源流の人 第40回 ◇ 稲田俊輔(料理人、飲食店プロデューサー、南インド料理店「エリックサウス」総料理長)

源流の人 第40回 ◇ 稲田俊輔(料理人、飲食店プロデューサー、南インド料理店「エリックサウス」総料理長)

日本人の舌を因数分解する
新時代の料理人

 パラッパラで羽のように軽い食感のバスマティーライスを、マトンあるいはチキン、そしてスパイスたっぷりと共に炊き上げた「ビリヤニ」。鼻を直撃するスパイスの香りと、米の芯まで染みとおる深い旨味。今、この南インド料理が日本で大人気だ。料理人・飲食店プロデューサーのいなしゅんすけは、2011年に東京・八重洲に南インド料理店「エリックサウス」を開店。「ビリヤニ」や「ミールス」に代表される南インド料理を日本に広めた立役者である。新刊『異国の味』(集英社)では、開国以来、世界各国の料理が日本にどのように受け入れられていったのか、その歴史と現在をつぶさに記している。日本人の「舌」の現在と未来はどうなっているのか。新時代の料理人に会いに行った。
取材・文=加賀直樹 撮影=松田麻樹

 東京・渋谷区神宮前。明治通りに面したビルにある南インド料理店「エリックサウス・マサラダイナー神宮前」のドアを開けると、すぐに豊かなスパイスの香りが漂う。『異国の味』を読むと、まず、専門であるインド料理への深い造詣に驚くのは勿論のこと、各国料理がどのように日本に受け入れられ、取り込まれていったか、その道程と歴史が精緻にまとめられている。店で迎え入れてくれた稲田はこう語る。

「書いている途中で、ふと思ったのは、『俺、ずっと同じこと書いていないか?』と。対象が中華料理であれ、イタリアンであれ、同じことを繰り返して書いている気がしたんです」

稲田俊輔さん

 新しい料理が日本に入ってくる。それが受け入れられたり、すぐには受け入れられなかったりする。料理人は、「何とか受け入れてもらおう」と、試行錯誤を重ねていく。ところが、日本人の舌に迎合しすぎるあまり、その国独自の料理の本質から離れてしまう──。

「その葛藤、ジレンマに悩む。もう、結局のところ、国が変わっても、基本的な食文化の伝播の構造は変わらないんだっていうことに、改めて気づきました」

外国料理を「魔改造」する日本人

 それでは、その「基本的な食文化の伝播の構造」とは、どんなものなのか。
 まずはその国の料理のコアなファン、稲田が言うところの「ガチのファン」が、その国の料理が味わえる店がオープンすると、殺到する。そしてとにかく盛り立てる。その反応に喜んだ料理人が、より「ガチ料理」を求めたメニューを追求していく一方で、今度は地元地域の一般市民たちが、「あれはちょっと……」と敬遠してしまう。結果としてお客が増えない。「ガチのファン」だって毎日、店を訪れてくれるわけではない。閑古鳥が鳴き始め、慌てた料理人は、地域の一般市民たちのことも考え、日本人向けに味付けを変えていく。すると、軸足が定まらなくなり、どんどん迷走が始まっていき閉店へと──。

「だから正解がないんですよね。誰も別に間違っていないわけで。正解がないからこそ、試行錯誤せざるを得ないんです」

 本の各章で登場する料理は、じつに多彩だ。中華、ドイツ、フランス、タイ、ロシア、イタリア、スペイン、アメリカ、インド料理と続いていく。たとえば中華の章では、「ガチ中華」や「町中華」、「大陸系デカ盛り」の歴史と現在について。それからインド料理の章では、黎明期からグローバルインド料理、老舗高級店、低価格店、インド・ネパール系、そして稲田が展開する「ガチ系反撃インド料理」に至るまで……といったように、どのように日本に伝播していったか、あるいは拒絶されていったか。さもなくば、生き延びていったのかを論理的に分析していく。

 同書を読み通して、随所から伝わってくるのは、日本人の、食における「魔改造」への執念がいかに凄まじいか、という点だ。味の好みに寄せ、「魔改造」を施し、なんとか、自分たちの舌に落とし込んでいく。稲田は語る。

「日本人は、旨味が大好きで油が苦手。日本にあるあらゆる外国料理には、旨味を増して油を減らす『魔改造』がなされています。和食そのものが、基本的には油をほぼ使用しない、世界でも超珍しい料理体系。あと、と発酵調味料の旨味をふんだんに使っています。あらゆる料理を、和食という、世界でも稀な文化に寄せよう、寄せようとしてきたんだと思います」

