椹野道流の英国つれづれ 第36回
言葉にしては言わないものの、話し終えるなり動いた彼の手は、明らかに「お帰りください」のアクションで、さっき私たちが入ってきた扉を示しています。
「どうにか口座を開設できる手段はないんですか? もっと上の方に交渉させていただくわけには」
それでも食い下がるアレックスに、銀行員は冷ややかに肩を竦めました。
「ボスと話していただいても、同じことです。これは当銀行のルールですので」
取り付く島がないとは、このことです。
憤懣やるかたない様子で、アレックスはボソリと「……わかりました」と応じ、私を見ました。
当事者の私があまりのことにぼんやりしてしまっているので、アレックスが私の分まで怒ってくれているようです。
「ダメ、なんだ?」
「うん。これ以上話しても意味がない。行こう」
短くそう言って、アレックスは私の背中を抱くようにして外に連れ出しました。
「違う理由で、ダメだったね」
近くのカフェで、アレックスおすすめのホットチョコレートを飲みながら私がそう言うと、アレックスは山盛りのクリームに突き刺さったチョコレートのフレーク状のバーをぽりっと齧り、顰めっ面で頷きました。
「まさか、バークレイズ銀行もダメだなんて。しかも、あんな理不尽な理由で! 政府は、留学生には働くなと言う。銀行は、働かないなら口座は開けないと言う。どうしろっていうんだ」
本当に。
ゾッとするほど大量の生クリームの下には、熱々のホットチョコレートがカップの縁ギリギリまで満たしています。
それを吹き冷ましながら、私も頷きました。
「どうして、そんなに口座を開くのを嫌がるんだろう。お金さえ受け取れたら、この国で働かないでいいんだから、そのほうがいいよね?」
「勿論だよ。君の言うとおり。バークレイズ銀行がクソなんだ」
珍しく、控えめではあるけれど罵倒の言葉を口にして、アレックスはすぐに「失礼」と謝ってくれました。
たぶん、語学学校の職員として、英語を学びに来た外国の生徒たちに、決して汚い言葉を聞かせない・教えないよう厳しく指導されているに違いありません。
「でも、個人が粘っても銀行のルールは変わらない。確かに、さっきの彼の言うことは正しいんだ。だから、バークレイズは諦めよう。明日、最後の銀行に望みを掛けよう」
そう言って、アレックスは骨張った長い中指を、真っ直ぐ伸ばした人差し指にヒョイと絡めました。
この国に来てから覚えた、指で十字架を作る仕草です。
その意味は、「幸運を祈る」、いわゆる「グッド・ラック」のサイン。
同じサインを返しながら、私はどんよりした不安が胸を埋め尽くしていくのを感じていました。
兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。