◎編集者コラム◎ 『ヒロシマ・ボーイ』著/平原直美 訳/芹澤 恵

◎編集者コラム◎

ヒロシマ・ボーイ』著/平原直美 訳/芹澤 恵


《関西国際空港に降り立ったマス・アライは、税関をまえに不安に駆られていた。スーツケースにしのばせてきた親友のハルオ・ムカイの遺灰を見とがめられやしないだろうか。ハルオの遺灰は、さんざん使ってくたびれかけたビニール袋に入れて口を園芸用の緑の紐でくくったうえに、マスの履きふるした靴下に詰め込んであった》

 親友の遺灰をボロ靴下にとは、なにやら物騒な関空の場面から始まる『ヒロシマ・ボーイ』は、日系アメリカ人作家ナオミ・ヒラハラ、もとい平原直美の人気シリーズ「庭師マス・アライの事件簿」第7作にして最終作。カリフォルニアに暮らす日系二世の庭師マスが活躍するコージーミステリ・シリーズで、第2作『ガサガサ・ガール』、第3作『スネークスキン三味線』はどちらも13年前に小学館文庫から邦訳出版しています。第3作はアメリカ探偵作家クラブ賞(MWA)を日系人作家として初受賞、大きな話題になりましたが、その後は残念ながら諸般の事情で続編を日本の読者にご紹介することが出来ませんでした。

 が、エドガー賞最終候補作にして、シリーズで初めて日本を舞台にした『ヒロシマ・ボーイ』の邦訳出版がこのたびやっと叶いました! 前作を未読の方でも充分に楽しめるスタンドアロン作品ですので、どうか気軽に手に取って読んでみてください。

 本作から著者の希望で名前を漢字表記にしたことからもわかるように、この日本での出版は平原さんにとって特別なこと。マスは彼女のお父さんがモデルで、物語の舞台・広島は今も親族が暮らす、彼女自身の「ルーツ」でもあるからです。

 主人公マスはアメリカ生まれ、現在86歳。少年期を広島で過ごし戦後に帰米、以来、結婚相手を見つけるために一度広島を訪れたのを最後に、ずっとカリフォルニアで暮らしてきました。

 複雑なアイデンティティを持ち一筋縄ではいかないマス。その心理描写は、冒頭から秀逸です。50年ぶりの日本に目を白黒させ、ぼやいたりおろおろしたり、「みどりの窓口」と聞いて頭の中が「?」だらけになったり、駅弁の美しさに感動したり。それでもあくまで平静を装って関空から広島へ向かう姿は、まるで某缶コーヒーCMの宇宙人ジョーンズのよう。いきなり不安しかない珍道中の予感に、読み手の心もがっちり摑まれてしまいます。

 マスが向かったのは、ハルオの遺族が暮らす瀬戸内海のイノ島(実在の「似島」がモデル)。適任者がいないということでしぶしぶ遺灰を届けに来日したマスは、「メンドクサイ」(マスの口癖です)ので渡すものだけ渡してさっさと帰国するつもりでした。ところが到着の翌日、彼はある事件の第一発見者に――。

 あらすじはこれくらいにして、今作の読みどころを3つ、ご紹介しましょう。

 ひとつは前述したマスのキャラクター。頑固で見栄っ張りで、どこか自由人で、情に厚く、筋を通す爺さん。一方で戦時中の辛い記憶――「敵国人」として日本に暮らす恐怖や、広島駅での被爆体験――を抱える彼が50年ぶりの広島で何を感じるのか。その描写には誰もが惹き込まれるのではないでしょうか。

 2つめは、アメリカ人の著者による生き生きとした広島の情景描写。著者は執筆前に似島にも滞在し綿密な取材をしたそうで、細部にわたるリアリティに驚かされます。

 3つめは翻訳の芹澤恵さん渾身の、広島弁の会話文。実は芹澤さんも私も非広島人。これはネイティブの力を借りるしかないと判断し、周囲の広島在住・出身の方々の協力の下、「翻訳小説史上、ここまで方言にこだわった作品はなかった!」と断言できるほど会心の出来となりました。

 本作の発売日は8月6日。作中では、まさに8月6日の広島も描かれます。これまであまり語られることのなかった「帰米二世」の目を通した広島の街に触れ、改めて76年前のあの日に思いを馳せて頂ければ幸いです。

──『ヒロシマ・ボーイ』担当者より

ヒロシマ・ボーイ

『ヒロシマ・ボーイ』
著/平原直美
訳/芹沢 恵

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