【倉橋由美子の衝撃作『夢の浮橋』復刊記念】大好評だった人気イベントを完全再現! 知的で官能的な桂子さんの世界を、美しい朗読と奥深い解説で味わい尽くす!

P+D BOOKSから倉橋由美子の後期を代表する「桂子さんシリーズ」の第1作『夢の浮橋』が刊行されたのを記念して、2017年9月22日、東京・新宿の紀伊國屋書店本店イベントスペースにおいて、「永遠の倉橋由美子 vol.1」と題し、トークと作品朗読のイベントが開催されました。翻訳家で、明治大学で「倉橋由美子」について講義をおこなっている古屋美登里氏の、大学の授業さながらの熱のこもった解説と、これまでにもたびたび倉橋作品を手がけてきた俳優の村岡希美氏による朗読。目で読むばかりでなく、耳で聞いても美しい倉橋文学を堪能する贅沢なひとときとなりました。

【朗読1】三月初めの嵯峨野は地の底まで冷えこんで木には花もなかった。(「嵯峨野」より)

古屋 この『夢の浮橋』は、藤原定家の「春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるゝよこ雲のそら」から取られたといわれています。この「三月初めの嵯峨野は」から始まるこの文は、「地の底まで冷えこんで木には花もなかった」。「も」ということは、ないものが二つか三つかあるはずですよね。で、花のほかに何がないのかというと、ここでは紅葉であろうと。どうしてかというと、この定家の歌ですね。「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」から取られていると考えられます。そして「嵐山」っていうことばが出てきますね。この嵐山は昔からたくさんの人が詠んでいますけれども、白河院の「大井川ふるき流れをたづねきて嵐の山のもみぢをぞ見る」からも紅葉が有名だったことがわかります。こういう紅葉、花を冒頭部分に持ってくることによって、小説のずっと後になって紅葉と花がさらに効果的に現れてくるんですね。そして私がこの小説で一番おもしろいなと思ったのは、三行目に「桂子の前に立ちふさがっていた」っていう、何か二人の、耕一さんと桂子さんの将来が、それほどうまくいくふうではないなって思う大きなきっかけです。ここは本当に倉橋らしい、ことば、そしてイメージ、豊かな自然。そして『古今和歌集』、あるいは『後拾遺和歌集』の中から取られている作品が後ろにあることがわかります。

【朗読2】自分が何かをしているとき、その自分を見張っている自分というものを感じる癖が桂子にはあって……(「嵯峨野」より)

古屋 ここは桂子という人間のありかたを出していると思うんですけど、霊魂だけになって、魂だけになって、現実ではない場所を漂っているような、夢心地になった。そういうふうに精神を飛ばしてみたり、季節外れの蝶のようにふわふわと舞っていたりする。このまま『酔郷譚』にまでつながってくる大きなテーマがここにあると思います。この本って実はあらゆるところに、この後の小説の手がかりがたくさん残されているんです。『夢の浮橋』を書いたのは1970年代ですから、そんなつもりで書いたはずはない。だけれども、倉橋由美子が亡くなった今これを読むと、こんなにたくさんの手がかりがそのあとの小説のために残されていたのかとびっくりするくらいです。『夢の通い路』という短編集では、桂子さんは現実から全然違う世界へと行くんですね。過去とかではなくて、物語の世界に入っていってしまうっていう、とんでもないことを考えて、そしてその物語の世界の人たちと交流する。『ワンス・アポン・ア・タイム』っていうアメリカのテレビドラマ(2011年制作)があるんですけど、あれは物語の世界の人間が、現実の方に入ってきてしまうっていう話です。それよりもはるか昔に倉橋は、こちらの人間が物語の世界に入っていって、そこの主人公や人々と肉体的な交流を持つということもしているわけです。

【朗読3】今年は花が遅いといわれていた。(「花曇り」より)

