ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第9回
「シルエットでも何のキャラかわかる」ことだ。
「巻きグソ」などはその代表だろう。
だが、もちろんお他人様のキャラクターを描くのが全く楽しくなくなったわけではなく、少なくとも自分のキャラよりは楽しい。
どのキャラも「さすが他人が考えただけある」という感じで魅力的であり、少なくとも1コマ目まではすごく楽しい。
だが、2コマ目から、自分のキャラを描くより楽しくなくなってしまうことがある。
何故なら、お他人様の作ったキャラは「ちゃんとしている」のだ。
キャラクター作りの極意に「シルエットでも何のキャラかわかるようにしよう」というのがある。
「巻きグソ」などその代表だろう、あれはシルエットだけで確実に「ウンコ」だとわかるようになっている。
「ウンコ」ほど完成されたキャラを作れというのは酷だが、特徴的な顔立ち、髪型、衣装などはキャラクター作りに不可欠な要素だ。
そのようなキャラは、私のように「描く顔が全部同じ」な作家が描いても、その特徴さえ描いてあれば「あのキャラだ」とわかってもらえるのである。さすが他人の考えたキャラといった感じだ。
だが逆に言えば「その特徴をちゃんと描かないと何のキャラかわかってもらえない」のだ。
特に私の場合「顔が全部同じ」なので、髪型や衣装で誰かわからせるしかない、そうしないと、ゲームアンソロジーに見たことないオリキャラが載っているという事態になる。
そんな特徴的、つまり「凝った」デザインをしているキャラを何回も描くのは、自分の描く何の特徴もないキャラを描く2億倍時間がかかるし疲れる。
もはや1回描けば十分であり、鳥山明御大が「背景を描くのが面倒」という理由で、すぐ荒野に移動するか、街を爆破して更地にしたのと同じように、2コマ目から「さて風呂にでも入るか」とキャラを全裸にしたくなる。
非公式二次創作ではそれが可能であり、むしろ原作では1度も出したことがない局部まで出したり、それを使って他のキャラとプロレスをするところまで描けるのだが、公式仕事の場合は、まずメーカーチェックを通らない。
自分のキャラなら「イメチェンです」と言って、前回までファイナルファンタジーのようにベルトだらけの服を着ていたキャラをパンイチにしても良いが、他人のキャラでそれはできないのだ。
他人のキャラで仕事をさせてもらうというのは「他人の描いた通りに描く」ということなのである。