稲田俊輔さん

 ペリーに促され、開国して170年。いろんな料理が入ってきつつも、結局は「和食原理主義者」であるということか。そう問うと、稲田は首を横に振った。

「料理人たちの長年の努力の結果、今の日本人の舌には許容できる幅がどんどん広くなっています。昔は、ちょっとでもバターが入っていたら、バタ臭いと敬遠していましたが、今は、材料の10%ぐらいまでは許容されるようになりました。でもフランスのように、バターが50%になってしまうとまだ駄目かも。でも、徐々に、許容の幅は広がっているのです」

 思えば、スパイスやハーブも同様だ。クミン、カルダモン、コリアンダー。ひと昔前にはその名前すら知られておらず、需要など考えられなかったような香りが、いつの間にか受け入れられている。パクチー、バジル、レモングラスだってそう。出汁の旨味を控えることに対しては、相変わらず抵抗し続けてはいるものの、変化自体は遂げている。軸足は和食から離れずに、足をどんどん延ばしている。

「すごく日本人、足が長くなっているかもしれません(笑)」

 この本は、集英社のサイトで続く連載をまとめたものだ。連載中、あらゆる職業の読者から言われたことがあるという。

「『これは食について書かれているけれど、自分たちの業界も同じような問題点や、過去の経緯を抱えています』って。それこそ音楽や演劇、もちろん出版、あとファッション。自動車メーカーさんからの声もありました。ありとあらゆる業種の、異業種の人たちから異口同音に言われました」

稲田俊輔さん

 食の世界だけにとどまらず、新しい文化を発見し、それを国内で広めていく過程では、同じようなことが起こっている、ということを実感したという。

東京の味はサブカルチャー

 ところでこの本には、もう一つ、特筆すべき章がある。それは最後の章「東京エスニック」だ。「東京がエスニック?」。ほとんどの読者は見慣れない定義だと思うのだが、読み進めると、「そうか、そういう見方があるのか!」という新たな発見に満ちている。詳細は、本書を読んでもらうとして、本稿の筆者は読了後、「かんぴょう巻」をほお張りながら、「そうか、これも『東京エスニック』の味なのか」と新鮮な感動を覚えた。稲田は笑って言う。

「そうなんです。鹿児島出身の自分にとっては、東京がそもそも異国だったので。これまでエスニック料理に向き合ってきたのと、完全に同じロジックで、東京の味に向き合っている自分に気がついた。『東京こそ異国だ』って気づいた感じですね」

「東京の料理こそ異国である」。稲田が明確に意識したのは10~15年前のことだったという。

「東京で昔から普通にある寿司やうどんを食べるうちに、最初は単なる違和感で、『ほかの地方とどうも味が違うな』と。何となく、ざわっとした違和感だったんですけど、だんだんその違和感そのものが面白くなっていったんです。『これは、かつて自分がタイ料理やインド料理と出会って、はまっていった過程と全く同じルートをたどっているな』って感じました」

稲田俊輔さん

 本の中で稲田は、「東京の人たちは油断している」と表現している。まさか自分たちが「エスニック少数派」側だなんて、東京の人はつゆほども思っていない。日本では常に中心に位置し、東京から全てのものが地方に向けて発信されると信じている。

「何となく、東京にあるものは当たり前のものって思い込んでいるところがある。特に和食の世界ですね。面白いのは、実は、和食の世界を制覇したのは、歴史的に見ても関西の料理なんですね。関西の味が、むしろ、日本のナショナルブランド。必然的に、東京の食はサブカルチャー的になっていく。そのことに皆さん、あまり気づいていない」

 そもそも関西風の味付けは、割烹や料亭といった「ハイエンド」の高級料理にルーツがある。かつては、日本全国、さまざまなローカル料理があったが、流通の発達やメディアの影響によって「ハイエンド」の関西の味と、庶民ローカルの世界の隔たりが次第に薄くなっていった。以前は、それぞれの土地で採れた季節の野菜を、その土地の地味噌で煮込んだだけの料理を食べていたのが、「ハイエンド」の和食に近づいていった。

「具体的に言うと、出汁をふんだんに使ったり、みりんや砂糖の甘味を使ったりするようになりました。かつては1日4合のご飯を、ちょっぴりのおかずでモリモリ食べていた生活が、ご飯ちょっぴりと副菜・副食、おかずがメインになっていったんです。従来のローカルからどんどん離れて、今の嗜好になっていきました」

