椹野道流の英国つれづれ 第8回
そういえば、「いただきます」の表現、英語にはなかったんだっけ、いきなり食べていいのかな……という私の躊躇いに気づいたのか、彼女……ジーンは、悪戯っぽく青い目を光らせてこう言いました。
「日本人は、食事の前後に挨拶をするのよね? 知ってるわ。でも、そういうの、私たちにはないの。教会には行くけど、お祈りの習慣は我が家にはないから。だから……こういうときは、『ボナペティ』って言うのよ」
私はキョトンとしてしまいました。それは、英語じゃなくて……。
「そう、フランス語。イタリア語の『ボナペティート』でもいいわね。召し上がれ、って言うのは悪くないフレーズだと思わない?」
「思います。日本でもよく言います」
「でしょ?」
「でも……イギリスの人は、フランスのことがあまり好きじゃないのかと思ってました」
私の正直なコメントに、ジーンは噴き出しました。そして、額の汗を拭う仕草をしてみせました。
「そこはまあ……色々複雑ね。この国とフランスの間には、色んな歴史があるから。でも、フランスの何もかもが嫌いなわけじゃないわよ。食事は美味しいし、お酒は安いし! まあ、『トムとジェリー』みたいな関係よ」
「なるほど!」
「というわけで、ボナペティ」
改めてそう言って、ジーンはフォークで肉団子をグサリと刺し、添えてあるソースをたっぷりつけて頬張りました。
「ぼ……ぼなぺてぃ」
いかにも不器用に挨拶を返し、私も真似してみます。
肉団子は、おそらく豚肉。日本のものとそう変わりませんが、ふんだんに添えられたソースが……これは……もしや、ジャム? いや、まさかね。
濃い紫色の、やたら粘度が高そうなソースのほうには、見覚えがありません。
でも、せっかく出してくださったものを、怖々食べるわけにもいかず、私もジーンのように肉団子にたっぷりソースを絡め、頬張ってみました。
いやいや待って待って、やっぱりこれ、ジャムやん……!
おそらくはベリー系の爽やかな酸味もありつつ、やっぱり甘いのです。
今でこそ、日本でも、「お肉にベリーの甘いソースを合わせる」ことはそう珍しくなくなってきましたが、何しろ30年前の話です。
今なら IKEA で普通に提供されている、例の北欧風の肉団子を食べる機会など、日本にいてはほぼなかったのです。
しょっぱい肉団子に甘いジャムって!
口の中がビックリしています。しかし、咀嚼するほどに、美味しさが感じられるようになってきました。
これ、不思議に美味しい! 合う合う!
そういう心の動きが、きっと顔にそのまんま出ていたのでしょう。
ジーンは面白そうに笑って、「美味しい?」と訊いてくれました。
兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。