この弔辞がすごい。心に刺さる作家の“名弔辞”ベスト4
故人へ送る言葉、“弔辞”。弔辞を見れば、故人の人となりや、その人と送り主との関係が浮かび上がってきます。今回は、作家たちが友人や同志に送った名弔辞を4つご紹介。美しい「別れの言葉」を味わってください。
「私もあなたの数多くの作品のひとつです」――この一節は、タレントのタモリが漫画家・赤塚不二夫の葬儀で読み上げた“弔辞”の末文です。
芸能人としての自分を見い出し、育て上げてくれた師に対して、
「私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。」
と語るタモリは、葬儀の場で初めて“いまお礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。”と長年の感謝を口にします。「手にしていた紙が白紙だった」という噂も手伝って、この別れの言葉はタモリらしい芸が光る名弔辞として世間を賑わせました。
弔辞は、いわば故人に贈るラブレターです。弔辞を見れば、故人の人となりはもちろん、弔辞の送り主が本当に伝えたかった思いや故人との関係性までもが、ありありとわかります。
今回は、言葉を紡ぐプロである“作家”に絞って、その美しい別れの挨拶が味わえる名弔辞ベスト4をご紹介します。
「私の愚かであつたために、君は手まとひを感じてゐたかもしれません」――井伏鱒二から太宰治へ
太宰君は自分で絶えず悩みを生み出して自分で苦しんでゐた人だと私は思ひます。四十才で生涯を終つたが、生み出した悩みの量は自分でも計り知ることが出来なかつたでせう。ちょうどそれは、たとへば岡の麓の泉の深さは計り知り得るが湧き出る水の量は計り知れないのと同じことでせう。
39歳にして愛人と入水自殺を遂げた太宰治。これは、太宰の自宅にて執り行われた葬儀で、彼の小説の師匠であった井伏鱒二が読んだ弔辞です。
『山椒魚』などの井伏の作品に深く感銘を受けた若き日の太宰は、生まれ故郷の青森を出て上京後、すぐに井伏に弟子入りしています。太宰はプライベートにおいても井伏を大いに頼りました。薬物中毒になった際には井伏の働きかけによってようやく入院できたと言われており、その後、井伏に結婚相手も紹介してもらっています。
しかし、太宰は亡くなる直前、自室に「井伏さんは悪人です」と書いたメモを遺していることも知られています。このメモの真意を世間に問われた井伏は、
太宰君は最も愛するものを最も憎いものだと逆説的に表現する性格だからそういうつもりでいったのだろう
相馬正一『評伝 太宰治』より
と答えています。晩年はあまり井伏を訪ねることもせず、時に彼への批判ととれるような文章も発表することがあった太宰。そんな太宰を井伏は疎ましがることなく見守り続けました。弔辞の最後は、詫びの言葉で締めくくられています。
私の愚かであつたために、君は手まとひを感じてゐたかもしれません。どうしようもないことですが、その実は恥ぢ入ります。
左様 なら。
「僕は君と生きた縁を幸とする」――川端康成から横光利一へ
『機械』『蝿』といった独特の言語感覚が光る作品を発表し、「文学の神様」とも称された横光利一。晩年、病気を繰り返していた横光が49歳で亡くなったとき、その弔辞を読んだのは彼と同じ「新感覚派」として活躍した川端康成でした。
ここに君とも、まことに君とも、生と死とに別れる時に遭った。君を敬慕し哀惜する人々は、君のなきがらを前にして、僕に長生きさせよと言う。これも君が情愛の声と僕の骨に沁みる。国破れてこのかた
一入 木枯にさらされる僕の骨は、君という支えさえ奪われて、寒天に砕けるようである。
「国破れてこのかた一入木枯にさらされる僕の骨は、君という支えさえ奪われて」という悲痛なフレーズ。これは、横光が亡くなったのが敗戦直後の昭和21年であったことに加え、同時期に武田麟太郎といった文学界の友人の死が相次いだことを受けての一節でしょう。
君は常に僕の心の無二の友人であったばかりでなく、菊池さんと共に僕の二人の恩人であった。(中略)
僕は君を愛戴 する人々の心にとまり、後の人々も君の文学につれて僕を伝えてくれることは最早疑いなく、僕は君と生きた縁を幸とする。
川端にとって、横光は小説家として同じグループに属する同士であっただけでなく、終生互いを尊敬し合い、交流を続けた「無二の友人」でした。
夭逝する文士の多い時代、友人たちの死を数多く見送った川端は、横光に宛てた弔辞のなかで「さびしさの分る齢を迎えたころ、最もさびしい事は来るものとみえる。」と痛切な気持ちを表現しています。親友を失ったのちの文学界を背負ってゆく川端は、決心ともとれるこんな言葉で弔辞を結びました。
僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく。