 稲田によると実際、食品業界でも、約10年以上前から「味覚の関西化」が言われているという。「〇〇の素」といった調味料は、従前は基本的に醤油ベースだったが、出汁や甘みをベースにした上で、そこに醤油を加えるような、「主従の逆転」の現象が起きている。

「例えば『エバラ焼肉のたれ』も、最初に出たものは、醤油中心でしょっぱかった。これが関西向けに、甘くてしょっぱくないバージョンのたれを出したところ、関西でこれがヒットし、それが全国の人たちにも広がりました。今では東京でも、そっちの方が中心です」

 ところが、頑なに「東京」の味を守り続ける料理も、いっぽうで存在する。「東京エスニック」として稲田が本の中で取り上げた一例が、東京随一の老舗の街・日本橋で創業170年以上になる「日本橋弁松(べんまつ)総本店」。その弁当の味は、江戸から続く「甘辛の濃ゆい味」だ。弁松は、「日本人のDNAに刻まれた懐かしい味です。味覚だけでなく、情緒にも訴える味でありたいと思います」と web サイトで明記している。日持ちさせるため、肉体労働に耐えられるようカロリーを高くするため、味付けを濃くしているのだ。

 続けて弁松はこう言い切る。

「『江戸っ子は中途半端な味ではなくはっきりとした味を好んだ』『関東の水質が硬水なので、出汁を取る際には昆布ではなく鰹節や煮干しを使い、その生臭さを打ち消すために濃口の醤油をたくさん入れたから』などと言われています。味を薄めるのは簡単です。しかし、それではせっかくの伝統の味がボケてしまいます。弁松の弁当ではなくなってしまうのです」

 稲田は言う。

「まさに、皆さんが自覚している『東京エスニック』です。あそこまでいくとさすがに独特だって気づく。それでもやっぱり東京の一定数の方は、『あれは最も慣れ親しんだ、おばあちゃんの作る味で、何が珍しいのかわからない』って言う人もいるんです(笑)。『あの味が基準じゃないですか!』って。だから、面白いなと思います」

稲田俊輔さん

 一度、口にしたら忘れられない、弁松の弁当。ただいっぽうで、「これがエスニックだ」と自覚してしまうと、また、それはそれで問題が生じるかも、と稲田は言う。

「特に、ローカルグルメとして認定された瞬間から、もう、外の人向けに、どんどんアレンジが進んでしまう。本来のそれとは離れ始めてしまう。大衆に迎合するように、マーケティングが始まってしまう。その点、東京の人は、自分たちがローカルだということに油断して気づいていないから、まだ自然と保護されているわけです」

ピラミッドでなく「円」で食を考える

「ビリヤニ」や「ミールス」といった南インド料理だけでなく、稲田は現在、和食やビストロなど、幅広いジャンルの飲食店25店舗を展開している。稲田の本業は料理人だ。

「東京と名古屋を行ったり来たりしています。飲食店を運営していく上で、新しい料理メニューの開発に従事しています。今はちょうど、名古屋にある和食店『八十八商店』のリニューアルに携わっていて、メニューをひたすら組んだり、食材の仕入れについてリサーチしたりしています」

 南インド料理店「エリックサウス」では、2カ月に1回、コースの内容を変える。スタッフからの発案を受けることもあり、監修的な立場に回ることも増えたという。

 そのいっぽうで、SNSや各メディアでも、盛んに発信を続けている。それが多くの層に共感を持って読まれている。食を分析し発信する論客としての活動も評価が高い。稲田は語る。

「まさに自分の考察の反応を知りたくてやっている。SNSでの発信って、自分の断片的なアイディアメモなんですよね。フラッシュアイディアをひたすらメモしていく。それに対して、他の方からのリアクションがあるわけです。リアクションがあると、アイディアに肉付けができる感覚があります」

 ただのアイディアが、超短編集のような感じに育って、ある時、一貫したテーマで繋ぎ合わされ、一冊の本にする。そういう一連の繋がりのようなものを稲田は感じているという。

「リアクションで多いのは、『よくぞ言ってくれた』。『今まで、何となく思っていたことを言語化してもらって嬉しい』みたいな。もちろん、反対意見もあります。『納得いかない、理解が追いつかない』みたいなこともある。そうなると、『ああ、そうか。自分では当たり前だと思っていたけれど、世の中ではとても珍しいのか』って、相対化できるところがあります」

