吉川トリコ「じぶんごととする」 15. きれいに踊りたかっただけなんじゃねえの?(前編)
作家・吉川トリコさんが自身の座標を定めてきた、あるいはこれから定めようとするために読んだ本を紹介するエッセイです。
私はしあわせだ。
愛する夫や推しがいて、好きな仕事をして、ひとまずは健康で、さしあたって困窮もしておらず、決して多くはないけれどこの先ずっとつきあっていきたいと思える友人が何人かいて、満ち足りた暮らしをしている。
しかし、そんな私でも情緒が乱れ、不安と焦燥でいてもたってもいられなくなるときがある。
新刊が出たときである。
売れなかったらどうしよう。酷評されたらどうしよう。おもな不安といえばこのあたりだが、もっとおそろしいのは無視されることだ。褒められることもなければ酷評さえされず、新刊が出たことに気づかれもしないでそのまま返本され断裁されてしまうこと。何度も経験しているけれど、いまだにおそろしくて想像するだけで手足が凍る。
単行本がびたいち売れなかったとしても出版社によっては文庫にしてくれたりもするし(なんと慈悲深い……)、図書館や古本や電子書籍などで作品は細々と読み継がれていくが、作家としてはファウルをひとつ食らったも同然である。ファウルがいくつか重なるとアウトになる。つまり、その出版社から新刊が出せなくなってしまう。
すでに私はいくつかの出版社からアウトを食らっている。いまつきあいのある出版社にもそれぞれまあまあのファウルが溜まってきている感触がある。なにせ二十年来低空飛行でこの業界にしがみついてきた万年初版止まり作家である。重版がかかることなんてめったにないし、単行本の重版にいたっては二年前に刊行した『あわのまにまに』ではじめて経験した。それでも各出版社の担当編集者たちから愛されてはいるので、みな懲りずに依頼をくれたりする。いいかげん報いたいよ! どうしたらいいの!
単に力が及ばなかったのであれば、次はもっといい作品を書けるように努力すればいい。しかし、無慈悲なる資本主義の世界では売れないと次がないのである。
とはいえ、「いい作品」ってどういう作品のことを指すんだろう。溜まってきたファウルゲージをチャラにするためには、「売れる作品」が「いい作品」ということになるのだろうが、たった一人の読者の胸に深く杭を打ったとしてもほかの九十九人に無視されたらそれは「いい作品」ってことにはならないんだろうか。売れなくても書評家や編集者や同業者──「文壇」ってものに高く評価され、新聞や雑誌で絶賛される作品もあるし、文学賞を獲る作品だってある。だけど「文壇」──権威に評価されることばかりに目が向いていたら、肝心の読者を置いてけぼりにしてしまうのでは? それって評価を評価してるってことにならないの?
考え出したらよくわからなくなってきた。さまざまな物差しがある中で、客観的に自分の能力を見定めて適正な自己評価をくだすのは容易なことではない。校了まで何度もしつこく手を入れて、そのとき出せる力を尽くして世に出す作品である。著者として自信がないわけではないが、確信が持てないから不安でしかたがない。それが刊行直後の私の心境である。
市場や読者や「文壇」の評価にさらされることの無情さは計りしれない。昨日まで100だった自己評価がネットで酷評されているのを読んで5まで下がったり、そうかと思ったら重版がかかって40ぐらいまで巻き返したり、とにかく乱高下する。刊行直後のジェットコースターがしんどくて腐っていたときに、担当(か)氏に「エゴサやめろ」と𠮟られてからというもの、読書メーターやブクログを見るのをやめたら多少は落ち着いたが、それで不安が完全に消えるわけでもない。
売れている作品がどれも優れているかといったらそういうわけでもないし(ただし売れているだけの理由はあると思う)、売れていない作品の中にも素晴らしい作品はたくさんある。読者が百人いたとして、百人全員が手放しで「面白い!」と絶賛するような小説なんて存在しない。仮にそんな本が存在したとしたら「気味が悪い」と私なんかは思ってしまうので、つまりぜったいに存在しえないことになる。
ジェットコースターに乗せられているときは視野が狭くなって、こんなあたりまえのこともわからなくなる。そもそも「売れ」や「褒め」など、他者の物差しで作品の良し悪しを計っていること自体に問題があるのだが、そこへ第三の矢「文学賞」が飛んできたりすると、もうほんとうにわけがわからないことになる。こっちはそんなレースに参加したつもりなんかなかったのに、いつのまにか障害物だらけのコースをジェットコースターで走らされているみたいなわけのわからなさである。ボタンを押すと矢が飛んできたり大きな岩が転がってきたりして危うく瀕死状態! どうしたらいいの! だれか助けて!! 私をあのしあわせで満ち足りた日々に戻して!!!
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