『慈雨』(柚月裕子著)は慟哭の長編ミステリ-。著者にインタビュー!
かつての部下を通じて、ある事件の捜査に関わり始めた主人公は、消せない過去と向き合い始める……。様々な思いの狭間で葛藤する元警察官が真実を追う、日本推理作家協会賞受賞作家渾身の長編ミステリー。その創作の背景を、著者にインタビュー!
【ポスト・ブック・レビュー 著者に訊け!】
日本推理作家協会賞を受賞した女流作家が放つ慟哭の長編ミステリー
『慈雨』
集英社 1600円+税
装丁/泉沢光雄
柚月裕子
●ゆづき・ゆうこ 1968年岩手県生まれ。山形県在住。2007年「待ち人」で山新文学賞入選及び、やましん文芸年間賞天賞。08年『臨床真理』で第7回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞しデビュー。13年には『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞を受賞するなど、目下注目の俊英の1人。著書は他に『最後の証人』『検事の死命』『パレートの誤算』『ウツボカズラの甘い息』『あしたの君へ』等。
出来事をどう思うかはその人次第だとわかっていても割り切れないのも人間
私事で恐縮だが、筆者は折角の本を汚したくなくて、帯やカバーを全て外してから読む、生来の貧乏性だ。そんな事前情報の一切ない状態で柚月裕子氏の最新作『慈雨』を読み進め、「えっ、これ、ミステリーだったんだ?」と驚くことになった。
主人公は定年後、夫婦で四国を巡礼する元群馬県警の刑事〈神場〉。その道中、地元で起きた幼女殺害事件や16年前の事件を巡るある悔恨、旅先で出会った人々の悲しい過去にミステリーとも思わず引きこまれたのだが、そもそも順序が逆だったのかもしれない。
彼が遠く四国にいるのも、引退した元警官であるのも、探偵役が予め負荷を負った推理小説の王道。いわゆる安楽椅子探偵や、捜査権を持たない私立探偵のように、神場が現場から遠く離れた元刑事だから、もどかしく、ハラハラするのである。
だがジャンルなど、実は関係ないのかもしれない。これは人々のままならない人生を、時に冷たく、時に優しく包み込む、何も言わない雨の物語なのだから。
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「元々私は何かしら後悔を抱えた人が生き直す、再生の物語が書きたくて、神場夫婦を巡礼に行かせたんです。ちょうどこれを書き始めたのが霊場開場1200周年にあたる年で、お遍路さんにも一番札所から順に回る順打ちと特に重いものを抱えた人の逆打ちがあり、物凄く奥が深いらしいんです。しかも八十八所を全部回ると2か月はかかる。42年の警官生活に終止符を打った元刑事が妻〈香代子〉と歩く中で、胸に去来する思いだったり、前に進むには決着をつけなきゃならない過去だったりを、それこそ60年の人生分、追ってみようと思いました。でも言われてみれば、確かに安楽椅子探偵ですよね。今、気がつきました(笑い)」
山形に住み、地元の小説教室に通ったことから、作家の道へと進んだ柚月氏。『検事の本懐』、『孤狼の血』など話題作を続々発表し、「原点は子供の頃に読んだシャーロック・ホームズ」という氏は、大事件から地方紙の片隅の小さな事件まで、それがなぜ起き、どんな人間の真実が隠れているのか、行間に目を凝らしてしまうと語る。
「例えば今回扱ったような事件が起きると酷い、許せないと私も思う。特に弱者の犠牲には心が痛みますが、私は女だから、それがどんなに惨いかを書けるのかもしれない。私がもし男で、同じことをする可能性があったら、怖くて書けないでしょうし、人間こそがミステリーだという思いが、常に私の出発点なんです」