 特に反響の大きかった発信は、イタリアンワイン&カフェレストラン「サイゼリヤ」の活用術についての文章だ。どれほどコスパに優れた店であるか。いかに正しく「サイゼリヤ」を利用できていない人が多いか。

「わりと、皆が知っているようで知らないことや、皆が知っているものに、違う切り口で光を当てるみたいなのは反響が大きいです」

 他にも、料理店の評価に対して、とかく優劣をつけたがる日本の特質について、鋭くメスを入れた論考もある。稲田は警句を放つ。

「皆、何となくピラミッドのように考えちゃう。頂点があって、そこから劣るものがいっぱい裾野を形成していく、みたいな。むしろ自分はピラミッドじゃなくって、完全に『円』で考えます。円のど真ん中に、皆が大好きなもの、最適解のものがある。でも、最適解だからそれが一番かというと、決してそんなことはなくって、人それぞれ、一番美味しいものが違うわけです。それがいろんなベクトルで、四方八方にいる」

稲田俊輔さん

 食のこだわりの強い人は、どうしても、この円の周縁部に離れていく。食に興味が深まれば深まるほど、円の中心から離れていく。稲田はそういう人たちのことを「周縁の民」と呼んでいるそうだ。

「周縁の一つにいるに過ぎない人たちが、『自分たちは頂点だ』と思い込んじゃっているんです。『いや、違う。あなたは頂点じゃなくて、単にさまざまなベクトルがある中の一番端っこにいる一人に過ぎないんだよ』ということを明確にしないと、いろんな齟齬が起こるんです。いわゆる、マウンティングって言われるような」

「お山の大将」になるのではなく、「周縁の民」として、食の世界を広げるべきだ、稲田はそう主張する。

味わうことよりも作ることを優先してきた

 それにしても、「フードサイコパス」「原理主義者」とまで自称する稲田は、なぜこのように食に関心が収斂されていったのか。

「家族、親族が、食に対する執着が強い。常に食のことを大事に考えているところがあったんです。それで、しぜんと自分もそうなっていった。世の中に出ていくにつれ、『あれっ?』(笑)。なんで皆、こんなに食に対して、あっさりしているんだろうって違和感を覚えたんです。自分や家が異常だっただけか。それこそ『周縁の民』だったのかって気づきました」

 子ども時代、稲田家のある日。
 鹿児島から一家で、フラッと横浜の中華街へ出かける。裏通りにあるちっちゃな店の牛肉そばを食べに行くためだけに。

 また、別のある日。
 鰻と中華が大好きな祖母が、お気に入りの店のランキングを毎年つけて、発表する。
 稲田は笑いながら語る。

「『鰻部門』の今年の1位、ここ! 『中華部門』、ここ。『3年ぶりにあの店が1位に返り咲いたのよ』って(笑)。勝手につけたランキングなのに、祖母は大興奮していました。親族が集まると、その店から出前を取ったりする。そういうことにこだわる家だったんです」

稲田俊輔さん

 母親は、手に入りづらかったイタリア産オリーブオイルの代用にと、スペイン産をようやく手に入れて、ストックして大事に使っていた。父親は、異常に美味しい謎の手作りベーコンを手に入れてきて、子どもたちに食べさせた。

「ベーコンの脂が9割ぐらいあるんですよね。そんなの初めて見るから、ドン引くじゃないですか。でも『いや、これが本物だ』と。言われて食べてみたら、もう美味しくて。『今までのは何だったんだ』みたいな、そういう経験は、日常のことでした」

 京都大学に進み、飲食店でのアルバイトを経て、いつしか自宅で友人にフルコース料理を振る舞うようにまで、稲田は料理が好きになった。

「自分が味わうことよりも、むしろ作ることを常に優先させてきたような気がします。感覚としては、厚紙を切って貼ったり、粘土をこねて形を作ったりするような、いわゆる図画工作の延長でやっていた感覚があります」

 卒業後、稲田は大手飲料メーカーに就職する。経営企画の部署を経て、名古屋での営業担当部門に異動し、現場の最前線として奔走した。この飲料メーカーには、新たな飲食店を企画する部署があり、当初はそこを志していたという。ところが、先輩たちからの知見を得るうち、その部署に行くモチベーションを失ってしまったのだという。

