吉川トリコ「じぶんごととする」 16. きれいに踊りたかっただけなんじゃねえの? 後編

じぶんごととする 16 きれいに踊りたかっただけなんじゃねえの? 後編

作家・吉川トリコさんが自身の座標を定めてきた、あるいはこれから定めようとするために読んだ本を紹介するエッセイです。


 三月に新作長編『裸足でかけてくおかしな妻さん』を刊行した直後、私の情緒はいつものようにジェットコースターにぶんまわされていた。

裸足でかけてくおかしな妻さん

『裸足でかけてくおかしな妻さん』
吉川トリコ
新潮社

 この無間地獄をどうにかしたいと考え、藁をもつかむような思いで哲学の入門書を何冊かつまむように読んでみたのだが、「どうせいつか死ぬんだから、いまは目の前の嵐をただ静観していろ」と言われているようで一瞬気が遠くなりかけるものの、またぞろ卑近な悩みが頭をもたげる、ということのくりかえしだった。

 ──いまこそアドラーなのでは? 

 数年前のブームの際にはまったく目もくれなかったのに、なぜか天啓のように思いついたのはそんな折のことであった。

嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え

『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え
岸見一郎、古賀史健
ダイヤモンド社

 そうして大ベストセラー『嫌われる勇気』(岸見一郎、古賀史健による共著)を読んだ私は、ついに心の平穏を取り戻し、〈前編〉の冒頭で語っていたとおりのしあわせな日々に戻ったのであった。

―完―

 

 いや待て。こわい。この結びはさすがにこわすぎる。

 アドラー心理学は宗教と間違われることがよくあるらしいのだが、アドラーをキメた直後の人がこうなりがちなところに起因しているのかもしれない。

『嫌われる勇気』はフロイト、ユングと並び「心理学の三大巨頭」と称される、アルフレッド・アドラーの思想(アドラー心理学)を、青年と哲人の対話形式でまとめた一冊である。発売して十年以上経つのにいまだ版を重ね、ベストセラーの上位につねにランクインし、国内だけでも三百万部、全世界では千三百万部を突破している。『人生がときめく片づけの魔法』のときにも思ったが、これほど超ド級のベストセラーともなると、若干の奇書感があるというか、脳をハックしてくる力がものすごいので、これはキマる……キマッてしまう……とおののきながら読み進めていくことになった。

【トラウマは、存在しない】【人は怒りを捏造ねつぞうする】【あなたの不幸は、あなた自身が「選んだ」もの】【あなたの人生は「いま、ここ」で決まる】【すべての悩みは「対人関係の悩み」である】【劣等感は、主観的な思い込み】【人生は他者との競争ではない】【承認欲求を否定する】【ここに存在しているだけで、価値がある】【人はいま、この瞬間から幸せになることができる】

 目次から小見出しを抜き出しただけでも迫力が伝わるだろうか。現状、世界で「常識」とされていることを鮮やかな論理で次々に覆されていくと、マインドコントロールってこういうかんじなのかもな……とどうしても思わずにいられない。

 実際のアドラー心理学ではなにかを否定したり断定したりするようなことは推奨されていないようなのだが、本書ではトラウマも承認欲求もばっさりと否定する。どうやら熱心なアドレリアン(アドラー心理学を実践する人たち)のあいだでは賛否両論、誤解を招きやすい本という位置づけのようだ。入門書にして劇薬の香りがするところも、『人生がときめく片づけの魔法』に似ている。だからこそ、キマる人はめちゃくちゃキマるのだろう。

 そうだ、他者からの評価や承認なんて必要ない! 他者からの承認を必要とするかぎり、人は自分の人生を生きられない! 他者を評価するとき、その物差しを人は自分にも向ける。自分を苦しめているのは自分なのだ! 人間には上も下もないのだから、他者と比較したり競争したりしているうちはしあわせになれない! 他者の人生ではなく自分の人生を生きるために、ありのままの自分を受け入れ、共同体感覚を身につけ、この先もしゅくしゅくと努力し、よりよく生きていこう……!

―完―

 

 かくして私も、ちょっと気を抜くとすぐにキマッた目で結んでしまうようになってしまった。どうしよう、いいかんじに要約しようとすればするほどやばめの自己啓発っぽさがにじみ出てしまう……!

 とはいえ、アドラー心理学はインストールしたからといって即実践できるほど生易しいものではないようだ。私自身、まだ完全に理解できているとは言えない。だからこそ、『嫌われる勇気』の続編かつ実践編でもある『幸せになる勇気』が書かれたのだろう。百人のフェミニストがいたら百通りのフェミニズムがあると言われているのと同じように、百人のアドレリアンがいたら百通りのアドラー心理学があるとも言われている。


吉川トリコ(よしかわ・とりこ)

1977年生まれ。2004年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。2021年「流産あるあるすごく言いたい」(エッセイ集『おんなのじかん』所収)で第1回PEPジャーナリズム大賞オピニオン部門受賞。22年『余命一年、男をかう』で第28回島清恋愛文学賞を受賞。2023年『あわのまにまに』で第5回ほんタメ文学賞あかりん部門大賞を受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『戦場のガールズライフ』『少女病』『ミドリのミ』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記』シリーズ『夢で逢えたら』『流れる星をつかまえに』『コンビニエンス・ラブ』『裸足でかけてくおかしな妻さん』など多数。
Xアカウント @bonbontrico


 

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