須賀敦子の軌跡

随筆家・翻訳家の須賀敦子は昨年没後20周年を迎え、最近では『須賀敦子の本棚』(河出書房新社)などの刊行や、『池澤夏樹編日本文学全集』(河出書房新社)への収録、多くの関連書の出版などがされています。長年住んだイタリアの地で出会った人々や自らの軌跡を、晩年になって静謐な筆致で綴った文章は、沢山の人々の人気を集めました。今回はそんな須賀敦子の文章を頼りに、彼女の人生を辿っていきます。

 

迷い歩いた道

兵庫県の水道工業経営者の家で生まれた須賀は、カトリック系の学校に通い、のちに自身も入信します。親の進学への反対を押し切り、聖心女子学院慶應義塾大学を経て、順当に学びの道を歩んでいきます。しかし、彼女もまた普通の若者と同じように、何のために学んでいるのか迷いながら、人生を模索していきます。

なんのために勉強しているのか、あるいは、将来、どんな職業をえらぼうとしているのか、扉を閉めたままで回答をおくらせて、ぐずぐずしているじぶんが、もどかしかった
(『ユルスナールの靴』より)

ユルスナールの靴
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大学院を中退した彼女はフランスへと渡り、旅行で訪れたイタリアでイタリア語そのものに恋をしてしまいます。その国のことを好きになったり、自国から離れたいと思う以上に、まず言葉への徹底した眼差し愛情が須賀を突き動かしました。そして彼女は徐々にイタリアへと惹かれていき、ついにローマへと渡ります。

 

コルシア書店との出会い

須賀はイタリアのミラノでコルシア書店と出会います。そこは当時の教会のあり方を変えようとするカトリック左派の知識人達が集まる教会の中の書店で、沢山の人々が店に集まり議論をしている場所でした。須賀自身も書店に加わるようになり、仲間たちと書店を通した社会改革の活動を始めます。それはまさに須賀にとっての青春の日々でした。

夕方六時をすぎることから、一日の仕事を終えた人たちが、つぎつぎに書店にやってきた。作家、詩人、新聞記者、弁護士、大学や高校の教師、聖職者。そのなかには、カトリックの司祭も、フランコの圧政をのがれて亡命していたカタローニャの修道僧も、ワルド派のプロテスタント牧師も、ユダヤ今日のラビもいた。そして、若者の群れがあった。
(『コルシア書店の仲間たち』より)

コルシア書店の仲間たち
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書店を手伝いながら、須賀は翻訳の仕事をしていきます。『日本現代文学選』を自ら編み、夏目漱石の『坊ちゃん』や森鴎外の『高瀬舟』をイタリア語に翻訳するという重要な仕事を成し遂げていきます。

イタリア有数の文芸書の出版社であるポンピアーニ社で翻訳者を探していると聞いたときは、なんの迷いもなく、それは自分のための仕事だと信じてしまった。
(『ミラノ 霧の風景』より)

ミラノ霧の風景
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書店の変化

後に、須賀はコルシア書店で出会ったペッピーノと結婚します。夫との静かで幸せな日々を送りながら、須賀は書店を通して様々な人と出会いますが、徐々にコルシア書店は時代の流れとともに左傾化していきます。そして教会当局の圧力などもあって、仲間たちはバラバラになっていきます。

それぞれの心の中にある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、一途に前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣りあわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
(『コルシア書店の仲間たち』より)

若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。
(『コルシア書店の仲間たち』より)

 

夫との別れ

そして、夫ペッピーノとの幸せな日々も終わりを迎えます。まさに須賀が恐れていたことが現実となるように、6年の結婚生活の後、最愛の夫であったペッピーノがにかかりあっという間に亡くなってしまうのです。

四年まえの秋にペッピーノと結婚したときから、日々を共有するよろこびが大きければ大きいほど、なにかそれが現実ではないように思え、自分は早晩彼をうしなうことになるのではないかという一見理由のない不安がずっと私のなかにわだかまりつづけていて、それが思ってもいないときにひょいとあたまをもたげることがあった。
(『ヴェネツィアの宿』より)

ヴェネツィアの宿
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帰国後

40歳を過ぎて帰国後、須賀は慶應義塾大学やNHKなどで働きながら、翻訳の仕事をしていきます。また、自らの稼ぎとは関係のないところでエマウスというカトリック団体で慈善活動も行なっています。若くして入信した彼女の人生においてはカトリックが重要な位置を占めていたことは確かですが、作品ではあまり詳しく触れられていません。そこには自らの宗教観を大っぴらに出さない静かな信仰がありました。
そして、61歳で『ミラノ 霧の風景』を発表します。帰国してから発表までに、実に20年の時が流れています。その間に須賀は働きながら自らの文体を探していたのかもしれません。日本文学やイタリア文学、またはそれらの翻訳を通して須賀は自らの文体を構築していき、書きたいことを書く方法を探しました。そして、編集者からの勧めで初めての作品を書き上げました。

好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところにひきよせておいてから、それに守られるようにして自分の文体を練りあげる。いまこう書いてみると、ずいぶん月並みで、あたりまえなことのようなのに、そのときの私にとってはこのうえない発見だった。
(『ミラノ 霧の風景』より)

『ミラノ 霧の風景』は、当時驚きをもって迎え入れられました。彼女がミラノで経験した出来事を、まさに目の前にその人物がありありと現れるような人物描写その土地の風土の描写を持って日本語で描きました。小説とエッセーの間にあるようなその文体は、まさに彼女が練り上げた独自のものです。そこに描かれた美しい世界は、次の作品たちへと繋がっていきます。

きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。
(『ユルスナールの靴』より)

 

おわりに

晩年、須賀は自らの宗教や生き方についての考えを反映した小説を書こうとします。しかし、を宣告され、小説を書き上げないままに69歳でこの世を去ってしまいます。須賀の仕事は、死後改めて評価され、近年では若い頃に書いた詩なども見つかっています。

作家としての活動は10年にも満たないですが、彼女が静かにゆっくりと辿ってきた軌跡は、私たちに人生の豊かさを教えてくれます。彼女はまるでイタリアで生まれ直したかのように、自らの道を見つけていきました。このことは、自分の未来を決めかねている人に何か大きな助言となるかもしれません。彼女が夫を亡くした経験は、同じく喪失の経験をして悲しんでいる人の背中をそっと押してくれることでしょう。また、彼女が後年に作品を発表したように、決して人生において遅いということなどないとも言えます。むしろ様々なことを経験してから溢れ出てくる人生の味があるのかもしれません。須賀敦子の生き方は、私たちに人生の豊かさを教えてくれます。まさに、彼女が訳したウンベルト・サバの詩のように、“人生ほど、生きる疲れを癒してくれるものは、ない。”のです。

参考文献
『須賀敦子全集』河出書房新社
『須賀敦子の旅路』株式会社 文藝春秋

初出:P+D MAGAZINE(2020/01/21)

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