「なぜかっていうと、そこは『企画屋さん』に過ぎなかったんです。お店の企画を作り、メニュー開発をしたら、今度はその専門の人に(企画を)投げる。店舗のデザインをするといっても、デザイナーに投げる。大本のプロデュースはするけれど、実際に自分の手を動かすわけじゃない。作るのは、別の人たちなんですね」

 店をつくりたい。それは間違いない。けれども、あくまで自分自身の手で料理を作り、自分自身の手でお客さんのテーブルに提供したい。僕がやりたいのは、単純にそれだ。そう気付いた稲田は、会社を退職した。入社5年目のことだった。

 その後、友人から頼まれ店を手伝い、それをきっかけに、友人とともに「円相フードサービス」を設立。料理の道に専念することとなって、今がある。

「これを好きになると決めた」

 2011年、東京駅八重洲地下街に南インド料理「エリックサウス」をオープンし、今日の南インド料理ブームを牽引する存在となる。「ビリヤニ」とともに、いまブームとなっている「ミールス」は、主に南インドで食される「ベジ(菜食)料理」を中心とした定食のことだ。世界有数の稲作地帯であるインド南部では、さまざまな種類の米が食べられている。カレーは、油脂が少なく健康的だ。米を中心に、豆や野菜を使った料理がワンプレートに並ぶ。稲田は語る。

「南インド料理は、自分にとって完全に未知の料理でした。世の中の美味しい料理は、大体わかったつもりになっていました。初めて食べるものでも、わりと即、理解できる自信があったところに、南インド料理というものが久々に現れた。わけのわからないものだったんです。最初はそれが美味しいのかどうかさえ、わからなかった。でも、なぜかインスピレーションで、『これを今、美味しいと思って食べているかわからない。好きか嫌いかわからないけれど、これを絶対、好きになりたい』って」

稲田俊輔さん

「美味しかったから」「好きになったから」ではなく、「これを好きになると決めた」。稲田は当時の心境を振り返り、そう語った。南インド料理はとにかくカラフルで鮮やか。どこか南国的な、キッチュな印象。「こんなビビッドな色彩の料理を、お店でお客さんたちが喜んで食べたら……」。そんな光景が浮かび、稲田は興奮を覚えたのだそうだ。

 オープン当初、平日には「カレーライス目当て」のサラリーマンが訪れた。ところが、土日になると、遠方から「南インド料理ガチマニア」がどっと押し寄せた。ビリヤニ、ミールスが飛ぶように売れ、その余波が平日にも押し寄せるまで、そう時間はかからなかった。新たに、ビリヤニやミールスを、「好きになることを決めた」客たちが増えたのだ。稲田は快活な表情で、こう語る。

「『周縁の民』が、まさに広がっていったんです」

 大げさに言ってしまえば、稲田の仕事は、日本人の新たな食文化の醸成を担うことだ。「周縁」を拡げ、「フードサイコパス」を増やし、日本の食文化の布地に風合いを与えていく。南インド料理を世に広めた彼が今、気になる外国料理はあるのだろうか。

「僕はずっとわりと昔から、中東が来る、と。でもブームが全然来ないから、『来る来る詐欺』なんですけど(笑)。今、ビリヤニが流行っている、という文脈で語られるのであれば、それに近い中東料理は可能性がある、と思います。ただ、中東料理は油を多く使うので、量を3分の1ぐらいに『魔改造』しないと、日本人に受けないかも」

 あくなき探求心を秘め、稲田は新メニューの創作に明け暮れる。

稲田俊輔さん愛用の品
iPad、キーボード、紙のノートパッド。この3つは仕事のアイディアを練るうえで欠かせない。レシピの細かい数値もiPad上で計算する。マルマン社のノートパッドは方眼罫で、メニュー表のラフを描くのにも適している

稲田俊輔(いなだ・しゅんすけ)
鹿児島県生まれ。料理人、飲食店プロデューサー、「エリックサウス」総料理長。京都大学卒業後、飲料メーカーを経て円相フードサービスの設立に参加。2011年、東京駅八重洲地下街に南インド料理店「エリックサウス」を開店。南インド料理とミールスブームの火付け役となる。「」での発信に加え、レシピ本『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分! 本格インドカレー』『ミニマル料理』、エッセイ『おいしいもので できている』『食いしん坊のお悩み相談』、22年には初の小説『キッチンが呼んでる!』を刊行するなど、執筆活動は多岐にわたっている。

稲田俊輔さん

若林 踏さん × 月村了衛さん(「ミステリの住人」第1回)◆ポッドキャスト【本の窓】
作家を作った言葉〔第24回〕図野 象