【名作にみる愚か者たち】シェイクスピアからドストエフスキー、そしてクストリッツァへ

「愚か者」というと、どんなイメージを持ちますか? 今回は、文芸作品のなかに繰り返し登場してきた「愚か者」に焦点をあて、シェイクスピアからドストエフスキー、そしてクストリッツァの作品について解説します。

 

はじめに

 「愚か者」という言葉にみなさんはどのようなイメージをお持ちでしょうか。たとえば「あいつは愚か者だ」と言う場合。それは思慮に欠けていて、バカバカしい人、または未熟者、とっさに思いつくのはそういうイメージではないでしょうか。
しかしこれまで文芸作品のなかに繰り返し登場してきた愚か者は、単純に「バカ」と片付けることのできない複雑なキャラクターとして描かれてきました。のみならず、彼らの存在は文芸の世界において非常に重要なテーマにさえなってきたのです。それはなぜか。本稿では有名な小説、及びそれらの影響を色濃く受けた映画を引き合いに出しながら、この愚か者という存在について考えたいと思います。

古いモデルとして

文芸作品における愚か者の歴史は古く、プラトンの著した『ソクラテスの弁明』が最も有名なモデルとして思い出されるかもしれません。ソクラテスは「国家の信じない神を導入し、青少年を堕落させた」として裁判にかけられますが、彼は果てしない議論と対話によって、人々の無知をあぶり出していきます。そして相手に無知を突きつけ、「何も知らないことを知る(無知の知)」ことこそ魂にとっては至上の徳であると説くわけです。つまりここでは、人間が何も知らない愚か者であるということが前提となっているばかりか、極めて重要なテーマにもなっているのです。
また同等の記述は聖書のなかにも見ることができます。

だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。
『コリントの使徒への手紙 一』(3:18)

こうして古いモデルを眺めていると、「みんなバカなんだからそのことに気づきなさい!」と厳しいお説教を食らった気にもなりますが、愚か者にまつわる思想が長い年月を経て様々に受け継がれたことは事実です。たとえばニコラウス・クザーヌス『学識ある無知について』や、エラスムス『痴愚神礼讃』ニーチェ愚者思想、また文学ではセルバンテス『ドン・キホーテ』など枚挙にいとまがないのですが、まずはシェイクスピア道化師を取り上げたいと思います。

シェイクスピアにおける道化師

 「愚か者」を扱った作家としてシェイクスピアを外すことはできないでしょう。その作品群には非常に重要な脇役としてたくさんの「道化師」が登場します。そして言うまでもありませんが、「道化師」とは「愚か者」を演じる人物のことです。『お気に召すまま』のタッチストン、『夏の夜の夢』のボトム、『十二夜』のフェステ、『から騒ぎ』のドグベリーなどがそれに相当しますが、ここでは『リア王』における道化師に着目したいと思います。
 『リア王』は父子関係を舞台に、権力の変遷とそれに伴う裏切りを描いた悲劇です。老衰のため退位したリアは国土を分割して三人の娘に与えますが、その際長女と次女が甘い言葉でリアを喜ばせるのに対して、末娘のコーディーリアは率直な物言いをします。その態度に腹を立てたリアはコーディーリアを勘当し、二人の娘に頼って余生を送ろうとするのですが、彼女たちは父親を裏切り、手に入れたばかりの権力を行使して追い出してしまいます。その結果リアは荒野をさまようはめになり、次第に狂気にとりつかれていくのです。そして放浪の間、リアに辛辣な言葉を投げかける人物が登場しますが、これが道化師です。それではいくつか道化師の言葉をみていきましょう。

あんたは娘たちに鞭を手わたし、てめえでてめえの尻を剥き出しにしたんだからな。そのとき娘二人はわっとばかりに嬉し泣き、こちらは悲しみあまって歌となる。なにせ王さまは阿呆の仲間入り、いない、いない、ばあの隠れんぼ。(略)いいなりになるお父さまに仕立てあげようてぇのが、やつらみんなの魂胆さ。
『リア王』第1幕 第4場 岩波文庫 野島秀勝訳

親父ぼろ着りゃ子どもはそっぽ向き、親父財布もちゃ、子どもは孝行。運の女神は根っからの女郎、銭のないのにゃ戸はあけぬ。
第2幕 第4場 岩波文庫 野島秀勝訳

 いくら退位したとはいえこれが国王であった人物に対する言葉でしょうか。しかし道化師という職業には、身分の差を度外視して大胆に諫言することが許されていたのです。少なくとも道化師の言葉に偽りがないことは確かでしょう。
 一方、『リア王』を日本の戦国時代に置き換え映画化した黒澤明監督の『乱』では、道化師に狂阿弥という名前が与えられていますが、これを演じたピーター氏の役割については特筆に値すると思われます。というのも、狂阿弥は全編を通して常に王に寄り添う(一度だけ離れ離れになりますが)唯一の人物だからです。
 何があっても王(一文字秀虎)のそばを離れない狂阿弥の生活はまさに一蓮托生といったところですが、自己の殻にこもる秀虎に対して狂阿弥は少し違います。彼は悲惨な状況を嘆き、困窮に腹を立て、神を罵ります。つまり狂阿弥という人物は秀虎の分身とも言える存在で、秀虎の心を代弁しているのです。道化師である彼の叫びは、王の叫びに他なりません。
 時代は異なりますが、シェイクスピアと同じイングランドの作家でアンジェラ・カーターという人物がいます。20世紀後半に活躍したカーターは、『夜ごとのサーカス』のなかで道化師についてこのように語っています。

