【著者インタビュー】旗手啓介『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』

1993年5月、カンボジアで日本人警察官一行が銃撃され、一人が亡くなった。それから23年もの間、真相は明かされないままだった――。PKOの現実を明らかにする渾身のドキュメンタリーを書籍化。その執筆の背景を著者に訊きました。

【ポスト・ブック・レビュー 著者に訊け!】

数々の賞を受賞した渾身のドキュメンタリーを書籍化 封印されていたPKOの現実とは――

『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』
告白 書影
講談社 1800円+税
装丁/岡 孝治

旗手啓介
著者_旗手啓介1
●はたて・けいすけ 1979年神奈川県生まれ。一橋大学社会学部卒。NHK入局後、福岡局、報道局社会番組部、大型企画開発センターを経て、15年より大阪局報道部ディレクター。16年8月放送の「ある文民警察官の死〜カンボジアPKO 23年目の告白〜」は文化庁芸術祭テレビ・ドキュメンタリー部門優秀賞、ギャラクシー賞大賞、放送文化基金賞最優秀賞等を数々受賞。「執筆を任せられたのはチームの中で一番年下だったからです(笑い)」。170㌢、72㌔、B型。

PKOの危険性も含めて議論し、事実を検証することが我々日本人に問われている

本来、23年という歳月は決して無為に過ごしていい代物ではない。しかしこの国には何ら検証もされずに放置されてきた事柄も多々存在し、その一つ、カンボジアでの国連平和維持活動(PKO)に光を当てたのが、NHKスペシャル「ある文民警察官の死」(16年8月放送)だった。
同番組の制作を手がけ、このほど『告白』を上梓した旗手啓介氏は、事件当時中学3年生。93年5月4日、カンボジア北西部アンピルで日本人警察官一行が銃撃され、岡山県警の高田晴行警部補(当時33)が死亡したとの報道も、「何となく憶えている程度」だったという。だが縁あって山崎裕人・元日本文民警察隊長と出会い、元隊員の消息を訪ね歩くと、あの日の記憶は彼らの間ですら封印されたままだった。ある隊員は言う。〈自分たちにとっては二十三年経っても、昨日の出来事〉だと。

「端緒はある人に山崎隊長を紹介されたことでした。山崎氏は、当時の隊員たちや、国連、日本政府とのやりとりを詳細に記録した日記などをもとに『総括報告』と題した一冊の文書をまとめていて、このままでは高田さんの事件が人々の記憶から消え、歴史の闇に埋もれてしまうという憤りから提供を申し出てくれた。実は他の元隊員の方々も当時のことは誰にも話せずにいたらしく、隊員同士ですら共有してこなかった事実を繋ぎ合わせることが、僕らの仕事だと思いました」
幸い素材は山ほどあった。山崎は常々、〈初めての警察分野における人的国際貢献に参加した者として〉記録を残す責任を説いており、本書では各隊員の日記やビデオ録画の未公開映像を元に事件の真相をつぶさに検証。また、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の明石康代表や河野洋平官房長官ら、ともすれば悪役にされかねない側からも率直な本音を引き出している。
「ちょうど取材を始めたのが安保法制の議論が沸騰した15年夏で、明石さんたちにすれば、『20年前と何も変わってないじゃないか』という虚しさもあったと思う。日本は湾岸戦争の時に人は出さずに金を出し、〈小切手外交〉と非難されたトラウマから、カンボジアで初の人的貢献に踏み切る。だがPKOはむしろ危険を前提として行う、、、、、、、、、、ものなのだと、率直な議論を望む声は現場にはあった。平和、平和と口で言うだけでは日本は孤立するという柳井俊二・外務省条約局長の信念はある意味ブレておらず、何がどう危険なのか、今なお検証すらされていない現状を憂うからこそ、皆さん、覚悟をもって証言してくださったのだと思います」
91年10月、20年以上内戦が続いていたカンボジアではポル・ポト派ら4派が和平協定を締結し、UNTACの下、93年5月の総選挙に向け史上最大のPKOが実施された。が、日本ではPKO協力法の審議を巡り国会が紛糾。各国の活動開始から3か月遅れで可決に至るが、議論の多くは自衛隊派遣の是非に費やされた。
そうこうして92年10月、警察庁キャリアの山崎以下、文民警察隊75名は成田を出発。ただでさえ出発が遅れる中、準備は万端とは言えず、山崎は書く。
〈不毛な“霞が関の論理”が、われわれの派遣中のさまざまな懸案の処理においても顔を出し、私だけでなく、隊員たちの精神衛生を損ねることが多かった〉
現にこの遅れは大きかった。UNTACが提示した任務地にはポル・ポト派が武装解除を拒むタイ国境の危険地帯アンピルも含まれ、自衛隊のキャンプ地タケオとは雲泥の差。文民警察はまたもわりを食うが、山崎はこの提示を呑み、アンピル隊の隊長にタイ大使館で勤務経験もある神奈川県警川野邊寛警部を指名する。
「高田さんを目の前で亡くし、ご自分も重傷を負った川野邊さんは、最も消息が掴めなかった一人でした。何とか人づてに連絡を取ると、あの時のことは家族にも話してないし、話しても誰も理解できないだろうと。
僕らにできたのは彼らが抱えてきた事実を受け止め、点から線、線から面に繋げていくことくらいでした」

