採れたて本!【歴史・時代小説#10】
近年の谷津矢車は、『北斗の邦へ翔べ』『ええじゃないか』など幕末維新ものを意欲的に発表している。薩摩藩士の伊地知正治を主人公にした『ぼっけもん』も、この系譜に属している。
物語は、困窮する人たちを救うため故郷の鹿児島県で養蚕などの事業を始めた正治が、弟子たちに戊辰戦争を語ることで進む。そのため、明治十五年と幕末の状況が交互に描かれることになる。
幼い頃に病気で左目の視力と左足の自由を失った伊地知は、薩摩の軍学・合伝流に活路を見出し、十四の頃には藩主への御前講義を拝命するまでになった。
やがて戊辰戦争が勃発する。鳥羽・伏見の戦いを勝利に導いた伊地知は、江戸を攻めて幕府軍を一網打尽にしたかったが、西郷隆盛による江戸城無血開城で徹底交戦を主張する伝習隊、新選組などの逃亡を許した。そのため伊地知は、宇都宮、白河、会津若松を転戦する。
新式銃を装備した兵を密集させ火力を集中し、進軍と攻撃の速度を重視する伊地知は、寡兵で大軍を打ち破っていく。それだけに大軍がぶつかるスペクタクルもあれば、会津若松城から狙う凄腕スナイパー(後に意外な正体が明かされる)と道案内だったが射撃の腕を認められた少年・伍助との息詰まる狙撃戦もあるなど、サスペンス溢れる展開が連続する。
伊地知は装備が新しく練度も高い薩摩兵を優先して使うが、官軍なので他藩の兵も使うべきだとの主張も出る。ここには、合併して巨大化した日本企業が、旧所属会社に配慮しながら役員数や人事を決める不合理を思わせるものがあった。
伊地知は自身が戦った北関東、東北で現地の農民が困窮している現実を目にする。明治政府で出世した伊地知は、この状況を打開しようと何度も建白書を出すが、かつての同志で内務卿の大久保利道は、財政難などを理由に許可しない。
倒幕と新政府樹立に尽力したのに特権を奪われた武士は不満を抱き、士族の反乱が続く。そして明治六年の政変で下野した西郷が、私学校の生徒と蜂起した。
徴兵制と新式武器の採用、留学で学んだ軍人が教える最新の軍学により、合伝流が時代遅れになったと突き付けられる伊地知の悲哀に、我が身を重ねる中高年は少なくないだろう。ただ伊地知は、西郷が困っている人を掬い上げる大船を造ろうとしていたと知り、若手を育て国を変える種を蒔くことに尽力していく。
現代の日本が、困っている人に手を差し伸べず、先人の知恵や経験を軽視しているように思えるだけに、合伝流の極意を信じ、大久保とは違う国を造ろうとした伊地知には、学ぶことも少なくない。
『ぼっけもん 最後の軍師 伊地知正治』
谷津矢車
幻冬舍
〈「STORY BOX」2023年9月号掲載〉