辻堂ゆめ「辻堂ホームズ子育て事件簿」第20回「29歳母の試練」

辻堂ホームズ子育て事件簿
生後10ヶ月の息子が
ウイルス感染で入院!?
次々と思わぬ試練が。

 かかりつけ医で入院の可能性を告げられたときから、私は覚悟を決めていた。子どもが最近入院した経験のあるママ友や、小児科病棟で看護師として働く友人から、乳幼児の入院中は親の付き添いが必要で、体調も機嫌も悪い子どもの面倒を見ながらベッド脇のソファで寝起きする生活は相当に過酷だという話を聞いたことがあったからだ。明日の編集者との打ち合わせはキャンセルしなきゃ、ラジオの収録は延期できるかな、執筆スケジュールも組み直して、連載の〆切を延ばせるか相談してみよう──しかし救急外来の小児診察室で医師にこう告げられ、私の思考は一瞬、完全停止した。

「コロナ対策のため、入院中はお子さんに会えなくなります。付き添いも面会も一切禁止です。ご了承ください」

 渾身の力を込めて振ったバットが空振りしたような。教本どおりの姿勢を作って思い切り打ち返そうとしたバレーボールが、不意に軌道を変えて指先をかすめていったような。

 そんな顛末は、想像もしていなかった。友人知人から事前に情報を得ていたこともあり、いくらコロナ禍でも小児科は対応が別だと思っていたのだ。のちに友人の看護師に訊いたところ、感染対策の方針は病院によって大きく異なるようだった。

 夜の20時半近くに、疲労困憊で救急センターを後にした。行くときは息子を抱いていたのに、帰りは一人。粛々と入院手続きをこなさなければならなかったせいか、点滴の管を腕に通されたまま眠っている先ほどの息子の姿を思い出しても、心の内は妙に冷静で、涙も出ない。誰もいない真っ暗な駐車場で、「なんだよ入院かよぉ、寂しいよぉ」とだけ、投げやりに呟いた。帰宅すると、娘を寝かしつけた夫が料理を温めて待ってくれていた。夫が前日に作ってくれていた鶏肉と大根の煮物が、驚くほど沁みた。

 息子を出産するときは、コロナのせいで家族との面会が不可となり、娘と1週間近く会えずにつらい思いをさせた。あれから1年も経たずして、今度は息子を同じ目に遭わせてしまった。いや、本人は性格も穏やかだし、人見知りもあまりひどくないから、病院の環境にすんなり適応するかもしれない。試練を与えられているのは、むしろ親の私なのかもしれなかった。

 忙しくなるどころか、普段息子のお世話に充てていた時間がぽっかりと空いてしまった。保育園に登園させる前の朝の準備も、寝る前のお風呂や歯磨きも、半分以下の時間で終わってしまう。娘だけ保育園に預けて息子は家で面倒を見る予定だった日も、集中を切らすことなく、たっぷり執筆に時間を費やすことができてしまう。編集者との打ち合わせも、ラジオの収録も休む必要がない。息子のお世話をさせてもらっている気分になれるのは、毎日お昼ごろに小児科病棟に荷物を届けにいくときと、持って帰ってきた汚れ物の服を洗ってピンチハンガーに吊るすときだけ。

 物理的に忙しくし、短い時間に多くのタスクをこなすのは、正直得意だ。その点、この宙ぶらりん状態は、生まれて初めて経験するものだった。息子が入院したことで、予期せず日常のタスクが減り、時間に余裕が生まれた。楽だなぁ、とどうしてもふと思ってしまい、そう感じた自分に腹が立つ。しかし病院に駆けつけられるわけではないのだから、その罪悪感には何の意味もない。解決策もない。


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辻堂ゆめ(つじどう・ゆめ)

1992年神奈川県生まれ。東京大学卒。第13回「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞を受賞し『いなくなった私へ』でデビュー。2021年『十の輪をくぐる』で第42回吉川英治文学新人賞候補、2022年『トリカゴ』で第24回大藪春彦賞を受賞した。他の著作に『コーイチは、高く飛んだ』『悪女の品格』『僕と彼女の左手』『卒業タイムリミット』『あの日の交換日記』など多数。最新刊は『二重らせんのスイッチ』。

著者の窓 第20回 ◈ 鈴木エイト『自民党の統一教会汚染 追跡3000日』
「心地よい老後の過ごし方~佐藤愛子、五木寛之ほか人気作家による暮らしのエッセイ4選」