愛犬を娘〈幸知〉に託し、新婚旅行以来の旅先に四国を選んだのは、事件被害者や殉職した仲間を弔うためだった。香代子とは県北部〈雨久良村〉の駐在時代に先輩〈須田〉の紹介で結婚して32年。以来仕事一筋で口の重い神場を明るく支えてくれた妻は久々の2人旅が余程嬉しいのか、山道を鼻歌まじりに進んでいく。
だが4番札所まで参拝を終えた時のこと。宿のテレビでは群馬県尾原市に住む〈岡田愛里菜ちゃん〉7歳が遠壬山の山中から遺体で発見されたと報じ、神場の中で苦い記憶が甦る。それは16年前、県警の捜一時代に手がけた〈金内純子ちゃん殺害事件〉だった。同じ遠壬山で少女の遺体が発見されたこの事件で県警は、〈八重樫一雄〉36歳を逮捕。本人は無実を主張したが、体液のDNA鑑定が決め手となり、懲役20年の実刑が確定していた。
この鑑定を覆しかねないある事実を、神場は妻にも幸知と交際中の元部下〈緒方〉にも秘密にしてきた。しかし16年前と似た犯行に彼の心は騒ぎ、巡礼の道すがら、緒方や現捜一課長〈鷲尾〉と連絡を取り、遠距離推理に挑むことになる。
最後は純粋な境地に戻れるかどうか
神場は言う。〈自分は人生で、二度、逃げた〉と。2度目は16年前だが、1度目は子供の頃、親友をイジメから救えなかったことで、彼の生い立ちから駐在時代や刑事になってからのあれこれを、読者は読むことになる。
出色は雨久良の〈米泥棒〉事件だ。ダム建設の賛否に割れる村では双方が犯人説を流し、その子供が苛められてもいた。神場は執念の張込みで真犯人を逮捕し、村人をこう諭した。〈一番の被害者は、窃盗にあった家じゃない。村の子供たちだ〉〈大人たちの諍いで傷ついた子供の心は、ずっと治らないのかもしれないんだぞ〉
また巡礼中に寄った喫茶店で常連客が当然のように預ける〈コーヒーチケット〉や巡礼者に対する〈お接待〉の風習など、人間の善意を前提とした古き佳き空気は、他の柚月作品にも共通する。
「確かに『孤狼の血』にもコーヒーチケットは出てきますが、そうか、古いんだ(笑い)。でも道を訊かれたら親切になさいと教わった昭和育ちの私はお接待文化を素敵だと思うし、人間を常に好きでいたい。
米泥棒も本筋とは無関係ですが、神場が刑事である前にどんな人間かを書かないと、再生は描けなかった。駐在時代がゼロからの出発だとすれば、信用も財産も失う覚悟で過去と向き合う生き直しはマイナスからのスタート。でも人間、最後は元いた純粋な境地に戻れるかどうかなのかなって」
そんな神場に地元の老女〈千羽鶴〉が言う。〈人生はお天気とおんなじ〉〈ずっと晴れとっても、人生はようないんよ〉と。そして彼は思うのだ。〈どうしたら鶴のように、わが身に起こった不幸を、自然に擬えて割り切ることができるのか〉と。
「私自身、世の中で起きるどんな出来事も、それ自体に意味はないと思っていて、例えばコップが割れて悲しむか、新しいコップが買えると思うかは、その人次第。そうわかってて割り切れないのも、人間なんですけど」
そうした柚月作品を貫く静かな目は、自身、東日本大震災で両親を失った経験と関係があるのだろうか。
「どうでしょう。お遍路に行ったのはあくまで取材ですし、その初日に遭遇した台風が表題に繋がった。それを自然の猛威と思うか、恵みと思うかは人にもよるし、雨は何も語ってくれないんだなって……。それほどあの震災がまだ私の中では意味づけできていないということかもしれません」
やがて神場がたどりつく事件の真相や、緒方や今は亡き仲間との絆。妻子との関係や、彼自身の過去との決着にしても、何もかもが一件落着とはいかなかった。しかしそれが生きるということかもしれない。ちっぽけで弱く、それでも生きずにいられない、人間の物語である。
●構成/橋本紀子
●撮影/国府田利光
(週刊ポスト2016年12.9号より)
初出:P+D MAGAZINE(2017/01/14)