古屋 この5行を読んで、「ああ、ここには坂口安吾の世界が広がっているなあ」とか、「ああ、梶井基次郎だな」とかっていうふうに思ってくださればもう大成功なんです。倉橋の意図したものは伝わってくるわけですね。「花ばかりの木の下を通るのはうす気味が悪い」っていう表現ですとか、「桂子は狂って鬼に変じそうであった」とか。ここはもう本当に、坂口安吾の『桜の森の満開の下』の最後に女が首を集めて転がして喜ぶ世界があって、狂女と首がセットなんですけど、このセットが倉橋さんにドンピシャだったんだなって思いますね。ここには坂口安吾の世界、そして「桜の樹の下には死体が埋まっている」っていった梶井基次郎の世界、それが全部、この「花曇り」という章の中に入っています。「花」というのは桜ですから、ここは桜についてのイメージがずっと書かれています。鬼が出てきますよね。坂口安吾の『桜の森の満開の下』のイメージを拾って。ちょっと先に行くと、「鬼どもが活躍する紅葉狩」ということばが出てくる。『紅葉狩』っていうのは、歌舞伎もそうですし、お能もありますよね。そういう鬼のイメージから倉橋が遊んでいるんですね。「春」というイメージ、「花」というイメージ。第一章の「嵯峨野」には花もなかったんですけれども、ここで初めて花というものが咲いているイメージが、わーっと出てくるわけですね。

【朗読4】ひょっとすると耕一の結婚の決意は自分とではなくほかの女とのことかもしれない……(「花曇り」より)

古屋 桂子さんの人柄がすごくよくわかるっていうか、際立っていると思うんです。「内臓をすっかり抜きとられた」っていうのは、倉橋由美子が尊敬していた、評論家であり、小説家でもあった吉田健一(1912―1977)が亡くなったときの、倉橋の追悼文がこれでした。「それは内臓をすっかり抜きとられるようなことだった」。この追悼文を読んだときに、私は「あっ」と思いましたね。つまり、そのように衝撃的なことだったんだなと。
今読んでいただいた桂子さんの人柄ですけど、可愛いと思います?
村岡 最初はちょっと小憎たらしい感じもしたんです。いろいろ、私ではとうていこんなふうには大学生活を送れなかった、手の届かないような感じがして。そういう近寄りがたい感じがしたんですけれども、いろいろ一周して、すごく可愛い人だなって。桂子さんのことばのなかに、桂子さんが読んだいろいろなものから、比喩とかいろいろな表現が出てきて。でもそれは、その表現を使っても、そこに表れる自分の気持ちはすごくピュアで、比喩を使ってまっすぐにズキュンとものをいってる感じがします。
古屋 それは希美ちゃんが大人になったからじゃないかな。若いときに読む『夢の浮橋』と、ちょっと年をとってから、大人になってから読む『夢の浮橋』、私みたいに還暦過ぎちゃった人間が読む『夢の浮橋』は、全然読み方が違うんです。桂子さんって完璧な人間として描かれているんですよね。十代、二十代に読むときには女神のようというか、完璧なんですよ。だけど、こちらが大人になるにつれて本当に可愛いっていうか、おもしろい女性だなというのが感じられますし、この人、決してパーフェクトではなくて、悩んで、すごく悩むんですよね。その悩み方が、まじめなんです。やはりこれ、倉橋さんだなあって。桂子さんが倉橋さんではないんですけど、この悩み方とか、人間関係においていろいろ考えたりするところが、倉橋さんの考え方だなと思うときもあります。

【朗読4】ひょっとすると耕一の結婚の決意は自分とではなくほかの女とのことかもしれない……(「花曇り」より)

