椹野道流の英国つれづれ 第38回
目的地は、イギリス最大の銀行、「ナット・ウエスト」こと、ナショナル・ウエストミンスター銀行。
今は閉鎖してしまったようですが、かつてはエキゾチックで美しい、ブライトンの看板ともいうべき宮殿「ロイヤル・パビリオン」のすぐ横に、何とも古風で素敵な店舗を構えていたのです。
深呼吸をひとつしてから、重厚な木製の扉を開き、私はひとりで、銀行の中に足を踏み入れました。
うわー!
これは、アレだ。映画「メリー・ポピンズ」で見た、「お父さん」の職場だ!
まさに、クラシックな映画そのものの、古式ゆかしきイギリスの銀行の佇まいが、私の目の前に広がっていました。
高い天井。素敵なアールデコのシャンデリア。
優雅な曲線を描く、木製の長いカウンター。
スマートなスーツを着て、カツカツと固い靴音を響かせる銀行員たち。
明らかに、先のふたつの銀行とは違う、クラシックな高級感に満ちた空間です。
待って。聞いてない。
こんなに上品でハイソな場所だなんて知らなかった!
間違いなく、今、ここにいる私は、絵に描いたような「場違い」です。
どうしよう。
いっぺん外に出て、ちょっと気持ちを落ち着かせようか。
うん、そうしよう。一時撤退!
と、踵を返したそのとき。
〝May I help you, Madam?〟
という声が、背後から聞こえました。聞こえてしまいました!
「いらっしゃいませ、お客様」と!
ギギギ……と音がしそうなぎこちない動きで振り返ると、そこには、まだ若い、男性銀行員が爽やかな笑顔で立っています。
どう見ても「マダム」という柄ではない小娘に、丁重なご挨拶をどうもありがとうございますッ。
ああもうー! せめて心の準備をさせてーッ!
動揺し過ぎて、もう何日も、「こう会話を進めよう」とシミュレーションし、準備していた言葉たちは脳からすっぽ抜けました。
こうなったら、もはや出たとこ勝負というやつです。
考えるな、感じろ……じゃなくて、日本語で考えるな、英語で考えろ!
心の中で自分自身を叱咤激励し、私は、目の前でじっと私を見つめている銀行員に、用向きを伝えようとしました。
いえ、伝えるつもりだったのです。
なのに、実際に私の口から出たのは……。
〝Please help me!〟 という、ビートルズもかくやの情けない懇願だったのでした……。
兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。