曽野綾子特別書き下ろしエッセイ・「P+D BOOKS」2周年記念

昭和の名作の数々を、ペーパーバック書籍と電子書籍で、同時に同価格で発売・発信するブックレーベル「P+D BOOKS」。大きな反響の中で迎えた2周年を記念し、曽野綾子氏による特別エッセイを公開します。

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三浦朱門・曽野綾子夫妻。 

写真:林忠彦写真集 日本の作家(小学館)より 撮影/林忠彦

曽野綾子氏による、「第三の新人」の貴重な個人的エピソードを公開!

大きな反響の中で迎えた2周年。

これまで、川端康成、松本清張、澁澤龍彦、山口瞳……といった昭和の文豪の名作を多数リリースしてきましたが、2周年のテーマは、文学的な大きなムーヴメントとなった「第三の新人」。 今回、「第三の新人」の一人、三浦朱門を夫に持ち、「第三の新人」たちと実際に交流のあった、曽野綾子氏より、エッセイを寄せていただきました。

第三の新人について

第一次、第二次戦後派作家に対し、1953年から1955年にかけて文壇に登場した、「第三の新人」と呼ばれる作家たちがいます。 「悪い仲間」で第29回芥川賞を受賞した安岡章太郎を皮切りに、吉行淳之介(「驟雨」/第31回)、遠藤周作(「白い人」/第33回)、庄野潤三(「プールサイド小景」/第32回)と軒並み芥川賞受賞作家ともなった彼らは、日常的な人間性を描く私小説への回帰を目的としていました。

文芸評論家の山本健吉により命名された「第三の新人」たちは、重苦しい観念的小説が主流だった戦後文学の転換を促す役割を果たし、日常生活の中の実感に視点を定めました。彼らの作品は革命、社会をテーマとした壮大なものではなく、日常のありふれた存在を描いていたのです。 その感覚的な小説を先輩作家や一部の評論家たちはあざ笑い、「どうせすぐに忘れ去られるに決まっている」と批判しました。しかし、その予想に反し、第一次・第二次戦後派の作家と比肩する評価を獲得しています。

第一次、第二次の戦後派作家に対し、華やかな青春時代を戦争によって喪失した「第三の新人」たちに残されていたものは「平凡さ」でした。優等生でなく、平凡であることを認めることしか選択肢が残されていなかった彼ら「第三の新人」は、現代に生きる私たちの「平凡な日常」を見つめ直すための表現を残した作家たちと言えるのではないでしょうか。

もっと詳しく読みたい:(戦後文学の流れを変えた「第三の新人」世代。その「平凡さ」が放つ魅力とは?)

「蕎麦屋の勘定」 曽野綾子

 ほんとうは、この原稿は、「第三の新人」と言われたグループの最後の生き残りであった三浦朱門が書くのが当然だったのだろうが、彼もまた二○一七年二月三日に、九十一歳で他界したので、彼らの時代を時々聞いていた私が書くことになってしまった。  

 私が「第三の新人」の実像を見るようになったのは、昭和二十九年に三浦朱門と結婚することになった時からである。  

 それが初めてだったのかどうか覚えがないのだが、或るお酒を飲む会で、そこにいた一人の奥さんが飲み過ぎたのか、「ああ、苦しいわ」と言い、「ブラジャー外して……」と言った。そんな時、私が「外してさしあげます」と言えばよかったとも思えないが、世間知らずの私は、そういう人中でブラジャーを外す事があるのだ、ということさえ頭になかったのである。それでよく小説が書けたものだとも思うが、私の書きたいテーマは、当時は別にそんなことに頭が廻らなくても済んでいたのであろう。  

 とにかくその人は、ごく自然に「淳ちゃん」と呼ばれていた吉行淳之介氏のところに行き、吉行氏は手慣れた手つきで、背中のホックを外した。それだけの事である。しかしそこには三浦朱門もいたし、庄野潤三氏もいらしたと思う。安岡章太郎氏も小島信夫氏もおられたかもしれない。しかしその女性は、ごく自然にこの仕事を吉行氏に委ねた。私はその一事で、吉行氏の人生における役割を知った。  

 三浦朱門は、近藤啓太郎氏とも、馬の合う所があったらしく、近藤氏が「俺は絵描きだから、女がどんな服を着ていようと、ずっぱと裸がわかるだ」と千葉なまりで言う話を楽しげに伝えたりした。近藤氏は、小説の売れるのを待っていても心もとないので、近くの学校で絵の先生をしていた。しかし近藤夫人は、そういう目利きに選ばれた女性らしく、健康的なのびのびとした姿態の方だった。近藤夫人が比較的早く他界された時、私たちは信じられない話として心から驚いた。  

 吉行淳之介氏は、もっとも多く三浦朱門の話に登場した。その割りに頻繁に会っているわけでもないのだが、つまり誰よりも個性的な人格だったのだろう。吉行氏は、いつもお酒を飲んでいるか、マージャンをしているかどちらかという形で私に伝えられた。  

 三島由紀夫氏が自決した時、阿川弘之氏と三浦朱門が、それを伝えに行った時も、吉行氏は誰かとマージャンをしていた。そして話を聞いても、顔色一つ変えず、「それはお前、もつれにもつれた人間関係の清算よ」と言っただけだったというが、現実にどうもつれていたかに、興味を抱いた人はなかったように見える。  