古屋 どうですか、皆さん。今、お聞きになって。このふじのという女の人が気に入らないってことはわかったと思うんですね。倉橋由美子が嫌いなのか、桂子が嫌いなのかわからないんですけど、まあ、倉橋先生もお嫌いだったでしょう。「淫蕩な猿を思わせる中年の女」。「淫蕩な猿」ですよ。私もこの比喩はしびれましたね。実際使ったことないんですけど、ここぞというときは使ってやりたいなと思う、大きな比喩のひとつですね。「高温と高圧で燃える物質を封じこめた竈であるような気がする」、この比喩ですとかね、倉橋ならではですね。今読んでくださったなかでも「ものぐさな獣をみるような」とかね、溢れてくるんです。
村岡 「火に包まれて踊り狂っている猫のように」とか。映像も浮かぶし、熱さとかにおいとか、そういうのがこういろいろ……。
古屋 字もね。活字って音もそうなんですけど、字で読みますでしょ。「淫蕩」とかね、「燃える物質」とか「竈」とかっていう漢字が、ものすごく焼き付くんです。そういう効果を倉橋が意識してなかったとは思えない。やっぱり、意識していたと思いますね。なぜならば、「言う」ということば。「見る」ということば。みんな開いているんです。漢字じゃない。その一方で「竈」とか、そういう印象的なものは漢字にしておくんですね。そういう書き分けがものすごく意図的なものだと私は思っていますし、あるいはそういうふうに物語やことばというものはそういうものであるとわかっていらしたし、それをちゃんと伝えようとしていた。「ルビ」を振るの大嫌いでした。「ルビなんか振らなくていい。わからなかったら読者が調べればいいことだから」。私が声を大にしていいたいのは、活字を目で追っていく文章もすばらしいけど、今、皆さんが聞いてくださったような、音で聞く倉橋の文章もまことにすばらしいんです。それをもっと広く知っていただきたいなと思うんです。

【朗読4】ひょっとすると耕一の結婚の決意は自分とではなくほかの女とのことかもしれない……(「花曇り」より)

古屋 異様でしょ? 若い男の首を所有したい。「あの首を切りとって机のうえに飾ったら」。冷静に考えると「おいおい」って思いますよね。「桂子さんが考えてる」と考えますと、桂子さん、すごい趣味をお持ちですよね。これって異常だとかじゃなくて、そういうふうに考えちゃいけないんです、これは。どう考えたらいいかっていうと、倉橋の世界では、いいとか悪いとか、気持ち悪いとか気持ちいいとか、ちょっと違う世界に行っちゃうんですね。ここでは桂子さんは自由な人なんです。どう自由かっていうと、価値観が自由。既成の価値観ですとか、男女の関係はこうであらねばならないとか、そういうものから自由になりたいという精神を感じさせるんですね。そういう自由でありたいっていうことが、最終的には魂飛ばしちゃうような造形になってくる。そういうふうに、倉橋は桂子さんっていうキャラクターを得たことで、いろんな意味で自由になったんです。そしてその自由の第一歩が首なんですね。そして山田先生っていう、その助教授の首じゃ物足りないわけですよ。山田先生はやっぱり、首として持っててもねっていう。
村岡 そうですねぇ、耕一さんか前田君ですね。
古屋 この「男の人」ということも少しお話ししたいと思います。『夢の浮橋』はジェイン・オースティンの『高慢と偏見』を後ろに流れているわけです。『高慢と偏見』って、ある意味では婿取り物語なんですね。五人の姉妹が登場するんですけど、どういう相手を探しているかというのを克明に描かれていて、おもしろい、ユーモアのある作品です。この『夢の浮橋』も婿取り物語として読むと、ものすごくおもしろい。どういう男を選ぶのか、あるいはどういう男じゃダメなのかっていうのが、そんな直接的にではなく書かれていて、それで結局、桂子さんが選ぶのはどういう男であるかがわかるんですね。
最後にお母様の描写いきましょうか。大人の女がこういうふうに描かれているということで。

【朗読7】洋服を着ると、腰や下腹のまわりの豊かさにくらべて脚のほっそりしているのが……(「光る風」より)

