歴史とともに振り返る!作家の愛した「有名書店」たち。

私たち読者にとって身近な存在である「書店」は、文学者にとってもなくてはならない存在。書店と作家をめぐる古今東西のエピソードから見えてくるのは、書店が「文学」という領域で果たした重要な役割でした。

普段、私たちが本を買うために訪れる書店。その書店にずらっと並ぶ小説を表した作家たちも、私たちと同様に、足繁く書店に通いつめる1人の読者でもあります。

書店では、作家のサイン会やトークイベントが開かれているほか、作家本人の選書が本棚に並ぶなどのコラボレーション企画が多数開催されているもの。時代や地域を問わず、書店は作家と密接な関係を築いているのです。

今回はそんな作家とゆかりのある古今東西の有名書店について、歴史的なエピソードを踏まえつつご紹介します。

 

「檸檬」で知られる丸善は、知識人たちに愛される場所だった。

大手書店の1つ、「丸善」が梶井基次郎の「檸檬」に登場するのをご存知の方も多くいるのではないでしょうか。この作品では語り手の「私」が、丸善に爆弾に見立てた檸檬を置いて立ち去る様子が描かれています。

丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉こっぱみじんだろう」

「檸檬」より

「檸檬」に登場する丸善河原町店は、京都の三条通りにあった初代の店舗でしたが、移転した2代目の店舗が閉店する際、そして2015年に新たに店舗が復活した際にも檸檬を置いていく人が後を絶たなかったと言われています。

明治2年に創業した丸善は「西洋文化、文物の導入」を目的としており、洋書をはじめ、万年筆やタイプライターなど西洋のすすんだ商品を広めていました。西洋文化や学術の普及に大きな貢献を果たしていた丸善は、知識人たちから愛されていたのです。また、原稿用紙や万年筆、インクなど丸善の商品を愛用している作家もおり、創作活動において丸善はなくてはならない存在でもありました。

芥川龍之介は「丸善の二階」と題する短歌で「しぐれふる町をかそけみここにして海彼かいひの本をめでにけるかも」と歌い、晩年の代表作である「歯車」の作中でも登場させるなど愛着を示しています。

僕は丸善の二階の書棚にストリントベルグの「伝説」を見つけ、二三頁づつ目を通した。それは僕の経験と大差のないことを書いたものだつた。
(中略)
日の暮に近い丸善の二階には僕の外に客もないらしかつた。僕は電燈の光の中に書棚の間をさまよつて行つた。

「歯車」より

宮沢賢治も、書物をしばしば丸善から取り寄せるなど、丸善との関係が深かった人物。『銀河鉄道の夜』や「春と修羅」は丸善の原稿用紙で執筆していたといいます。しかし、「丸善階上喫煙室小景」という詩で賢治は、物質文明、機械文明に振り回される人間の生き方を、丸善の描写を通じて痛烈に批判しています。

最先端の文化が集まる丸善は、西洋的な教養の発信拠点として作家の心を掴んで離さなかった一方、〈近代〉の否定的な面を映し出してもいたのです。

 

 

藤沢桓夫、織田作之助を支えた波屋書房。

食い倒れの町、大阪の千日前南海通りには、「料理」に関連する本が店の半分以上を占める書店、波屋書房があります。

波屋書房の店主であった宇崎祥二は、「大阪の竹久夢二」と呼ばれた画家、宇崎純一の実弟。祥二は、大阪を舞台とした小説を数多く残した藤沢桓夫が中心となった同人雑誌、「辻馬車」に発行資金の援助をしただけでなく、その発行元になるなど協力を惜しみませんでした。この「辻馬車」をきっかけに藤沢は川端康成や横光利一に認められ、東京の文壇でも名前を知られていくようになります。

藤沢は、同じく大阪を舞台とした作品で知られる織田作之助と交友関係にありました。織田が亡くなった際には「せめてもう十年いきていたら、もっともっと大きな作家となり、もっともっと優れた作品をたくさん書いただろうという気がするのである」とその死を惜しんでいます。そして藤沢は織田の葬儀委員長を務めたほか、1983年に大阪文学振興会が創設した文学賞の名前に「織田作之助賞」を推すなど、織田を高く評価していたことがうかがえます。

