芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【番外編(1)】中上健次の想い出 戦後生まれの偉大な文豪

芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義! 番外編(1)では、戦後生まれの偉大な文豪・中上健次について語ります。

今回は、懐かしい作家や印象に残っている作家のデビュー当時の想い出を語ることにします。ぼくが作家になったのは1970年代の後半で、もう40年も前のことなのですね。だから年寄りの昔話みたいなものになってしまうかもしれませんが、思いつくままに書いていきたいと思います。

1970年、ぼくが早稲田の学生だったころは、学生運動の全盛期で、文学なんかに関心をもっていると、軟弱だと批判されました。当時の文芸誌を見ても、内向の世代と呼ばれる地味なサラリーマン作家が新人扱いされていました。彼らは新人なのに40歳代で、もう若い人は小説なんか書かないんだと、絶望的なことを言う評論家もいました。それでも津島佑子金井美恵子といった女流の若手作家はいたのですが、男の若手作家は皆無といった状況でした。

そんな中でも、中上健次の名前は、時々耳にしていました。ぼくは高校時代に『文藝』の「学生小説コンクール」という催しでデビューしていましたので、学生のころから編集者に文壇バーにつれていってもらっていました。当時は文壇バーという、前世紀の遺物みたいなものがあったのですね。

そこは純文学の編集者のたまり場でした。編集者は毎日そこで飲んでいたようです。編集者だけで行くと自腹ですが、作家をつれていくと経費で落とせるので、そこには作家の姿もありました。ぼくは無名の学生でしたが、将来有望な若手作家だと同行の編集者に紹介されていましたので、店の人との会話の中に、将来のライバルとして、中上さんという人が時々飲みに来る、といった話題が出たことがあります。

壮大な神話的構造をもった大作を描く

そのうち、文芸雑誌に中上さんの作品が出るようになり、1976年の初めの芥川賞で『』が受賞して、一躍スターとなりました。当時は、初めての戦後生まれ作家、といったキャッチフレーズがついていたように思います。同じ年の夏には村上龍が、翌年には三田誠広、さらにその翌年には高橋三千綱宮本輝など、戦後生まれの作家が続々と登場することになります。そうなると中上さんは、戦後生まれ作家のボスみたいな感じにまつりあげられていました。本人もその気になっていたと思います。

まだ互いに無名だったころから、ライバル関係になっていたようで、当時のぼくは、自分でいうのもナニですが、紅顔の美少年といった感じだったのに対し、中上さんはブルドーザーみたいな感じの人でしたし、書く小説も対照的でしたから、中上さんとしても気になる存在だったのではないかと思います。そのうち中上さんが、文壇バーで、三田を殴ってやるといって騒いでいる、という情報がとびかうようになりました。ぼくが文壇バーにいると、別の文壇バーからその店に電話がかかってくるのです。そこに三田さんがいたら避難させた方がいいとか、そんな電話です。でもぼくは、中上さんが来るのを待っていました(そのあと何が起こったかは、話が長くなるので詳細は読者の想像にお任せします)。

そのうち中上さんとは親しくなりました。初期の中上さんは、地方から東京に出てきた若者の孤独感みたいな、わりとシンプルな小説を書いていたのですが、やがて故郷の紀州を舞台にした、壮大な神話的構造をもった大作を書くようになりました。ぼくは自分ではそういうものは書けないのですが、作品を分析し評価するのは好きでしたから、中上さんに会う度に作品を褒めていましたので、晩年は円満なつきあいができていたと思います。

ぼくや高橋三千綱、立松和平は、『早稲田文学』の編集委員を長くつとめていました。そこに突然、中上さんが乗り込んできた時には、びっくりしたのですが、そのおかげで学生たちがピリッとひきしまった気がしました。その当時の学生編集者から、直木賞作家の重松清と、ファンタジーノベル大賞の宇月原晴明が出たのは、中上効果だと思います。

徹夜で文学論を語り明かす

中上さんは、熱い人でした。文学論を始めると、必ず徹夜で飲むという感じでした。時々人を殴るクセがあるので、つねに緊張を強いられるのですが、ぼくも若いころは論争が好きでしたので、朝までつきあったことがあります。いまはそんな論争をする作家もいなくなりましたから、とても懐かしい想い出です。

純文学にはトレンドがあります。おもしろくて売れる小説なら、売れ行きだけで評価が決まるということがありますが、売れない純文学の場合は、べつの評価基準が必要なのですね。売れないけれども、ここがすごい、といえるだけの理論武装が必要だったのです。中上さんは果てることがないほどに次々と理論が出てくる人でした。論理的というのではなく、思いつきみたいな理屈が多かったのですが、不思議な威圧感のある人でしたから、説得力がありました。

中上さんの文学は、中上さんにしか書けない、真似のできない文学です。理屈を重ね、文壇にトレンドを築こうとしていたようですが、途中で体力の限界が来てしまいました。中上さんが亡くなったのは1992年、46歳でした。それから二十数年の年月が流れているのですね。いまも中上さんが生きていたら、と時々思うことがあります。安心して酒が飲めなくなるという気もするのですが、文壇バーなどといったものもほとんどなくなってしまい、ぼく自身が街に出ることもなくなってしまいました。

それでもたまに、新宿の飲み屋街を歩いていると、どこからか中上さんの声が聞こえてくる気がします。古い編集者などと会うと、必ず中上さんの話をします。中上さんが生きていたら、文壇はもっと元気だったのではないか。そんなことを考えたりもします。同世代の偉大な文豪だったと思います。とくに『岬』『枯木灘』『地の果て至上の時』の三部作は、永遠に語り継がれるべき不朽の名作だと思います。

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初出:P+D MAGAZINE(2020/02/13)

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