランク”を機に現役を諦めていた石浦は、「そんなに甘い世界じゃない」とフランチェスコさんに厳しい稽古を課したという。早くに諦めたほうが本人のためになるだろうと。ところが、どんなに負荷を掛けても、むしろ練習量を増やしてくれと申し出る。オーストラリアなので、土俵などない。稽古は体育館で行った。そのため、靴下を履いて足下が滑るようにしたのだが、一回当たっただけで穴が空いてしまう。フランチェスコさんは、数え切れないほどの靴下を購入し、稽古に励んだ。
「三十歳の人ですよ。甘くないから相撲やめろって怒ったこともあります。でも、本気だって聞かない。ぶつかり稽古で泣きながら向かってくるんです。そんな彼を見てたら、自分も相撲をもう一度どうかなって思うようになって。遅いことなんてないんだって気づかされました」
フランチェスコさんは何度となく石浦に言ったという。「マサ(石浦)はラッキーだ。相撲の環境にも恵まれてるし、まだ若いじゃないか。なんで、やらないんだ?」
オーストラリアに留学して四か月後、ついに石浦は帰国して稽古を再開。わずか三か月で鳥取代表として国体に出場し、団体ベスト8、個人十六位と結果を残すと、山口のいる宮城野部屋を志願。新弟子検査を経て、横綱・白鵬の内弟子として入門した。
「力士はアスリート」
ケガなく健康に長く活躍するために
二〇一二年十二月、二十二歳で角界入りを果たした石浦は、翌一三年の一月場所で初土俵を踏み、三月場所では序の口で七戦全勝優勝、続く序二段で迎えた五月場所でも七戦全勝優勝した。その後も、着々と勝ち越しを重ねて、幕下に昇進し、一五年の三月場所での十両昇進が決定。一六年十一月場所では、新入幕にして破竹の十連勝で優勝争いに加わる大健闘をみせ、一際の注目を集めて敢闘賞を受賞したことは記憶に新しい。
石浦は、「力士はアスリートである」という信念のもと、鍛錬と自己管理に勤しむ。「昔は無理な稽古をしたりして、二十代で引退も珍しくなかった。ちょっと独特なスポーツですが格闘技なので、体調管理はきっちりしないといけない」と引き締める。腸の病を予防するため、ご飯には炭を入れて炊くなど、今も食生活に工夫を凝らす。
長く活躍し、いつかは教える立場、つまり将来は親方になりたい。プロになってからの石浦は、横綱・白鵬と猛稽古に励み、実戦的な筋力トレーニングにも取り組む。フィジカルトレーナーで総合格闘技のレフェリーとしても知られる和田良覚氏のもとで、「一瞬で大きな力を出す」ウェイトリフティングを学び、立ち合いの強化に努める。新しいことを取り入れ、小さくてもより強く、より長く活躍できるように。
現役力士としては、何よりもファンを楽しませたいと語る。憧れは、小兵力士で大人気だった舞の海。「番付の上に行くというよりも、お客さんをワクワクさせたいっていう気持ちのほうが強いです」と、またしても無欲が口をついて出る。そんな石浦は、ファンとの接し方も、どんなに身体が辛くても決しておざなりにしない。そのことに水を向けると、「それはやはり横綱(白鵬)に倣っています。そうじゃない関取もいる中、横綱は、あれほど強くても、どんな時もすごく丁寧にファンに対応されてますから」
新十両昇進の時、力士は四股名をつけるのが習わしだ。石浦の場合は、通常なら昇進しない勝敗数だったうえ、十両から落ちる力士が多かったため、急遽昇進が決まったという。予想外の昇進に「とりあえず、石浦のままでいいか」「あ、はい」といったやり取りで、“異例”の本名据え置きとなったそう。とはいえ、全国の石浦姓が集う「石浦会」に入会し、宣伝部長から理事にも昇格していることもあり(仕事は特にはない)、石浦のままいてほしいという同会の願いを満たしていることも少なからずあるようだ。
冒頭のルブタンのバッグは、とある先輩力士に「十両になったんだから、ちゃんとしたバッグを持ったほうがいい」と助言されて、持つようになったという。「みんなが持ってるブランドじゃないほうがいいなと選んだんです」と理由を明かす。どこまでも素直で、やるとなったら新しいものを。角界のホープ、石浦がたくさんのファンを惹きつける理由も、未来を感じさせる可能性も、こうしたところにあるのかもしれない。
相撲人気に水を差すような事件が起きてしまったが、石浦と話した後には、希望がすぐ目の前に“カタチ”となって現れたように感じた。
プロフィール
石浦
いしうら
大相撲力士。本名は石浦将勝。宮城野部屋所属。1990年生まれ。173cm、体重115kg。鳥取市出身。強豪の鳥取城北高校相撲部監督の石浦外喜義氏の長男に生まれ、5歳から相撲を始める。高校時代は、国体の団体戦で優勝に貢献し、個人戦では全日本ジュニア体重別相撲選手権で優勝。日本大学に進学し、相撲部に入部。大学卒業後にオーストラリア留学を経て、2012年に22歳で宮城野部屋へ入門。序の口、序二段と2場所続けて全勝優勝。2015年三月場所にて十両に昇進し、鳥取出身では横綱・琴櫻以来、53年ぶりの関取となる。
松山ようこ/取材・文
まつやま・ようこ
1974年生まれ、兵庫県出身。翻訳者・ライター。スポーツやエンターテインメントの分野でWebコンテンツや字幕制作をはじめ、関連ニュース、書籍、企業資料などを翻訳。2012年からスポーツ専門局J SPORTSでライターとして活動。その他、MLB専門誌『Slugger』、KADOKAWAの本のニュースサイト『ダ・ヴィンチニュース』、フジテレビ運営オンデマンド『ホウドウキョク』などで企画・寄稿。
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初出:P+D MAGAZINE(2018/01/25)