椹野道流の英国つれづれ 第1回
とにかく春の終わり、ようやく準備万端整えた私は渡英し、ブライトンの、語学学校の提携先である簡易ホテルに落ち着きました。
本来なら、ホームステイをして、現地の家族のお世話になりつつ、リアルな家庭生活の一端を体験するのがよいのかもしれません。
でも高校時代、アメリカでひと夏の悲惨なホームステイ生活を過ごした経験がある私としては、どうしてもホームステイは避けたかったのです。
簡易ホテルというのはいわゆるB&Bのことで、ベッド&ブレックファーストと呼ばれる、民宿のようなものでした。
ほとんどが一般家庭の空き部屋を旅行者に貸してくれる感じで、朝食がつきます。朝食の充実度は、宿次第、運次第といったところ。
貧乏留学ゆえ、朝にしっかり食べ、昼と夜は簡単に……という生活がしばらくは続きそうなので、朝食つきは大いに助かります。
とはいえ、長期滞在しては、そう豊かではない路銀がピンチ。
本来なら、最初の週末にさっそく不動産業者を訪ねるべきだったのですが、私はそうしませんでした。
とある特別なミッションがあったからです。
実は、数少ない大学の友人に留学のことを打ち明けたところ、Kという女性の同級生が、「えー、ブライトン!」と声を弾ませたのです。
なんでも彼女は去年の夏、語学留学で1ヶ月、ブライトンの隣町のとあるお宅に滞在したのだそうです。
そのときのホストファミリーにとてもよくしてもらったので、是非、プレゼントを届けてほしい。
それが、彼女の望みでした。
今と違って、インターネットでプレゼントを手配、などという簡単な方法がない時代のことです。
小包を送りたい気持ちはあれど、贈り物に添えるお手紙を書くのがどうにも厄介で……と恥ずかしそうに打ち明ける彼女の気持ちがよくわかったので、私はメッセンジャーの役目を引き受けることにしました。
渡英直前に彼女からプレゼントを受け取り、大事に手荷物でブライトンまで運んできて、さてと。
本当は、ブライトンでの生活が落ち着いてから届けにいこうと思っていたものの、やはり部屋の中にプレゼントの包みがあると、どうにも気に懸かるのです。
きっとKは、ホストファミリーからの喜びのメッセージを楽しみに待っているでしょうし、いつ届けてくれるのだろうか、ちゃんと行ってくれるだろうかと心配もしているかもしれません。
私のほうも、これから住み処を見つけ、荷物を持って移動するわけで、そのときに万が一にも、壊したりなくしたりしてしまっては困ります。
ええい、もう、ちゃっちゃと持っていってしまおう。
隣町と言っていたから、きっと近いに違いない。なんなら歩いて行けるかも?
そんな風に考えた私は、小さな勇気を振り絞り、ホテルのロビーにある公衆電話から、Kの元ホストファミリーに電話をかけてみました。
さすがにアポイントメントなしで、いきなり「お届けもので~す」と訪問するのは如何なものかと思ったからです。
ヴーッ、ヴーッ、という独特の呼び出し音が3回鳴ったところで、〝Hello?〟 と、柔らかな女性の声が受話器から聞こえてきました。
それこそが、私の、3人目の祖母と呼ぶべき人物との出会いの瞬間でした……。
兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。