絶望こそは道化の変わらぬ伴侶だ。(略)表情が窺えないこの水白粉の扮装の下にも、かつては見られることを誇りに思った顔があったことは、お前たちも知っているはずだ。(略)ピエロは、ほかの場合なら自然に浮かぶ笑いを、無理に引き出すんだ。初めて道化を笑うまでは、子供の笑いも純粋なものさ。(略)そして彼〔道化師〕は、どこかの子供が、彼を一つの驚き、驚嘆、怪物として覚えているかぎり、そして、彼はこの汚い世界の汚いやり方についての真実を、かりに教えようとはしなくても、教えるべく現れた存在なのだと、そう覚えているかぎり、永遠に生きつづける。その子が覚えているかぎり……(〔〕内筆者)
『夜ごとのサーカス』第2部 国書刊行会 加藤光也訳

 つまり道化師というものは、決して愉快な存在などではなく悲哀に満ちたものであるとした上で、世界の真実を教えてくれるのだ、ということがここで語られているのです。
 『リア王』の道化師、『乱』の狂阿弥の場合も同様に、彼らの言葉には(揶揄や隠喩を豊富に交えながらも)核心を突くものがありました。彼らには常に真実を目撃し、語ることが運命付けられているのです。それゆえ時に物悲しく見えるのですが、それは当然のことで、彼ら愚か者たちは世界の悲哀を一身に背負わされているのです。イタリア映画界の巨匠フェデリコ・フェリーニ監督『道』でも道化師の生涯が語られていますが、彼らは人々を笑わせながらもどこか悲しく、憂いを払うことができないように見えます。『道』はそういった道化師の哀切をことさら強調した作品であると言うことができるでしょう。

ドストエフスキーとクストリッツァ

 ここまで愚か者を演じる道化師を「真実を目撃する者」としてみてきましたが、それはロシアの文豪ドストエフスキーにおいても例外ではありません。たとえば『白痴』のムイシュキン公爵は持病の癲癇もさることながら、知的障害という烙印を押され、タイトルにもある通り「白痴」と呼ばれます。しかし彼は善良な人間で、悲劇のヒロインであるナスターシャの心を見抜き、彼女の唯一の理解者として描かれるのです。それでもやはり善性の権化とも言える彼の態度はあまりに慇懃で、読者に奇異な印象さえ与えますが、それは他者についての決定的な言葉(真実)を発してしまうことを彼が恐れているからです。その恐怖が常にムイシュキン公爵を抑圧しているのです。ゆえに彼は周囲の人間から誤解されてしまいます。
 このように、ドストエフスキー文学のなかでも愚か者は真実を目撃する悲哀に満ちた存在として描かれます。しかしそれだけではありません。ドストエフスキーは愚か者を「正常な状態に対する低劣な状態」とは考えてはおらず、むしろ「聖なる存在」として描いているのです。

《これが病気だとしても、それがどうしたというのだ?》とうとう彼はこんなふうに断定した。《もしこれが異常な精神の緊張であろうとも、(略)その感覚の一瞬が依然として至高の調和であり、美であることが判明し、しかもいままで耳にすることも想像することもなかったような充実、リズム、融和、および最高の生の総合の高められた祈りの気持ちにも似た法悦を与えてくれるならば、そんなことは問題外である!》
『白痴』第2編 5章 新潮文庫 木村浩訳

 ロシアではイワン雷帝の時代に聖ワシリイという「聖なる愚者」がいたとされていますが、その身体には神が宿っていたと言われています。そして聖ワシリイは人の心を見抜き、悪を容赦なく暴露した一方で、裸で生活し、万引きまがいのことをしては貧者に施したとされています。このような「(かみ)(がか)り」とも言える逸話は決して珍しいものではなく、日本最古の歴史書と言われている古事記にも登場するのですが、それを世界的な共通項として一般化したことはドストエフスキーの大きな功績のひとつと言っても差し支えないでしょう。
さらにドストエフスキーは、彼の遺作であり最高傑作という呼び声も高い『カラマーゾフの兄弟』の序文で、こういった愚か者の歴史的重要性をわざわざ断言しているのです。

奇人とは『必ずしも』個々の特殊な現象とは限らぬばかりか、むしろ反対に、奇人が時として全体の核心を内にいだいており、同時代のほかの人たちはみな、突風か何かで、なぜか一時その奇人から引き離された、という場合がままある
『カラマーゾフの兄弟』作者の言葉 新潮文庫 原卓也訳

