ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第9回
キャラクター作りの極意は、
「シルエットでも何のキャラかわかる」ことだ。
「巻きグソ」などはその代表だろう。
「シルエットでも何のキャラかわかる」ことだ。
「巻きグソ」などはその代表だろう。
だが、他人のキャラを描くたびに「他人の覚悟」を感じる。
連載漫画のキャラクターと言うのは、一度描いたら、ずっとそのキャラを描き続けることを意味する。
それを考えると、出来るだけ描く手間がないキャラにしたい、少なくとも服にフリルはつけないでおこう、と思ってしまうものだ。
だがそれでは主人公が何の特徴もない、モブ田モブ太郎氏になってしまうし、「フリルを描きたくないから中世ヨーロッパの話はやめよう」と漫画の内容まで引きずられてしまうことすらある。
よって複雑なデザインの漫画のキャラを見ると「すごい覚悟だ」と思わざるを得ない。
正直私はその覚悟があんまりない方だ、例え凝ったキャラを作っても「ノートの1ページ目だけキレイなヤツ」と同じように、回が進むごとにどんどんパーツが減って行ったりする。
しかし松本大洋御大も、映画化もアニメ化もされた「ピンポン」を始める時、最初はサッカー漫画を打診されたが「とても11人も描けねえ」という理由で卓球漫画にしたそうだ。
このように、大御所ですら「面倒くせえ」と感じるのが漫画を描くと言うことなのである。
だがドラゴンボールは言うまでもなく、ピンポンのキャラクターも立ちに立ちまくっている。
昔少女漫画の先生に「少女漫画はキャラの線が細いので、背景は書き込み過ぎないほうがいい」と聞いたことがある。
漫画というのは力の入れ所が大事であり、例え背景は爆破しても、立たせるところを立たせていれば、ちゃんと面白いのである。
私は、立たせるところまで爆破しているから、このありさまなのだろう。
(つづく)