「あなたはニンゲンを理解できなかったのです。それが、あなたの『天才』の秘密でもありました」――武田泰淳から三島由紀夫へ
次にご紹介するのは、割腹自殺を遂げ日本中を驚かせた三島由紀夫の葬儀で、友人であり『司馬遷』『ひかりごけ』などの作品で知られる小説家・武田泰淳が読んだ弔辞です。
息つくひまなき
刻苦勉励 の一生が、ここに完結しました。疾走する長距離ランナーの孤独な肉体と精神が蹴たてていった土埃、その息づかいが、私たちの頭上に舞い上り、そして舞い下りています。
歴史小説の書き出しのような力強い言葉で始まるこの弔辞は、三島由紀夫がどのような人間だったかを克明に描いています。
「美しい星」において、あなたは、火星、木星、金星、土星からやってきていると信じこんでいる家族たちについて語りました。なぜ、あの予言的な小説が、評判にならなかったのでしょうか。わかりきっています。人間たちは、地球人であることがニンゲンであり、自分たちこそ地球人そのものであると信じ、かつ主張して一歩もゆずらず、別の星の気持わるいにんげんであるとまちがえられることを、何よりも怖れるからです。(中略)
民衆、つまり隣近所があなたを理解できなかった、それ以上に、あなたはニンゲンを理解できなかったのです。それが、あなたの「天才」の秘密でもありました。
武田は三島のSF小説『美しい星』を例に挙げ、三島のことを自分たちこそが地球人だと信じてやまない「ニンゲン」ではなく「天才」、いわば宇宙人だと言っているのです。当時、三島の自決を“奇行”とする向きも強かった中で、武田は三島の「天才」ゆえの苦悩が理解できたのでしょう。
また夢の中で、二人だけでお会いしましょう。血気にはやる隊員は連れてこないで下さい。どうせ棄てるなら、お気に入りの同志も棄ててきて下さい。
「血気にはやる隊員は連れてこないで下さい」とは思わずクスリと笑ってしまいそうなフレーズですが、「夢の中で、二人だけでお会いしましょう」という言葉からは信頼できる友を失った真っ直ぐな寂しさが窺えます。政治的思想も文学的傾向も三島とは大きく違うとしながらも、武田は三島の「純粋性」を常に確信していた、とのちに語っています。
「私には、あなたは何より、姿であり声であり、筆跡でありました」――山田太一から寺山修司へ
劇作家、小説家、歌人、写真家などいくつもの顔を持ち、その多岐にわたる活動からサブカルチャーの師と仰がれた寺山修司。寺山の弔辞を読んだのは、大学の同級生として寺山に出会い、終生にわたって彼の友人であった山田太一でした。
あなたは「死ぬのはいつも他人ばかり」というマルセル・デュシャンの言葉を口にしていたことがありましたが、そして、あなたの死は、私にとって、もとより他人の死であるしかないわけですが、思いがけないほどの喪失感で――あなたと一緒に、自分の中の一部が欠け落ちてしまったような淋しさの中にいます。
脚本家・小説家である山田の弔辞は、まるでテレビドラマの台詞のように、流れるようなリズムと素直な文体で綴られています。
手紙をよく書き合いました。逢っているのに書いたのでした。さんざんしゃべって、別れて自分のアパートへ帰ると、また話したくなり、電話のない頃だったので、せっせと手紙を書き、翌日逢うと、お互いの手紙を読んでから、話しはじめるというようなことをしました。
翌日会うのにわざわざ手紙を書く、というエピソードからも、寺山と山田がいかに親しかったかが伝わってきます。弔辞の終盤にはこんな言葉があります。
十八歳の時の「チェホフ祭」からはじまり、あなたの作品には、幾度もおどろかされ、感嘆もしましたが、私には、あなたは何より、姿であり声であり、筆跡でありました。
その前衛的・幻想的な作風から、短歌や随筆のなかにも創作――いわば嘘が多分に混じっていたと言われる寺山。そんなミステリアスなイメージを払拭するかのように、山田の言葉からは、血の通った人間味あふれる寺山の姿が浮かび上がってきます。
おわりに――さよならだけが人生だ
太宰治の弔辞を読んだ井伏鱒二は、
花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ
当然ながら、人は自分にいつか贈られる弔辞を聞くことはできません。“さよなら”を言うことができるのは、生きている人間だけです。葬儀とは、大切な人の亡き人生を生きてゆかなければならない、私たち生者のためにある儀式なのかもしれません。
それでも、故人へのラブレターである“弔辞”を読みかえしてみると、故人が、そしてその人と弔辞の送り主とが過ごした濃密な時間が、ほんのひと時、息を吹きかえして目の前に浮かぶような気がしませんか?
もしもあなたが、親しい友人や家族の弔辞を読むことになったなら、これらの作家の名弔辞を思い返して文を紡いでみるといいかもしれません。いずれも心を揺さぶる名文ばかりなので、きっとあなたも唯一無二の弔辞を書けるはずです。
初出:P+D MAGAZINE(2017/03/13)