藤野千夜『夏の約束』/芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第65回】明るい日常性の静かなパワー
芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義! 連載第65回目は、藤野千夜『夏の約束』について。セクシャル・マイノリティたちの日常を描く作品を解説します。
【今回の作品】
藤野千夜『夏の約束』 セクシャル・マイノリティたちの日常を描く
セクシャル・マイノリティたちの日常を描いた、藤野千夜『夏の約束』について
最近、LGBTという言葉をしばしば見かけるようになりました。サンドイッチのBLT(ベーコン・レタス・トマト)ではありません。LGBTというのは、レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーをまとめた言い方ですね。これのどれかに属している人からは、一緒くたにしてほしくないという声も上がっているようですが、男と女、という昔からの関係にこだわり、それだけが「正常」だと思い込んでいる人々にとっては、こういうふうにくくってしまえば安心できるということなのでしょう。
もちろん、どんな人間にも生きる権利がある、ということで、彼らに同情し、彼らを支援しようという善意の人もいるのでしょうが、当人たちは、余計なお世話だと感じているのではないでしょうか。
渋谷区では、同性の婚姻届が出せるようになりました。国の法律が改められたわけではないので、正式な結婚ではないのですが、区の行政サービスについては、なるべく男女の結婚と同じように扱いたいという、まさに善意に満ちたサービスで、届けを出して喜んでいる人もいるようです。最近のテレビには、マツコ・デラックスさんや、ミッツ・マングローブさんなど、ファッションを見ただけでは男なのか女なのかよくわからない人も少なくありませんし、過去にさかのぼっても、美輪明宏という大スターがいます。芸能界ではこういうキャラクターが目立つのかもしれません。でも、ぼくたちの日常生活には、こういう人はめったにいません。いたらちょっと、緊張してしまうというのが実情ではないでしょうか。
図式的な発想を超えた巧みな作品
藤野千夜の芥川賞受賞は、ちょっとした事件でした。作者が女装の男性だったからです。ぼくも少し驚いた覚えがあります。新聞の紹介記事には、漫画雑誌の編集者だったのだけれど、女装の姿のままで仕事をしようとしたので、上司と対立したとか、そんなことが書いてありました。それで、女装マニアやトランスジェンダーの権利を主張する作品なのか、あるいは少数者の悲哀を描いた作品なのか、といった予断を抱いてしまったのですが、それは浅はかできわめて図式的な発想だったと、あとで反省しました。
さて、この『夏の約束』という作品は、「八月になったらキャンプに行こうという約束を、松井マルオはすっかり忘れていた。というよりも最初から、あまり本気の話とは考えていなかった。」という、どことなくゆるい文章から始まります。すぐ次に「どうして俺のことを誘わないわけ?」という、「恋人の二十七歳フリー編集者・三木橋ヒカル」という人物のセリフが出てきます。何も知らずにこの作品を読み始めた読者は、軽い混乱に陥ることでしょう。ヒカルという名前は男女兼用ですが、自分のことを「俺」と言っているので男性でしょう。主人公のマルオは、どう見ても男性の名前ですし、すぐ次にすごいデブの男だということがわかります。つまり男の恋人が男なのですね。
ああ、そういう話なんだ、と諒解して、とりあえず次に進んでいくと、少し先の方に、マルオが会社の同僚と酒を飲みに行く場面が出てきます。少し飲んだあとで、他の同僚たちはそのまま風俗の店に行くのですが、マルオは誘われません。マルオがそういうところには行かないことを、同僚たちは知っているようです。つまり職場ではマルオがゲイだということが公認になっているのですね。秘密をもっている人間は何かと生きづらいものですが、最も多くの時間を過ごす職場で秘密をもたずにすむというのは、とても楽な状況です。この小説は、ゲイやレズという少数者が、楽に生きているところを、ごく当たり前の日常的な風景として描いています。あまりにも当たり前すぎて、小説としてのスリルがまったくありません。しかしそこのところが、作者の狙いなのでしょう。
明るい世界の背後にある緊迫感
少数者が社会から白眼視されて、そのつらさに嘆き悲しむ。そんなワンパターンの発想はもううんざりだという主張が、作者にはあるのでしょう。この作品の登場人物は、苦悩とは無縁の、ごくふつうの人たちです。ごくふつうに、夏にはキャンプに行こうと約束し、すぐにそんな約束を忘れてしまう。いいかげんで、能天気な若者たちです。この作品には緊迫したドラマはありません。苦悩も対立もなく、スリルとは無縁の単調な日常が展開されます。
最初はこのスリルのない日常性の連続に、読者はいらいらするでしょうが、そのうちこの何ともだるい世界が、快適になってきます。そしてしだいに、この明るい日常性の背後に、何だかものすごいパワーが隠されているのではという気分になってきます。
そして、時間をかけてじっくり読み込んでいけば、この一見、明るくユーモアに満ちた世界の背後に、やはり何かしら緊迫したものがひそんでいることに気づかされます。だって、どんなに明るくても、彼らは少数者なのです。少数者なりのイジメとか白眼視とかにさらされながら、いままでの人生を生きてきたのです。
そのつらい部分をきれいに押し隠して、明るくのんびりとした場面だけを執拗に描いていく。そこに作者の意図と力量が見えてきます。選考委員の多くがこの作品を肯定的にとらえたのは、この作者の並々ならぬ見識と、表面的にはゆるい文体の底に隠された強靱な意志の力を感じとったからではないでしょうか。
で、この作品のタイトルが『夏の約束』だということを想い起こしてください。果たしてこの約束は守られるのか。最後はやっぱり皆でキャンプに行くのか、と期待をもって読んでいくと、最後に見事に肩すかしをくってしまいます。そのあたりでも、巧みに計算された小説だということがわかります。
初出:P+D MAGAZINE(2019/04/11)