 このように文芸の世界では愚か者を「真実を見つけ、語る、聖なる存在」として扱ってきました。そしてこの思想をテーマに掲げ、映画を撮り続けているのが旧ユーゴスラヴィア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)出身のエミール・クストリッツァ監督です。
 彼の代表作とされている『アンダーグラウンド』はベオグラードを舞台に第二次世界大戦からユーゴ内戦までを描いた作品ですが、地下に潜って身を隠していた旧ユーゴスラヴィアの人たちが、終戦を知らずに(自国の消滅さえ知らずに)地下での生活を続けるという奇想天外なプロットが中心を成しています。様々な魅力的なキャラクターやサブプロットがありますが、本稿で注目したいのはチンパンジーのソニと吃音者のイヴァンです。なぜなら、地下という偽りの生活を崩壊させるきっかけを作り(地下の人々が所有している戦車に忍び込み、砲弾を発射)、先陣を切って地上へと這い出てきたのは彼らだからです。自国消滅の真実をさらけ出す一旦を担ったソニとイヴァンですが、彼らは受け入れがたい現実を前にして嘆き苦しみます。このあたりは『乱』の狂阿弥と共通するものがあります。
 さらに本作のラストシーンでは死後の世界ですべての人たちが一堂に会し許し合うのですが、ここで最後のセリフを観客に向けて語りかける人物が、吃音者であったイヴァンなのです。彼は吃ることなく、また移動中のカメラから視線を外すことなくこう語ります。

「苦痛と悲しみと喜びなしには、子供たちにこう語り伝えられない。昔ある所に国があったと」
『アンダーグラウンド』日本語字幕 清水馨

クストリッツァ監督はおそらく意図的に、愚か者に真実を見つけさせ、それを語らせているのです。
一方で『アンダーグラウンド』の約十年後に製作された『ライフ・イズ・ミラクル』ではチンパンジーは登場しませんが、似たような役割を担う存在としてロバが登場します。イソップ物語の『ロバと飼い主』をはじめ、ロバは西洋では愚か者の象徴とされてきましたが、同時に、人間には見えないものを見ることができる生き物として神聖さも与えられてきました。たとえばレンブラントの絵画《バラムとロバ》のモデルになった旧約聖書の『民数記』には、次のような逸話が残されています。剣を持った神の使いが立ち塞がっているためにロバはあえて道をよけたのですが、それが見えてない主人のバラムはロバを鞭で打った、というものです。
『ライフ・イズ・ミラクル』におけるロバは失恋により絶望して、自殺未遂を繰り返すというこれまた奇天烈な設定ではありますが、ボスニア紛争における人間同士の争いを傍らで静かに見つめ、最後には主人公を救う存在として描かれます。ここにも「愚か者」と「真実を目撃する聖なる存在」という両義性が明確に提示されているのです。

まとめ

 『リア王』および『乱』における道化師、『白痴』のムイシュキン侯爵、『ライフ・イズ・ミラクル』のロバなどは社会的に劣った存在であるとされながらも、同時に、常人には見ることのできない世界を有し、それを語ってきました。このように両義性のある存在が秩序だった世界に登場するとどうなるでしょうか。
中世のヨーロッパでは「愚者の祭り」または「ロバの祭り」というものが行われていましたが、こういった祝祭の場においては身分に関係なく、自由な言葉、無遠慮な言葉を発することが許されていました。それは冒頭で述べた「知恵のある者になるために愚かな者になりなさい」という聖書の言葉が示すように、祭りの期間だけ聖職者の普段の関係性を転倒させてキリストのための愚者となることが奨励されていたからです。そしてこのようなカーニバル的な場においては、すべてのヒエラルキーや不平等といったものが取り払われて、人間関係の新しい様態が作り出されることになります。ロシアの文芸批評家であるミハイル・バフチンはこれを「絶対的に異質で共存不可能と思われる諸要素の驚くべき結合」とした上で、次のように述べています。

カーニバル的形象というのは、誕生と死、青春と老年、上層と下層(略)といった生成の両極、あるいはアンチテーゼの両項を自らの中に取り込み、結合しようとするものであり、(略)すなわち両極端が互いに出会い、互いを互いの中に見出し合い、反映し合い、知り合い、理解し合っているのだ。
『ドストエフスキーの詩学』ちくま学芸文庫 望月哲男/鈴木淳一訳

 つまり作中の人物が(または読者である私たちが)愚か者と出会う時、すべての社会的制約は解体され、相対化されます。そして自己と他者のあらゆる距離が取り払われ、同等の接触交流を経ることで、新たな関係性が構築されていくのです。人と人とが出会い、深い層で関わり合う時、私たちは自己の内で何かが崩壊し再構築されていくことを実感するはずです。多種多様な存在が共存し、互いに異なった響きを融合させること、つまり様々な声の相互作用を実現させる試みこそが、文芸作品に課せられたひとつの重要な使命と言えるかもしれません。

初出:P+D MAGAZINE(2019/07/08)

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◎編集者コラム◎ 『永遠に解けないパズル』市川拓司