辻堂ゆめ「辻堂ホームズ子育て事件簿」第23回「侮るなかれ、マタニティブルー」

辻堂ホームズ子育て事件簿
周囲の妊娠ラッシュで
知った「産後ケアホテル」。
これからは一般的になるのかも?

 実際にホテルでの生活の様子を目の当たりにしてみて、初めて聞いたときと印象が大きく変わった。1か月で100万? 全然高くない。いや、もちろん100万は大金なのだけれど、マタニティブルーや産後鬱の危険があり、ただでさえ出産のダメージを引きずっていて、ほんの少しでも雑に扱ったら壊れてしまいそうな新生児を抱えているあの不安な時期を、様々なリスクを極限まで減らした状態で過ごせると思えば、やっぱり安すぎるくらいに思えるのだ。多くの日本人カップルは、結婚式の1日に300万や400万ものお金をかける。つまり、これは文化の差でしかないのだ。結婚式の300万を、もしくは産後ケアホテルの100万を、それぞれ人生の重要な局面における必要経費と捉えるかどうか。その考え方が、日本と他の東アジア圏とで違うだけ。

 別に私は海外志向というわけでも、ホテルの回し者でもないのだけれど、この文化は素晴らしいと心の底から感動してしまった。日本でも、もっと一般的になればいいのに。最近は祖父母世代も現役で共働きしていることが多く、妊婦が里帰りを諦めたり、帰るべきか悩んだりするケースを周りでもよく見る。そんなときに、例えば両家でお祝い金を出し合って、産後ケアホテルの宿泊費に充てることができたら? もしくは国の補助金が出て、割安で利用できるようになったら? 子どもを産んだらリゾートホテルに1か月泊まれるということになれば、少子化だって改善するんじゃないか──というのはさすがに暴論なのだろうけれど、少なくとも今、私はこの情報を知ることができてよかったと感じている。「母親が何とかする」以外の道は、一つでも多くあったほうがいい。こうした選択肢があるということを、誰も彼もが頭の片隅に置いておくだけで、これから身の回りで妊娠する女性たちの助けになるんじゃないかという気がするから。

 さて──私のホルモンバランスを史上最も乱れさせた第1子の娘は、3歳を目前にしてスムーズにコミュニケーションが取れるようになってきた。「●●ちゃん、ママのこと好きー?」と尋ねると、ニコニコしながら「●●ちゃん、どーなちゅ、すきー」と返してくれる。根気よく「●●ちゃん、ママ、好きー?」と問いかけ続けると、ちょっと考えた様子を見せてから、「ママ、あいしゅくりむ、すきー」と笑ってくれる。こういうのは言わせるもんじゃないとは分かっているけれど、むむ、ドーナツに負けたのはけっこう悔しいぞ。

 子どもと過ごす毎日は幸せだ。その幸せな日々を得るためには、乗り越えるべき試練がある、という考え方もできよう。分娩の痛みや、新生児の24時間育児がそれにあたる。でも、苦しい思いをした分だけ後から報われる……というような考え方は、今の時代にはあまり合わない気がする。新入部員の球拾いとか、新入社員の地獄の研修とか、そういう〝意味のない努力〟が淘汰されつつある令和の世では、出産や育児だって、無駄に頑張る必要はないはずなのだ。先進技術やお金の力で苦しみを減らせるなら、そうしたほうがいい。だって、苦しみを除去したところで、後から得られる幸せの体感値は、絶対に減ったりしないのだから。

(つづく)


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辻堂ゆめ(つじどう・ゆめ)

1992年神奈川県生まれ。東京大学卒。第13回「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞を受賞し『いなくなった私へ』でデビュー。2021年『十の輪をくぐる』で第42回吉川英治文学新人賞候補、2022年『トリカゴ』で第24回大藪春彦賞を受賞した。他の著作に『コーイチは、高く飛んだ』『悪女の品格』『僕と彼女の左手』『卒業タイムリミット』『あの日の交換日記』など多数。最新刊は『二重らせんのスイッチ』。

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