連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第1話 村上春樹『風の歌を聴け』

名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間では、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。一般読者には知られていない作品の裏側をお伝えする新連載です。その記念すべき第1回は村上春樹。彼は1979年、『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビューしましたが、実はその題名の誕生した背景には、知られざるエピソードがありました。

実は当初の題名は英語だった! 村上春樹が最後まで込めた強い思いとは

今も鮮明に蘇る『風の歌を聴け』題名誕生秘話

村上春樹のデビュー作として広く読まれている『風の歌を聴け』。その題名が、実は元々大きく違っていたことを、知っている人は少ないでしょう。

鼠、と呼ばれる登場人物について、文芸評論家の加藤典洋氏は、著書・『イエローページ 村上春樹』(1996年出版)の中で以下のように解釈しています。

“鼠はすでに死んでいて、主人公の「僕」が、現実世界と、鼠のいるいわば異界(幽霊世界)の間を往き来する、二つの世界をめぐる、『ひと夏の物語』なのである。”

大胆な解釈ではありますが、「鼠=幽霊説」の根拠を列挙した著書の脚注のうちのひとつに、
「小説の後日譚に、鼠が三十歳になったいまも小説を書き続けており、毎年クリスマス・イブ(僕の誕生日)に『ハッピー・バースデー/そして/ホワイト・クリスマス』と原稿一枚目に記した小説を送ってきてくれる」という話が出てきます。

実はこれこそが、デビューのきっかけとなった文学賞応募当初の作品名だったのです。

さらに村上春樹は、『風の歌を聴け』という題名で単行本となった時、まるで鼠の「遺志」を引き継ぐかのように、『ハッピー・バースデー/そして/ホワイト・クリスマス』というフレーズを英文のロゴにして、表紙カバーに入れています。

その経緯いきさつを、当時の担当編集者・宮田昭宏氏が詳らかに語ります。

担当編集者だけが知っている題名決定のエピソードが明らかに……!

 
 事実は、まあ、これに近いのだが、当事者だった私が、この辺りのことを、もう少し詳しく回想してみたい。
 1978年に、村上春樹さんは、第22回の「群像」新人賞に応募してくれた。私はそのとき、「群像」編集部の編集者で、その作品を読んで、新鮮な着想と文体とに、とても驚かされた。
 原稿用紙は、新人賞の応募原稿にしては、少し凝った感のある、たぶん満寿屋製のクリーム紙で、ルビ罫なし、罫線は赤身がかった色だったと記憶している。インクはウォーターマンのブルー・ブラックかフロリダ・ブルー、あるいはモンブランのロイヤル・ブルーなんかではなかったか、太めのペン先の万年筆を使って、角が少し丸まった感じの字で、最後まで、一字一字、丁寧に書かれていたのが印象的だった。
 手書きの応募原稿は、編集者に、作者の性格とか、その人の人生の断片とか、いろいろなメッセージを送ってくれるので、ぼくはワープロの原稿より好きだ。
 村上さんの原稿は、そのときから、もうはっきりと自己主張していたと思う。これで行くんだと宣言していたと思う。原稿用紙や筆記用具などの選択や丁寧に書かれた文字を見て、読む前からそんな決意が伝わってきた。それがぼくには印象深かった。
 読み終わってみて、すげえや!と思った。
 当時の若者たちが好んで読んだ、カート・ボネガットJr.などのアメリカ文学の影響はあるが、それを完全に自分のものにしていた。行間に独特のウィットと哀切が滲んでいる。ぼくは、新しい才能が登場したと思った。断然推しだ!
 ただ、原稿用紙の1枚目に書かれていた、『ハッピー・バースデー/そして/ホワイト・クリスマス』という題名には感心しなかった。
 その題名は、洒落たスタイルと内容の応募作品にとても合っているように見えるが、しかし、かえって全体を安っぽく見せているように感じたのだ。
 それに、発表するときに、どう表記したらいいのか戸惑うし、また、単行本にするときに、たとえば背表紙にどう入れたらいいのか困るだろし、変えてほしいと思った。
 私は最終候補になったことを告げてから、千駄ヶ谷の、村上さんがやっていたジャス・バー「ピーター・キャット」の近くの喫茶店で、題名を変えてほしいと頼んだ。
 それを聞いた村上さんは、少し黙ったままだった。
 しばらく間をおいて、村上さんは、改題することに同意してくれた。私には、半分くらいは不承不承なのだという感じがした。だけど、新人賞に応募して最終選考に残ったばかりの、新人作家というにはちょっと前の村上さんが、編集者に題名を変えてくれと言われて、抵抗出来ないと思ったのだろう、とにかく、私は、ほっとした。
 村上さんが考えた新しい題名『風の歌を聴け』を、いつ、どうやってもらったのか記憶にない。
 選考委員の選評では、すでに『風の歌を聴け』となっているので、最終候補としてゲラになる過程のどこかで、新しい題名をもらったのは確かだ。
 私は、前のより、ずっといい題名だと思った。
 選考委員の佐多稲子さんは、選評の中で、「ここで聴いた風の音はたのしかった」と書かれている。この一行は私にはとてもうれしい一行だ。いまでも、『風の歌を聴け』という言葉を目にしたり、聞いたりするたびに、私の耳にどこからか風の音が響いてくる気がする。
 余談だが、この題名は、英語では、「Hear the Wind Sing」と訳されている。
 ところで、この『風の歌を聴け』は新人賞を受賞し、話題になり、すぐに単行本として刊行された。その頃、雑誌の編集者は、あるいは私だけのことだったかもしれないが、自分が雑誌で担当した作品がどんな単行本になるのか関心が薄かったと思う。私の興味は、村上さんの次の作品『1973年のピンボール』の方にすでに移っていた。
 だから、佐々木マキさんの装画の単行本を手にしたときも、第一印象、「ふーん。おしゃれなカバーになったな」と思っただけだ。
 波止場の係留フックに腰掛けた若者の後ろ姿(左手に火のついた煙草を持っているのが時代を表している)。遠くの岸のビルの灯りが水に映え、灯台に明かりが灯っているのを見ると、夜なのだろうか、それにしては明るい空に土星が浮かび、港全体は昼のように明るい。不思議な印象の装画だった。
 そのカバーを見ているうちに、上の方に、アルファベットが並んでいるのに気がついた。
 よく見ると、描き文字的な感じで,
BIRTHDAY AND WHITE CHRISTMAS
 と読めた。