織田自身も終戦直後の大阪を題材にしたエッセイ、「神経」で波屋書房の二代目主人、辻本参治氏との交友を描いています。

大阪劇場の前まで来ると、名前を呼ばれた。振り向くと、「波屋」のさんちゃんだった。「波屋」は千日前と難波を通ずる南海通りの漫才小屋の向いにある本屋で、私は中学生の頃から「波屋」で本を買うていて、参ちゃんとは古い馴染だった。
(中略)
私は参ちゃんの顔を見るなり、罹災の見舞よりも先に、
「あんたとこが焼けたので、もう雑誌が買えなくなったよ」
と言うと、参ちゃんは口をとがらせて、
「そんなことおますかいな。今に見てとくなはれ。また本屋の店を出しまっさかい、うちで買うとくなはれ。わては一生本屋をやめしめへんぜ」
と、言った。
「どこでやるの」
と、きくと、参ちゃんは判ってまっしゃないかと言わんばかしに、
「南でやりま。南でやりま」
と、即座に答えた。

「神経」より

しかし、そんな織田は、店舗が焼けても再び営業しようとする波屋書房を、「週刊朝日」に寄稿した「起ち上がる大阪」という随筆の中で礼賛したものの、その表現について「文章を書く人間の陥り易い誇張だった」と激しい自己嫌悪に陥ります。

無理矢理に大阪の明るい面だけを取り上げ、喪失した部分は見て見ぬ振りをした美談を書いてしまったことについて落ち込む織田に対し、参治氏は「おかげさんでやっと帰れました。二度も書いてくれはりましたさかい、頑張らないかん思て、戦争が終ってすぐ建築に掛って、やっと去年の暮れここイ帰って来ましてん」(「神経」)と嬉しそうに言うのでした。

「辻馬車」の発行時には資金を援助する、自身の書いた文章に落ち込む織田を励ますなど、波屋書房は作家を支える書店だと感じさせるエピソードを数多く残した書店です。

▶過去記事:【東京弁とはちゃうねんで?】関西弁と小説の関係をさぐる。

 

読書家の聖地、シェイクスピア・アンド・カンパニー書店。

世界中の読書好きが集うパリの書店、シェイクスピア・アンド・カンパニー書店もまた、作家とのつながりを持つ特別な書店です。

パリに住むアメリカ人作家を支援するため、ニュージャージー州より移住してきたアメリカ人女性のシルヴィア・ビーチによって、このシェイクスピア・アンド・カンパニー書店は開かれました。本の販売のみならず、豊富な蔵書から本を貸し出すサービスも行っていたこの場所に集まっていたのは、ヘミングウェイやフィッツジェラルド、ガードルード・スタインといった「失われた世代」の作家たち。彼らにとってこの書店は、文学サロンとして機能した場所でもありました。

▶過去記事:アメリカの「失われた世代」を知るための6冊

ほぼ一世紀にわたって、シェイクスピア・アンド・カンパニーという名の英語書籍の店は、芸術家、作家など、パリに暮らす勝手気ままな人間たちの安息所として機能してきた。
(中略)
この奇妙な隠れ家のような書店は、パリに滞在していたある世代の英米人作家のたまり場となった。F・スコット・フィツジェラルドやガードルード・スタイン、エズラ・パウンドなどの作家たちがここに集まって本を借り、文学について論じあい、店の奥の応接室で熱いお茶を飲んだ。

ジェレミー・マーサ著 「シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々」より

シェイクスピア・アンド・カンパニー書店は出版についても大きな貢献を果たしています。ビーチは、猥褻表現が問題視され、一時は出版化が危ぶまれたジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』のために出版資金を調達し、刊行を引き受けています。この書店が無ければ、近代文学の金字塔として歴史にその名を輝かせる『ユリシーズ』は闇に葬られたままだったのです。

そんなシェイクスピア・アンド・カンパニー書店でしたが、1941年の枢軸国によるパリ占領の際に閉店を余儀なくされました。その3年後、ヘミングウェイが米軍部隊とともにこの店を解放しましたが、ビーチが引退を選んだため、営業が再開されることはもうありませんでした。

この出来事からシェイクスピア・アンド・カンパニー書店は終わったかのように思われましたが、その10年後、すぐ近くに似たような書店がオープンしました。やがてこの店はビーチの死に際し、シェイクスピア・アンド・カンパニーの名を継ぎます。初代のシェイクスピア・アンド・カンパニー書店に失われた世代の作家たちが集ったように、2代目の店舗にはアレン・ギンズバーグやウィリアム・バロウズといったビート・ジェネレーション(※)の作家たちが集いました。書店としてだけでなく、作家たちの集まる場所としてもビーチの意思を受け継いだのです。