「平和維持」にも各国の思惑がある

文民警察隊の過酷な日常を知るにつけ、覚えるのは猛烈な怒りだ。武器携行は許されず、丸腰の彼らは中古の銃を15㌦で買い、ポル・ポト派でも穏健派のニック・ボン准将と関係を築くが、93年4月に日本人ボランティア中田厚仁氏が殺害され、翌週は平林新一隊員が襲われてなお、政府は派遣の前提となる〈停戦合意の成立〉は崩れていないと主張。現場の声は一切届かない中、翌5月にはアンピル近郊を移動中の車列が護衛のオランダ海兵隊もろとも銃撃されて死者1名、重軽傷者9名を出したあの事件が発生。その絶望的な温度差は日本で漫然としていた私たちにも痛切な悔恨をもって跳ね返ってくる。
「仮に襲撃事件がポル・ポト派の犯行となればUNTACは厳しい立場に置かれ、国連の平和維持といっても、各国の思惑やパワーゲームと無縁ではない。その現実は現実として直視した上で何とかやるしかない難しさに、僕自身、初めてリアルに触れた気がしました」
中でも川野邊が23年ぶりに現場を訪れ、ニック・ボンに真相を質すべく行方を追うくだりは、胸に迫る。古い写真を手に村々を歩き、ついに再会を果たした彼の憎しみは、今では政府軍で戦いの矢面に立ち、自らを〈戦う道具〉と呼ぶ相手の近況を知るにつれて変化し、一体誰を憎めばいいのかと途方に暮れてしまうのだ。
「番組では描ききれませんでしたが、相手が近くにいると聞いて唇を震わせた川野邊さんの怒りはいつしか相手への共感に転じ、ニック・ボンも『あれはポル・ポト派の犯行だ』と食い下がる川野邊さんに『貴方がそう思うのは仕方ない』と。彼も結局は組織に翻弄された一人で、川野邊さんはその日の日記に書くんです。〈彼もまた内戦の犠牲者であったのかもしれない〉と。
日本ではPKOというと右か左で議論されがちですが、放送後は『現場の実態が初めて分かった』と右の人も左の人も意見を寄せてくれました。危険性も含めて率直に議論し、事実を検証することが、メディアを含めて我々日本人に問われていることだと思います」
各国が詳細な検証報告を編む中、日本では箝口令がしかれたかのように時だけが過ぎた。その23年間の重さについて今一度考えるためにも、番組及びこの労作に関わった全ての人に感謝したい、全国民必読の書だ。

□●構成/橋本紀子
●撮影/国府田利光

(週刊ポスト 2018年2.2号より)

初出:P+D MAGAZINE(2018/07/15)

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