古屋 これ、「あやこ」なのかな? 私は「ふみこ」って読んでた。ここは希美ちゃんと私の世代の違いかもしれないですね(笑)。
このお母さんもちょっとどうなのかな?っていうお母さんですよね。でも私ね、私ももう文子さんよりもずっとうえになっちゃってると思うんですけど、この肉体への嫌悪っていうのはすごくよくわかります。これを書いたとき、倉橋は35歳です。驚きますでしょ? 35歳で大学生を書き、もう50以上になった、60近い女を書き、男も書き。すごいですよね、ディテールも。昔は当然の常識かもしれませんけど、着物や歌舞伎、能、文化に対する教養の深さを、大人がみんな持っているんですよね。それがいつの間にかなくなってしまったのが今なんですけど、でも今だってそういう階級がないわけではない。だけど文学もそうなんですけど、これを読み解くための底力が昔にはあったっていうね。それが今は読む方の力も落ちてるかなっていうのが残念ですね。
この『最後の祝宴』という本に、倉橋の「作品ノート」をピックアップしたところがあるんですけど、そこで倉橋がこんなことを言っています。「『夢の浮橋』で終始保とうとしたのもある種の平静さであったと言える」。つまり倉橋は、この作品で登場人物のすべての人間に、ある平静さを保たせるようにして書いているんですね。だからそこで烈しいものがあったとしても、決してそれを表に、狂女のように出さない。平静であることっていうのは、実は倉橋が一番作品の中でいろんな書き方をしながら訴えてるというか、表現しているものだと私は思います。それはいろんなものを本歌取りのように取ってきたり、源氏を取ってきたりしても、彼女のトーンになると、それは必ず平静なものになっていると思います。これが『夢の浮橋』のおもしろさですね。
希美ちゃんは今回読んでみて、どんなふうにお思いになったか、最後にひとことお願いします。
村岡 これまで『大人のための残酷童話』『酔郷譚』『星の王子さま』『ポポイ』とかいろいろリーディングさせていただいたんですけど、最初、声に出して読んでみたときに、難しいんじゃないかって印象がまずあるんですね。漢字を間違えないようにとか、普段自分が使っていることばとは違う表現がたくさん出てくるんです。でも声に出して読みだすと、ノッキングが起こらないっていうか、すごく読みやすい文章。それが毎回、感じることですね。セリフじゃないベースのところを読みつつ、セリフの会話のところはいろんな役者さんに読んでいただいたりするんですけど、本当に会話がとてもすばらしくて、なのでちょっと抜粋しただけでも、そのシーンが浮かぶという。こちら側としたらなるべくきれいに丁寧にことばが皆様に耳で届くようにお伝えできたら、あとは倉橋さんの作品の文章の力。とにかくちゃんと丁寧に伝えるだけで、皆さんの中で映像とかにおいとか、感覚、五感がとても膨らむすばらしい文章だなとつくづく、毎回勉強させていただいています。
古屋 希美ちゃんは声の深みもそうなんですけど、倉橋の世界とすごく合ってるんですよね。それはなぜかっていうと、湿っぽくないんです、彼女の声が。倉橋は湿っぽいのが好きじゃない。だからといって、冷たい声じゃないんですね。そういう意味で見事な読み手だなって思います。

プロフィール

村岡希美(むらおか・のぞみ)
東京都出身。劇団「ナイロン100℃」所属の俳優。劇団の中心的存在として活躍するほか、映像作品へも数多く出演。主な出演作に、舞台『鳥の名前』、『キネマと恋人』、『娼年』、映画『岸辺の旅』、『凶悪』、ドラマ『PTAグランパ!』(NHK-BS)、『花子とアン』(NHK)などがある。2012年より、倉橋由美子作品のリーディングを企画、『大人のための残酷童話』、『酔郷譚』、『星の王子さま』、『ポポイ』などの朗読を手がけている。

古屋美登里(ふるや・みどり)
翻訳家、明治大学講師。著書に『雑な読書』(シンコーミュージック)、主な訳書にエドワード・ケアリーのアイアマンガー三部作『堆塵館』、『穢れの町』(東京創元社)、デイヴィッド・フィンケル『兵士は戦場で何を見たのか』、『帰還兵はなぜ自殺するのか』(亜紀書房)、M・L・ステッドマン『海を照らす光』(早川書房)、ダニエル・タメット『ぼくには数字が風景に見える』(講談社)など。生前の倉橋由美子と親交があり、十代の頃から直接薫陶を受けてきた。現在は倉橋由美子復刊推進委員会会長を名乗っている。

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初出:P+D MAGAZINE(2017/11/15)

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