https://www.amazon.co.jp/dp/4062748703

 うひゃ。はじめは正直そう思った。
 村上春樹さんが題名を変えてほしいと言われたときのこだわりを、ここで晴らしているんだと思ったのだ。
 だけれど、その英字のロゴを見ているうちに、自然と笑いが浮かんできた。
 そして、
「こだわっているんですね、村上さん。でも、『風の歌を聴け』はこれからデビューしていく小説家の処女作のタイトルとしては素晴らしいものです、私はそう信じていますよ」
 と口には出さないけれど、そう呟いていた。
 「イエローページ」の脚注に書かれているくだりを、村上さんは、正確には以下のように書いている。

“「鼠はまだ小説を書き続けている。彼はそのいくつかのコピーを毎年クリスマスに送ってくれる。昨年のは精神病院の食堂に勤めるコックの話で、一昨年のは『カラマーゾフの兄弟』を下敷きにしたコミック・バンドの話だった。あい変わらず彼の小説にはセックス・シーンはなく、登場人物は誰一人死なない。
 原稿用紙の一枚目にはいつも、

『ハッピー・バースデイ、
  そして
 ホワイト・クリスマス。」

と書かれている。僕の誕生日が12月24日だからだ。」”

 思うに、村上春樹さんは、応募原稿を清書するときに、原稿用紙や筆記用具の選択から、すべてに神経を配り、そして、鼠がしたのと同じように、原稿用紙の一枚目に、

『ハッピー・バースデイ、
  そして
 ホワイト・クリスマス。」

 と書き、応募者の名前として自分の名前を添えたのに違いない。
 さらに、小説の後日談の中で、もう一度、同じ言葉を使って、周到に小説の円環を閉じようとしたのだ。
 それが、村上さんが、カバーの絵に BIRTHDAY AND WHITE CHRISTMASと書き入れずにいられなかったことの理由だと思う。
 それでも、私は、村上さんに変えてもらうように提案して、『風の歌を聴け』という題名になってよかったといまでも思っている。
 そして、この題名の作品でデビューした村上春樹さんと、同時代をずっと生きてこられたことは、私の大いなるよろこびなのである。

【執筆者プロフィール】

宮田 昭宏
Akihiro Miyata

国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギアマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。

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初出:P+D MAGAZINE(2022/09/21)

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