(※)「ビート・ジェネレーション」……1955~1964年頃にかけて、アメリカの文学界で旧態依然とした社会に反発する態度から注目を集めたグループ。ビートニクと呼ばれることもある。

店舗が2代目となってからは店を手伝う、自分の人生と店に来るまでの経緯をまとめた自伝を提出する、1日に1冊読書をするといった簡単な条件を満たせば無償で宿泊ができるようにもなりました。シェイクスピア・アンド・カンパニー書店は今もなお、仕事と生活場所を提供するというユニークな形で未来の作家たちを支援しています。

 

江戸川乱歩が経営していた古本屋、三人書房。

bookstore

これまで作家と書店のエピソードをご紹介してきましたが、作家本人が書店を経営していた例もあります。江戸川乱歩は作家になる数年前、文京区にある団子坂の通りで弟2人と古本屋をはじめました。

東京に出て、二人の弟と一緒に、わずか千円の資本で団子坂の通りに「三人書房」という古本屋を開いた。
この時の経験が、のちの小説「D坂の殺人事件」に関係がある。

「私の履歴書」より

乱歩自身が語っているように、明智小五郎が初登場を飾る作品、「D坂の殺人事件」は「三人書房」の開業経験をもとに執筆されました。この作品はD坂にある古本屋で起きた密室殺人事件がテーマとなった推理小説ですが、事件解決のヒントに繋がる店構えや近隣の様子は、「三人書房」を経営していたことを念頭に置いて書いていたとも述べています。

「D坂」の背景は、団子坂で自営した古本屋の店構えや近所の様子を念頭に置いて書いた。但し私の古本屋には美人の細君などはいなかった。二階には探偵好きの井上勝喜君と私、下には私の弟が二人、殺風景な男所帯であった。

「探偵小説四十年」より

「D坂」事件現場の間取りや立地についての描写がリアルなのは、「三人書房」を経営していた経験が活かされているからに他なりません。資金面の問題からわずか数年で店じまいとなりましたが、人気キャラクターの明智小五郎が生み出された作品の構想になったという点で、歴史にその名を残した書店と言えるのではないでしょうか。

 

あの谷崎が店名を決めた「春琴堂書店」

京都市左京区にある「春琴堂書店」は、その店名からも分かる通り、谷崎潤一郎ゆかりの書店です。一時は閉店を検討したものの、2014年に改装工事を終えた後、営業を再開しています。

この頃久保一枝が、夫とともに、京大脇の吉田牛ノ宮に、古書店「春琴書店」を始めた。後に春琴堂書店として新刊書店になり、谷崎は死ぬまで、新刊書をこの書店に注文していた。

小谷野敦著 「谷崎潤一郎伝 堂々たる人生」より

春琴堂書店を開いたのは、戦中から戦後にかけて谷崎の家で働いていた久保一枝さんと、その夫の2人。久保さんは『細雪』の「お春どん」、『台所太平記』の「はる」のモデルでもあります。いずれもユニークな一面を持ちながら、仕事はきっちりとこなすお手伝いさんというキャラクターです。

このご夫婦が書店をはじめる時、谷崎は店名を「春琴抄」にちなんで「春琴堂書店」と名付けています。店内には谷崎直筆の店名の額が飾られているほか、谷崎の著作が常に揃えられているなど、まさに谷崎ゆかりの書店なのです。

 

おわりに

インターネット書店や電子書籍の登場により、実店舗を構える書店は大小の規模を問わず減少傾向にあると言われています。しかし、作家にとって書店とは、最先端の文化を吸収できる場所であり、その活動を支えてくれる場所であり、アイデアを生む場所でもあるという、まさに特別な空間だったのです。

また、最近では、カフェと書店、イベントスペースと書店、旅行代理店と書店など、様々な業態とのコラボも見られます。世の中のニーズの多様化に合わせ、書店の形態も変化し、魅力ある空間に生まれ変わっているのです。

文学史の裏に、「書店」の存在あり。皆さんも、これからはお気に入りの作家が贔屓にしている書店について掘り下げてみてはいかがでしょうか?

初出:P+D MAGAZINE(2016/07/22)

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