週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.87 未来屋書店石巻店 恵比志奈緒さん

目利き書店員のブックガイド 今週の担当 未来屋書店石巻店 恵比志奈緒さん

『荒地の家族』書影

『荒地の家族』
佐藤厚志
新潮社

 傘を持たずに来た愚かさを呪いながら、上着のフードを被り、国道を渡る。
 間引きされたように空き地の多い住宅地の間を抜け、かつて通った本屋の跡地に新たに鉄骨が組まれているのを横目に、波打った歩道を急ぐ。口元はマスクの覆いがあるものの目元に吹き付ける雨は細く冷たかった。降ると分かっていた雨だというのに。
 しばし歩いても雨脚は弱まらず、端の欠けた縁石も側溝のひび割れたコンクリートも雨を含んで濃灰色に塗り変わっていき、街路樹や家々の庭木のない風景はいっそう寒々しく見えた。
 冬の雨の日には、決まって一つの空想が浮かんだ。町そのものが、かつて自らを飲み込んだ冬の濁流の記憶を蘇らせている——町が急拵えの海底に成り代わったあの日、建物が、木々が、道路が、そして多くの生命が剥ぎ取られた、あの災厄の記憶を思い出しているのだと。

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 仙台市に生まれ育った作家が、震災を主題に据えた作品を書き、芥川賞を受賞した。
「荒地の家族」は、宮城県南部に位置する亘理町という土地を舞台に、東日本大震災の後を生きる人々を描いたフィクションだ。造園業を営む主人公は、震災ののちも度重なる喪失に見舞われた。流行性感冒で亡くなった妻。流産を経て突然出て行った後妻。自分の前で笑わなくなった小学生の息子。家族と向き合う事から逃げるように働き続けてきた自身への後悔はあるが、しかし生きる手立てとして、さほど好きではない仕事を黙々と続けている。
 物語の中盤から、疎遠になってしまった幼馴染の男との再会が描かれる。男は塞ぎ込んだ雰囲気を纏う無愛想な人物で、別れた妻と子を津波で亡くしており、職を転々とするうち体調を崩して亘理町の実家に戻ったという。男と主人公との直接的な関わりは多くは描かれないのだが、男のとある選択が物語の終盤に強い衝撃をもたらす。
 凪いだ文体で、家族や周囲の人々との日常的な関わりや喪った者への追想が淡々と紡がれる中、不意に地続きで震災の記憶が立ち現れる様は、私にも覚えがあった。耐え忍び、ようやく手にした平穏のそこかしこに、震災がある。あり続ける。私たちは今も災厄の内側にいるのだ。

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 並ぶ木製の棺。
 壁一面の写真。
 苦悶のポートレイト。
 褪せた黄色の花。散る花弁。
 死者に手向ける花とは、いったい誰の為の物なのだろうかと、ふと思う。救えなかった事を詫びる為か。あるいはあなたの肉体を焼いてしまう事への罪の意識がそうさせるのか。
 強靭な波が抉り取っていった私の一部分は光の無い海底に埋まり、二度と戻ることはない。心の奥に口を開けた音の無い暗がりの底で、青白い弔いの火が揺れている。

 

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