新刊『夜を聴く者』の魅力について作者自身に批評してもらった。【坂上秋成インタビュー・前編】
デビュー作『惜日のアリス』…「名付け」という行為への反感
—では、2013年に刊行されたデビュー作『惜日のアリス』に話を移します。この作品は小説自らが「文学的な表現とは何か」と自問自答するところから始まりますが、これは坂上さんの批評家としての意識があったからでしょうか?前半部分は文末や登場人物の口調が統一されず、読者に不安を感じさせるかのような文体が続きますが。
坂上:仰るとおり、最初の70ページくらいまではまともな日本語になってないでしょう(笑)。この試みはデビュー作としてはリスキーだったと思いますが、魅せたいのは後半だったので、その後半との差を際立たせたいという狙いがありました。前半と後半で15年の月日が空くわけですけど、そのスキップ感を表したかった。そういう意味では、批評的ではあったのかもしれません。
ただ、そもそも小説を書くときに批評のことを全く考えないかといったらそうではないんです。情熱の赴くままに書いている時には感性に任せていますが、実際にはそれは小説のごく一部であって、登場人物や舞台の設定を考えたり、他の箇所で物語の整合性をとるような時には批評のロジックを意識することも多いです。
—では『惜日のアリス』は、批評的な意識が介在した上でその見取り図をなぞって書かれた物語ということでしょうか。
坂上: 最初に見取り図があったというわけではないんです。『アリス』に関しては、「言葉に関する小説」を書こうというイメージだけが先にありました。これは『夜を聴く者』にも通じることですけれど、「名付けることで意味を固定する」という行為に対する違和感があって、それを小説として表現したかったんです。
『アリス』の場合、小説後半部分には大きく分けて2つのレイヤー(層)があります。一つは匿名に近い空間である、新宿のミックスバー。本名ではない名前で呼ばれるけれど、仲間がいて安心できる空間ですね。
それともう一つ、レズビアンのカップルとその娘が3人で暮らしている家族の場が存在する。彼らは立派に「家族」をやっているけれど、法的・社会的な承認を受けられない分、関係性としては不安定なものになっています。
主人公のアキラはこのふたつの空間をベースとして楽しく暮らしているわけですが、そこに異物として、15年前につき合っていた算法寺という男が介入してくる。彼は誠実にアキラに接するんだけど、自分をレズビアンとして固定しているアキラは完全にそれを拒絶してしまうんですね。これはまさに「名指すことの暴力」で、アキラにこうした幼稚なところがあったからこそ、終盤近くでナルナが失踪する展開になったのかなと思います。
坂上: あと、『アリス』には自分の実体験も入っています。僕自身、新宿二丁目のミックスバーやビアンバーに行くことがあるんですけど、周囲に女性が大勢いるのに自分がほとんど性的な視線に晒されないという空間はかなり特殊なものだと思うんですよ。けれど、その時の落ち着く感じや居心地のよさは、一言では表せない。だからこそ、その名付けられない空間を小説の世界に落とし込んでみたいという気持ちがありました。
—『アリス』の中ではUstreamというインターネット上の匿名のコミュニケーションが持ち込まれていますが、「社員/派遣」であったりとか、「健常者/異常者」といった社会のなかの名付けの暴力から解放される空間として扱われたのですか?
ハローハロー…聞こえていますか?……オーケー、ちゃんと繋がってるね。1月7日土曜日、外ではしんしんと雨が降り続く一日。どちらかといえばひきこもって蜜柑の皮をむいていたい、そんな1日。
グッドイヴニング、ヱヴリワン。週に一度の朗読タイム、DJを務めさせていただきますはアキラです。『惜日のアリス』より
坂上: そうですね。僕も自分でUstream配信を行うことが多かったので、そこでの匿名の視聴者とのやり取りをポジティヴに導入したという側面はあります。 本筋とは少しずれたモノローグのような文章を小説に挿しこむことで、多声性を産み出しながら、物語に自由な感覚を加えたいとも思っていました。
僕は村上春樹から強く影響を受けているんですけど、彼のデビュー作である『風の歌を聴け』にラジオDJがモノローグ調で語るシーンがあるんですね。それをUstreamという形でパロディー化することで、2010年代だからこそ書ける小説の特性を強く見せたいという気持ちもありました。
(次ページに続く)