 彼らの話には、よく戦争中の「兵隊の位」が登場した。「阿川は海軍大尉、安岡は陸軍二等兵」という感じだった。もっとも三浦朱門も陸軍二等兵で終戦を迎えた。当時の女性たちの中には「どうして三等兵じゃないの?」と質問する私のような軍の組織に無知なのもいたらしかったが、「のらくろの漫画は、二等兵から始まるじゃないか」と言われると、それなりに納得した。  

 阿川氏は海軍大尉で、厳密に言うと「第三の新人」ではなかったが、三浦朱門はその人柄が好きで、いつも仲間扱いにしていた。阿川氏は飛び抜けた軍歴で大本営の暗号解読の部門で働き、安岡氏は狙撃兵だった、と言っていたが、私の記憶の誤りだったかもしれない。とにかく後に文士となるような人たちは、ほとんどだれもが団体行動が下手なことがその特徴で、一人でする仕事に向いている、と三浦は言っていた。だから暗号解読とか狙撃手などに向くというのである。  

 阿川氏はカジノに行くのが趣味で、アメリカにいらした後は、カジノの会話だけは皆英語だ、と、三浦朱門は口真似をしていた。しかも阿川氏は幸運をただアテにするだけでなく、徹夜でサイコロの目を科学的に割り出す方法なども研究しておられたらしく、それが秀才・阿川氏らしい楽しい一面だと思われていたようだった。  

 一方吉行氏については「あいつは結核」と嬉しそうに言うだけだった。結核は文士に多い病気で、「遠藤も結核」だったが、その言葉の背後には、ものを書くと言いながら健康でありすぎるのは、いささか才能に欠けているように思われる空気もあった。もっとも吉行氏も遠藤周作氏も、病気は過去のもので、私が知ってから後は、背中に大きな肺切除の手術痕があるというだけで、至って健康そうに暮らしておられた。  

 遠藤氏については、ニセ電話とイタズラの話題が多かった。或る年、女性の水着に白が流行った。ところがその水着は、濡れると透けて、裸の線が丸見えになる。  

 或る日、三浦朱門はうちへ帰ってくると嬉しそうに言った。遠藤夫人が、その水着を着てプールに入ると、「遠藤が奥さんの上着やタオルを皆持って帰ってしまった」のだという。つまり、夫人は水から上がっても、透けた水着姿を隠すものがなくなったのだ。  

 それがどう楽しかったか、私にはわからないのだが、二人の(当時)中年男がおもしろがったのは、純粋に「イタズラ中学生」のワルのような幼さであり他愛なさだったことを、当事者が自覚していたのだろう。  阿川氏も遠藤氏も、私の出身校の悪口を言うのが好きで、しかしそれが全く悪意に聞こえなかったのは、二人とも秀才校ではない学校の出身者に、基本的な好意を持つ姿勢があったからだろう。  

 阿川氏は或る時、私の出身大学の後輩を臨時秘書に雇い、彼女を連れて横須賀に取材に行かれた。すると彼女が、 「阿川先生、どうして自衛隊の船は、朝日新聞社の旗をあげているのですか?」  

 と質問した。  

 遠藤氏も三浦朱門も、この言葉は、二十世紀最高のブラックユーモアから出た傑作だと思ったのだが、そんな話をほんとうに悪意なく楽しみ広めるのが遠藤氏と三浦朱門の仲だった。遠藤氏の母堂は一時、私の母校の音楽の先生をしていらっしゃったこともあったのだという。  

 一度、阿川氏と遠藤氏と三浦朱門の三人が京都に行く旅について行った事がある。  

 遠藤氏は、何を思ったか、途中で阿川氏をからかうことにした。

「しかしなあ、阿川。お前はベストセラーも出ず、金もなく、しかも子だくさんで、よく養っていけるなあ」

「悪かったねえ。俺は本が出ないんだから、ベストセラーも出ないんだ」  

 阿川氏の子供たちは三男一女、皆非常に優秀である。しかし遠藤氏は、そんなことはどうでもいい。あくまで「貧乏人の子だくさん」という日本語に現実を合わせようとする。ものの三十分もしないうちにまた、遠藤氏は言う。

「しかしなあ、阿川。お前は本も売れず、よく食ってるなあ。俺なんか、毎日増刷の通知がくるから、女房はそのハガキで鍋敷を作っとる」  

 そのうちにやっとお昼になり、私たちは蕎麦屋に入った。そこで阿川氏は復讐の機会を見つけた。

 「おい、遠藤。お前はベストセラー作家だそうだから、勘定は全部払え」

「いえいえ、先輩に対して、そんな失礼なことはできません」  

 遠藤氏はやっと損得勘定モードに戻った。毎回こんな状態でつきあっていたのに、三人は終生喧嘩一つしなかった。作家の会話はあくまで創作の世界だったのであろう。

曽野綾子(その・あやこ)

単行本 曽野綾子氏写真

1931年、東京生まれ。作家。聖心女子大学卒。1979年、ローマ法王よりヴァチカン有功十字勲章を受賞。日本藝術院恩寵賞、吉川英治文学賞、菊池寛賞など受賞多数。1995年から2005年まで日本財団会長。主な著書に『無名碑』『神の汚れた手』『人間の基本』『老境の美徳』、三浦朱門氏との対論集『我が家の内輪話』など。

おわりに

いかがでしたか?これまで知られていなかった、貴重な個人的エピソードから、「第三の新人」と呼ばれた作家たちの素顔が、垣間見えたのではないでしょうか。P+D BOOKSでは、これからも、昭和の文豪たちの偉大なる業績をまとめて、復刻・発行していきます。ご期待ください!

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初出:P+D MAGAZINE(2017/06/09)

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