連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第3話 吉行淳之介流 三方一両得

名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間では、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。一般読者には知られていない作品の裏側をお伝えする連載の第3回目です。「吉行淳之介」は、対談の名手としても名を馳せましたが、気配りの人としても慕われていました。当時のエピソードを振り返ります。

担当編集者だけが知っている、吉行流・気配りに溢れた振る舞いの数々とは……?

 とにかく気働きの人で、子どものような側面も併せ持った作家だったという吉行淳之介。その粋で優しい振る舞いや、華やかな世界を好んだことでも知られています。いわゆる「第三の新人」の1人ですが、繊細な感性、研ぎ澄まされた文体で、人間の心理を描いた作家です。担当編集者だけが知るエピソードについて、宮田昭宏氏が語ります。


 夜中に銀座で帰宅のためのタクシーを手に入れるのにとてつもなく苦労した時期があった。バブル経済というやつのせいだったと思うが、銀座の通りで流しのタクシーを拾うのも、朝の三時四時まで不可能に近かった。
 夜の銀座でお目にかかるとき、吉行さんは、たいがい、帝国ホテルに部屋をとっていた。執筆をしたりゲラを直したりして、ひと段落すると、夜は銀座に出向いたようだ。
 行きつけのバーでは、吉行さんのタクシーを早い時間から電話で確保するようにしていた。深夜近く、約束の時間にタクシーが迎えにやってくると、吉行さんは「だれか帰る人はいないかな」と、ほかの客に声をかける。もちろん、タクシーの勘定は吉行さん持ちだ。
 その夜は、向田邦子さんとぼくが手を上げた。
 吉行さんは一番先に降りるので、一番最後に乗り込むと、運転手に、
「近くて済まないんだれど、帝国ホテルでひとり下ろしてください。それから、向田さんは青山だったね。えっと宮田さんはまさか茨城の先だなんてことはないよね」
「江古田の近くですから」
「運転手さん、帝国ホテルから青山、最後は江古田だ」
 そうやって運転手に段取りを告げるころには、タクシーは帝国ホテルについてしまう。
 別れの挨拶をして、少し猫背の吉行さんの背中がホテルのドアの向こうに消えるのを見送ると、向田さんは、
「吉行さんの送り方ってこれだものね」
 と感に堪えたように言った。
 まったくその通りだ。粋としか言いようがない。
 稼ぎ時のタクシーの運転手にとって、銀座から帝国ホテルまでだったら、吉行さんはとても迷惑な客だ。しかし、そこから青山を回って、江古田の方にまで距離が伸びれば、とてもありがたい客になるし、時間的にタクシーを拾うことがほぼ絶望的な向田さんやぼくにとっても大そうありがたいことになる。
 吉行さんにとっても、あまり近距離だとタクシーの運転手に気兼ねをしなくてはならないが、その必要がなくなる。
 つまり、三方一両得の吉行流なのだ。
 吉行さんが、対談の名手として鳴らしたのは、こうした気配りのあり方が、対談相手の気持ちをほぐし、いい話を引き出すことになったからだろう。
 清純派として人気のあった鰐淵晴子さんが、衝撃的と言っていいくらいの変身を見せたことがある。突然、圧倒的なヌード写真を披露したのだから世間はびっくりした。
 ぼくは「小説現代」という小説雑誌の編集者だったころ、その鰐淵晴子さんとの対談を吉行さんにお願いした。吉行さんとは、迎えの車の中で、当日の対談の打ち合わせをすることになっていた。
 車に乗り込むや、吉行さんは、
「今日は対談のあと、銀座に出るのはよしましょう」
 と、言われた。
 ここのところ、体調は悪くなく、銀座に出ることが多かったので、今夜は自重したいということだった。
 「吉行さんのいない銀座なんて」とは、山口瞳さんの言だが、ぼくもせっかくなのに、とても残念だと思った。だが、体調に関係することだから、諦めるより仕方ない。
 それから、対談の話になったが、吉行さんはすでに鰐淵さんとは、ある週刊誌上で対談をしていた。そこでは鰐淵さんの大胆な変身振りを中心に話が進んだそうだ。だから、今度は、その後の変化などについてゆっくり話を聞こうということになった。
「その週刊誌の記者の人はね」
 と、その時のことを思い出すようにして吉行さんは言った。
「性的にそのカメラマンとぴったりあったので、大胆なヌードを引き受けたと信じ込んでいるんだよ」
「はあ」
「でね、その辺りのことをずばり訊いてくれというんだね」
「感心な記者ですね」
「まあね。話がその核心に近づいていくだろう。だけどやっぱり訊きにくいからね。なんとなく話がそこから外れていくんだ」
「でしょうね」
「そうするとね、その記者が後ろから突つくんだよ」
「ははは」
「三度だったかな、突つかれたのは」
「三度核心の近くまで行って、三度引き返したんですね」
「うん。で、今日の対談でそこにすんなり行くようなら、訊いてみるから、後ろから突くのだけは勘弁してくれよ」
 というような話をしながら、車は赤坂の対談会場に着いた。
 その日の対談も、残念ながら核心に行くことなかったけれど、実に楽しいものになった。
 それから、次の待ち合わせに行くという鰐淵さんと同乗して、六本木に向かった。溜池の方から坂を上って、六本木の交差点に近くなると、吉行さんはぼくに向かって、
「待ち合わせは反対の側だろう? 女優さんは目立つから、交差点で下ろして、向こう側に渡ってもらうのは酷だから、少し先の信号でUターンしてもらって、喫茶店の前で停めてもらおう」
と、提案された。
 うまくUターンして、車は喫茶店の前に停められた。鰐淵さんは大勢の人の目にさらされることなく、喫茶店に入っていけた。
 ぼくは、鰐淵さんが座っていた後ろの座席に移った。これから吉行さんのお宅の方に方向転換しなくてはならない。
 そのとき、吉行さんは言った。
「銀座の方に向いちゃったね」
「はい」
「行こうか、銀座」
 ぼくは、こういう吉行さんの子供のようなところが好きだ。
 車は銀座に向かって動き出していた。

 ときどき、吉行さんの気配りが空振りに終わることがある。ぼくは、そういうことがある吉行さんが、なおのこと好きなのだ。
 ある夜のこと、やはり銀座のバーで飲んでいたとき、アコーディオンとギターを抱えた、二人組みの流しがきたことがある。アコーディオンの方が、吉行さんにリクエストを訊いた。吉行さんは、カラオケとか流しとかあまり好きでなかったが、すげなく断るのは彼らの商売を邪魔するようだし、場の雰囲気を壊すのも嫌だしと思い、一曲頼もうとした。だが、すぐにはリクエストすべき歌が浮かんでこないらしい。
 ようやく吉行さんが思いついたのは北島三郎の名前だったとは、あとで聞いた。
 だが、流しから大スターに上り詰めた歌手の歌を、同じ流しの人間にリクエストするのは、あるいは彼らを馬鹿にしたことになるのではないかと吉行さんは忖度するあまり、窮地に陥ってしまった。
 そんな吉行さんを見ていたアコーディオンは屈託のない明るい声で、
「サブちゃんでもいきますか」
 と、言ったのである。
 そのときの、吉行さんの呆気に取られたような顔を、ぼくはずっと忘れることはできないだろう。

【執筆者プロフィール】

宮田 昭宏
Akihiro Miyata

国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギアマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。

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初出:P+D MAGAZINE(2022/11/04)

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