著者の窓 第36回 ◈ 藤ノ木 優『-196℃のゆりかご』
命を扱ったミステリーがあってもいい
──『-196℃のゆりかご』は藤ノ木さん5冊目の小説にして、初の単行本。高校生の主人公・明日見つむぎを中心に、さまざまな家族の形を描いた長編です。着想の原点を教えていただけますか。
これは今から4、5年前、小説を書き始めた頃に思いついた話なんです。当時、綾瀬はるかさん主演の『義母と娘のブルース』というドラマがあって、こういう複雑な親子関係を描いた物語はもっと書かれるべきだと感じました。産婦人科医として仕事をしていても、家族の形というのは本当にさまざまだと思います。
特に体外受精などの生殖医療については、一般的に知られていないことが多いですし、これを使ってミステリーを書いたら絶対面白いものになるはずです。人を殺すことにこだわるミステリーではなく、命を生むことにこだわるミステリーがあってもいいんじゃないかと。ただ初期の原稿段階ではかなりシンプルなストーリーだったので、今回構成から大幅にいじって、複数の視点が交差する物語に仕立て直しました。
──両親を事故で亡くしたつむぎは、母方の遠い親戚であるという義母・奈緒と18年間ともに暮らしてきました。人付き合いが苦手な奈緒と、奈緒に母親らしいことを求めるのを諦めているつむぎ。二人の間にはほとんどコミュニケーションがありません。
つむぎのキャラクターを描くうえで意識したのは、ヤングケアラーと言われる若者たちです。養育してくれる奈緒はハンディキャップがあり、しかもほぼ血が繋がっていないと18年間信じて生きてきた。そういう環境で育ったつむぎは、いやでも大人にならざるをえませんし、自分の人生にも過度な期待を抱けなくなるでしょう。もし実の親子だと知っていたらもっと激しくやり合って、奈緒にも本音をさらけ出していたはずです。
──ある日、奈緒が仕事中に倒れて緊急入院。駆けつけたつむぎは、担当医師によって二人が血の繋がった親子であることを知らされ愕然とします。「私は一体何者なのか?」という疑問が、つむぎの中で渦巻きます。
奈緒が義理の母親であるからこそ、つむぎは色んなことを我慢し、感情を押し殺して生きてきた。その前提が覆されてしまったのですから、当然驚くでしょうし、怒るのも当然の反応です。現実でも、AID(非配偶者間人工授精)によって生を受けた子供たちが、大人になって父親とは血が繋がっていないことを知り、それまでの親子関係を受けいれられなくなる、というような問題が起こっています。奈緒は奈緒で18年間、娘に嘘をついてきたという後ろめたさがあり、その事実を突きつけられたために、深い精神的なショックを受けるんです。
命の定義を問いかける、凍結胚保存タンク
──その後、自分が体外受精で生まれた子供だと知ったつむぎは、カルテに書かれていた明日見結衣子という初老の医師のもとを訪ねます。なぜ結衣子はつむぎや奈緒と同じ姓なのか。謎がさらに深まります。
つむぎと結衣子が初めて顔を合わせるシーンに、一番苦労したんですよ。ある事情から結衣子は長年つむぎに会うことを避けてきた。そんな二人が顔を合わせたら、どんな空気が流れて、どんな言葉が交わされるのか。わずか数ページのシーンですが、ここだけで1か月くらいかかりました(笑)。結衣子は子育てに失敗した母親でもあり、自分の医療行為が正しかったのか迷い続けている産婦人科医でもある。重たいものを担わせているキャラクターなので、なかなか描くのが大変でした。
──法的にグレーな、他人の精子や卵子を使った体外受精を手がけていたともされる結衣子。現在は隠遁して、アルコールに逃避する日々を送っています。
結衣子も法律がきちっと定まっていたら、グレーな医療行為に手を染めなかったと思います。法整備が追いついていない、でも切実にそれを求めている患者がいる。そんな時、医師はどうするべきなのか。自分も結衣子と近い立場にいるので、いろいろ考えました。しかし結衣子の医療行為によって、ある家族に大きな影響を与えてしまった。果たしてそれは正しいことだったのか。結衣子は何年経ってもそれを考え続け、自責の念に駆られているんです。
──つむぎが生殖医療に偏見を抱いているのを知った結衣子は、不妊治療専門のクリニックにつむぎを案内します。しかしそこで体外受精の手順を知ったつむぎは、彼女にとってショッキングなものを目にします。
生殖医療については一般的な認知が進んできていると思います。体外受精も2022年から保険適用されるようになりましたしね。しかし知識として知っているのと、自分がその当事者であるというのは別問題。1500の凍結胚が保存されたタンクを見て、つむぎが気を失うというシーンはこの物語を書き始めた時から、頭の中にありました。これからのルーツ探しの物語は、両親が誰かという問題だけではなく、自分がどのような方法で生まれたかも大きなテーマになってくるのではないでしょうか。
──タイトルの『-196℃のゆりかご』も、つむぎのルーツである凍結胚保存タンクを指しています。このタンクにどんな感情を抱くかは、人によって異なるでしょうね。
命の定義にはっきりした答えはないんです。日本の法律では妊娠22週までの胎児は、命として認められていません。じゃあ凍結胚保存タンクの中の胚は、命とは呼べないのか。それは人それぞれ感じ方が異なりますよね。産婦人科医として日々、このゆらぎに直面しているので、ぜひ読者にも考えてみてもらいたいと思いました。『-196℃のゆりかご』というタイトルは、「マイナス」という響きがあるしどうかなと不安だったんですが、結果的には正解だったと思います。
料理は自分の小説の武器だと思います
──つむぎがクリニックで偶然出会ったのは、高校の担任・佐伯峰子でした。不妊治療を続けているという峰子は、つむぎに胚の移植に立ち会ってほしいと懇願します。
産婦人科にはどうしても子供を産みたいという患者さんが、たくさんやってきます。その切実な思いに日々触れていることが、峰子先生の言動に反映されていると思いますね。不妊治療の裾野が広がってきているとはいえ、患者さんたちがどんな思いで治療を受けているのかまでは、あまり知られていません。体や心にどれだけの負担がかかるのか、ということも含めて、読者に現状を知ってもらいたいという意図もありました。
──峰子と並んで、重要なサブキャラクターにつむぎの幼馴染・浅田純がいます。父子家庭に育った純は、つむぎと支え合ってきましたが、その関係も刻々と変化していきます。
4、5年前の初稿では、僕にまだ筆力がなかったこともあり、幼馴染は都合のいい〝お助けキャラ〟でしかありませんでした。今回、つむぎと対峙できるのはどんなキャラクターかあらためて考えて、純にも複雑な家庭の事情を与えることにしたんです。しかし欠落を抱えた者同士の友情は、一方の環境が変化すると揺らいでしまうことがある。母親に捨てられた純は、つむぎが体外受精で生まれたことを知って、愛されていないのは自分だけだと、つむぎから距離を取ってしまうんですね。相手を大切に思っていながら、なかなかうまくいかない。そういう関係性も描きたいことのひとつでした。
──奈緒の過去を知ったつむぎは、彼女の得意料理だった肉じゃがを作ることで、その心に迫ろうとします。微笑ましくも、印象的なシーンです。
料理は人を映す鏡というか、その人や家族がどんなものを食べてきたかで、キャラクターを表現することができると思うんです。奈緒がよく作っていた肉じゃがは、読者にもイメージしやすいですし、関東と関西で作り方に違いがあるので、ルーツ探しという物語にもぴったりなメニューだと思いました。簡単そうに見えて奥が深いですしね。つむぎも大失敗していましたが、ちゃんと作ろうとすると手間がかかる一品なんです。
──藤ノ木さんのデビュー作『まぎわのごはん』は、日本おいしい小説大賞に応募された作品でした。それ以外の作品でも、料理はよく出てきますね。
料理が好きなんです。作るのも食べるのも、人が作っているのを見るのも好きです。料理のことが書けるというのは、僕の小説のひとつの武器じゃないかなと思っています。医療という一般社会からやや離れた世界を描く際に、料理という身近なモチーフが日常との橋渡しをしてくれる。これからも料理のことは、書いていくだろうと思いますね。
種明かしの先にあるドラマこそ大切
──物語の後半、つむぎの出生の秘密が明かされ、なぜ奈緒が義理の母を名乗っていたのか、という最大の謎にも答えが示されます。まさか二人の間にこんな真相があったなんて、驚きました。
ありがとうございます。でも後半になるにつれて、つむぎの出自の秘密を知ることが、物語の主目的ではなくなっていくんです。さっき生殖医療を扱ったミステリーと言いましたが、謎解きをメインにしているわけではありません。種明かしをして終わりではなく、むしろその先に続いていくものを描きたい。つむぎと奈緒の関係についても、隠されていた部分というのはそこまで大切じゃないんです。二人がわかり合って、新しい関係を築いていければいい。そんな気持ちでエピローグまで書き上げました。
──つむぎがさまざまな経験を経て、世の中に「名もない色」が溢れていることに気づくというシーンに胸打たれました。人の数だけ家族の形があってもいい、と思わされます。
そうですよね。産婦人科医をしていると本当にそう感じます。家族をめぐる議論は現実には即さないような極端な意見ばかりが飛び交っているような気がするのですが、それでは有意義な議論は生まれません。この小説が情報を得るきっかけになれば嬉しいですし、何より命を扱ったミステリーがもっと増えたらいいですよね。多くの作家によって生殖医療にまつわるミステリーが書かれて、ひとつの分野として盛り上がればいいと思っています。
──ではあらためて、これから本書を手にする読者にメッセージを。
特殊な題材を扱っているように見えますが、読者を選ばない物語になっていると思います。誰にとっても共感できる部分、胸に刺さる部分があると思うので、ぜひ読んでみてください。この物語はフィクションですが、そう遠くない未来、つむぎと類似のケースが報告されるだろうと予測しています。そうなった時に、この小説はあらためて読み返されることになるんじゃないでしょうか。デビュー前に書こうとしていたことは、全部書き切ることができました。色んな意味で、今出すことがよかった作品だと思っています。
『-196℃のゆりかご』
藤ノ木 優=著
小学館
藤ノ木 優(ふじのき・ゆう)
産婦人科医・医学博士。2020年、第2回日本おいしい小説大賞に「まぎわのごはん」を投稿。21年、同作を加筆修正し小説家デビュー。その他の著書に『あの日に亡くなるあなたへ』『あしたの名医 伊豆中周産期センター』などがある。